13

「朝早く出たのはね、まあ……ちょっと、ルンと顔を合わせづらかったからなんだけど……。なんでかっていうのは、聞かないでくれると嬉しい」


 そう言われると気になってしまうけれど、ルウンにとってはトーマが今ここにいる事が何よりも大事だから、顔を合わせづらかった理由なんて、知らなくても一向に構わない。


「いつ、帰ってきた?今?」


 ルウンの問いに、トーマは困ったように笑って頬をかく。

「いや、実はもっと前からいたんだ。でも……なんか、入りづらくて」

 もっと前といえば、ルウンには一つ思い当たる節がある。

 午後のお茶を準備している最中に、ほんの僅かにだけれど、ドアノブが揺れるような音が聞こえた気がしたのだ。

 けれど結局、どんなに見つめても誰も入っては来なかった。

 だから気のせいだと思っていたのに、もしかしたらあれは、気のせいではなかったのかもしれない。今となっては、どちらでも構わないけれど。

 トーマがここにいる。今はそれだけで充分で、それ以外は何もいらない。


「会いたかった」


 言葉は、自然と零れ落ちた。

 ああきっと、お話に出て来た少女も、こんな気持ちだったのだ――。

 あんなにツキツキと痛かったのが嘘のように、今は胸の中が喜びや嬉しさで満たされている。


「一人ぼっち、はね……寂しいから」


 同じだったのだ。一人ぼっちだった魔法使いの元には、優しい少女が訪れたように、ルウンの元には、トーマがやって来た。

 日向の匂いがする、旅人が。

 別れの時は近くて、それはどうしようもなく辛いことではあるけれど、それでも出会えてよかったと思える。

 引き止めはしない。旅人は、決して引き止めてはいけないものだから。

 その代わり、その存在を刻み込むように、強く強くしがみつく。

 すると、ルウンの顔に影が差し、次の瞬間にはすっぽりとトーマに包み込まれていた。

 背中に腕が回されて、柔らかく抱きしめられる。

 がむしゃらにしがみつくルウンとは違い、包み込むトーマの腕は、壊れ物を扱うように優しい。


「……困ったな。離れがたくなっちゃうよ」


 吐息に混じって零れ落ちたようなそのセリフは、きっと聞かせるためではなくただの独り言だから、ルウンはそのまま抱きしめられる感覚に浸り続ける。


「ルンは言ってくれたよね、“帰ってこないかと思った”って。それを聞いたとき、ルンにとってこの場所は、僕が帰ってきていい場所なんだって思って凄く嬉しかった」


 顔を上げれば、トーマが言葉通り嬉しそうに笑っている。けれどその瞳の奥には、隠しきれない寂しさも滲んでいた。


「でも僕は……行かなくちゃいけない」


 自分に言い聞かせるようにして、トーマは抱きしめる腕の力を弱める。

 ルウンもそれに合わせて上体を起こすと、真っ直ぐにトーマと視線を合わせた。


「ただの旅人なら、ここで旅を終わりにしても良かったんだけど。僕は……旅の物書きだから」


 だからまだ、終わらせられないのだとトーマは言った。


「まだまだ行きたい場所があって、見たいものがあって、書きたいものがあるんだ。だから、僕は行くよ」


 ルウンは、寂しい気持ちを押し込めてコクっと頷く。


「……でもね、もしも…………もしも、ルンが許してくれるなら」


 言いづらそうなトーマの背中を押すように、ルウンはまたコクりと頷いて見せた。

 トーマの瞳は真っ直ぐにルウンに向いていて、ルウンの瞳もまた、真っ直ぐにトーマの姿を映している。


「ここに……帰ってきても、いいかな?……きっと僕は、また何度でも旅に出ると思う。でもその度に、何度でも、帰ってきていいかな……?」


 嬉しかった。寂しさももちろんあるけれど、それを上回る程に、ルウンは嬉しかった。

 だからルウンは、返事の代わりにもう一度トーマに抱きつく。

 でも、トーマが返事を待って困惑していることに気がついたから、顔を上げてちゃんと頷いた。


「……帰ってきて。何度でも」


 例えその度に、新しい別れが待っているのだとしても。何度だって、迎えようと思った。

 別れの時は、きっと何度繰り返したって寂しいけれど、それが永遠の別れでないのなら、何度だって耐えられる。


「あのね、トウマにね、言いたいことある」

「奇遇だね、僕もだよ」


 笑顔のトーマに、お先にどうぞと促され、ルウンは困ったように眉根を寄せた。


「……でも、まだ……見つけてない」


 伝えたかった言葉は、胸の内に渦巻くこの感情の名前が、ルウンにはまだ分からない。


「だから、次!次に帰ってくる時までに、見つける」


 トーマがいない間、ルウンもまた自分なりに世界を広げてみようと思った。

 行商人を待つばかりでなく、自分から町まで買い物に行こう。近隣の村人と交流を持とう。そうやって、まだ知らないことをたくさん知っていけば、いつか分かるはずだから。

 トーマに伝えたい、この想いが。きっと簡単なはずの、その言葉が。


「……そっか。それじゃあ、僕が言いたかったことも、その時一緒に言うことにするよ」


 不思議そうに首を傾げるルウンに、トーマは照れくさそうに笑った。


「ルンが僕に言いたいこと、見つけてくれるのを待っているから」


 そう言ってトーマは、優しくルウンの頭を撫でた。

 なぜトーマの言いたいことは今聞けないのか、一緒でなければならないのか、疑問はフツフツと湧き上がっていたけれど、頭を撫でられるのが心地よくて、それも徐々に薄れていく。


「ああ、そうだ。せっかく町まで行ったのに、ルンにお土産を買いそびれちゃった。今度帰ってくるときは忘れず買ってくるよ。何がいい?」


“お土産”とは、なんて素敵な響きだろう。

 途端に瞳を輝かせたルウンは迷うことなく口を開く。


「本!トウマの、本がいい!」


 思いがけない速度での返事とその内容に、トーマは目を見張る。


「……本当にそれでいいの?西方一大きな中心地の街にも行く予定なんだ。だから、もっと素敵なものがいっぱいあるよ」


 例えば、アクセサリーだとか洋服だとか、女の子が喜びそうな物は確実に揃っている。

 食べ物は流石にお土産にはできないけれど、それ以外ならできるだけルウンの希望に添えるようにするつもりだったのに


「本がいい!トウマの本」


 ルウンの答えは変わらなくて、トーマは諦めたように笑って頷いた。


「字、覚える。でも最初は、トウマ読んで」

「えっ!?僕が読むの……?」


 自分で書いた物語を自分で読み聞かせるというのは、中々の苦行であるが、ルウンはお構いなしに頷いて見せる。

 嬉しそうなその顔を見ていると、とても嫌とは言えなかった。


「……分かった。頑張るよ」


 恥ずかしさを飲み込んで諦めたように笑って見せると、ルウンは花が咲いたように笑って頷いた。

 その笑顔に、トーマの胸がきゅうっと引き絞られる。

 愛しくて、愛しくて、堪らなかった。


「ねえ、ルン」


 不意にそのことを伝えてしまいそうになって、トーマは慌てて口を閉じる。

 今そのことを伝えてしまったら、きっとルウンも探していた言葉に気がつく。でも、それではダメなのだ。

 できることなら、ルウンに自分で見つけて欲しい。

 だからトーマは、不思議そうに見上げてくる視線に誤魔化すように笑ってみせる。


「月が、凄く綺麗だよ」


 首を反らすようにして真上を向いたルウンは、すぐさまもぞもぞと体の向きを変え、トーマの胸に背中を預ける形で改めて空を見上げた。

 本当に、今日はとても綺麗な月が浮かんでいる。


「明日も、よく晴れそうだね」


 ルウンは、コクっと頷いてみせる。

 見上げる月は優しい光で夜を照らし、その光は、寄り添う二人の上にも柔らかく降り注いでいた。


 ――ああ、なんて幸せなんだろう。


 同じ思いを噛み締めながら、二人は夜空を見上げ続ける。

 そこに浮かぶ綺麗な月を、二人で一緒に。

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