「僕もやってみたかったけど、もう砂糖を入れちゃったから、きっと凄く甘くなっちゃうよね」


 カップの中に視線を落としたまま、トーマは残念そうに息を吐く。

 しばらく迷うようにその様子を見つめていたルウンは、やがておずおずと自分のカップを差し出した。

 気がついて顔を上げたトーマは、驚いたように目を見張る。


「あっ、ごめん!そんなつもりじゃなかったんだ。物欲しそうな目をしていたように見えたなら本当にごめん!」


 ワタワタと慌ててカップの前に両手を突き出すトーマに、ルウンは差し出す形になっていた手をそっと引く。

 やはり自分の飲みかけでは失礼だったか、と思い直し、今度は新しいものを入れにティーポットを掴んで腰を浮かすと、意図を察したトーマがそれもまた慌てて止めた。


「確かに飲んでみたいとは思ったけど、別に今すぐってわけじゃないんだ!物欲しそうに見ていたって言うよりは、好奇心。どんな味がするのかな、とか。砂糖とはどんな風に違うのかな、とか」


 好奇心――と心の中で呟いて、ルウンは浮かせていた腰を椅子の上に戻す。

 トーマは、どこかホッとしたような顔で笑った。


「僕ね、新しいことを知るのが好きなんだ。自分がそれまで知らなかったことを知ると、世界が広がるような気がして凄くワクワクするから」


 ジャム一つでそんなにも世界は広がるものなのかと思ったが、トーマのキラキラ輝く瞳を見ていると、ジャム一つでも世界は大きく広がるような気がしてくるから不思議だった。


「だから今は、紅茶には砂糖の代わりにジャムを入れることもあるって知れただけで充分。味の確認は、またの機会に取っておくよ。その方がワクワク感が持続して楽しいからね」


 分かるような分からないような気持ちのままに、ルウンはひとまず頷いておく。

 なんにしろ、トーマがそれでいいと言うのなら、それでいいのだろう。

 ルウンがジャム入りのお茶を飲み干したところで、トーマは最後の一つのビスケットを口に入れる。

 サクッサクッと響く音に、シャワーのように降り注ぐ雨の音が混じりあった。

 先ほどより幾分勢いが弱まったような気はするけれど、それでもまだ雨は降り続いている。

 なんの装備もなく外に出れば、全身びしょ濡れになるのは確実だった。

 それでもルウンには、外に出てやらなければいけないことがある。

 どうしたものかと考えているうちに、いつの間にかトーマがビスケットを咀嚼する音が止んでいた。


「ごちそうさま。今日も凄く美味しかった。それに、ルンと話していると楽しくて、時間があっという間に過ぎちゃうよ」


 それはルウンも同じなので、同意を示すように頷いて見せる。


「良かった」


 その意図を汲み取ったトーマは、嬉しそうに笑った。

 お開きの空気が漂い始めた中、二人はどちらからともなく立ち上がる。

 ルウンとしては、ほんの少し名残惜しい気もしたけれど。


「なにか手伝おうか?」


 二人分の食器をてきぱきと片付け始めたルウンにトーマが声をかけるも、予想通り首は横に振られる。


「分かった。でも、なにかあったらすぐに呼んで」


 一応頷いてはくれるのだが、きっと何かあっても呼びはしないのだろうと半ば諦めながら、トーマは屋根裏へと続く階段に足を向ける。

 ふとキッチンにいるルウンに視線を向ければ、二人分の食器は、既に泡まみれになっていた。

 水の流れる音を聞きながら、やはり自分の出る幕はないようだと、トーマは階段を上っていく。

 二日かけて片付けた屋根裏は、物置であったのが嘘のように、ちゃんと“部屋”になっていた。

 足がなんだか短くてもベッドがあり、屋根裏にはそぐわないような机と揃いの椅子があって、その他にもチェストやら本棚やら丸椅子やらテーブルやらと、置いている物に統率性がないため、部屋全体の雰囲気がちぐはぐなであることは否めないが、それでも部屋は部屋だった。


「……ここを、好きに使っていいのか」


“好きに”とは言われても、きっと自分は大半の時間を下の階で過ごすだろうと思いながら、トーマは部屋の奥にある机まで歩いて行って、揃いの椅子に腰掛ける。


「うん。やっぱり何度座っても、気分は偉い作家先生だ」


 自分のような、駆け出しでしかも旅をしながら書いているような物書きにはまだまだ遠い世界だけれど、その世界に身を置く人物を思い起こし、気分だけでも浸ってみる。

 以前お世話になった“大”がつくほどの作家であるその人物は、驚くことにトーマの名前を知っていた。

「そうか、キミがあの……」と呟くように言った時の瞳の奥には、思いがけず出会ってしまったことに対する驚きと、着古した旅装とバッグ一つだけを肩から下げた身軽さに対する羨望とが入り混じっていた。

 別れ際、「キミに追い抜かれることがないよう、私も精進しよう」とかけられた言葉は、今も鮮やかにトーマの中にある。

 握手を求められて恐縮しながら握った手には、硬いペンだこがあったことも、きっと永遠に忘れない。

 ぼんやりと椅子に座って過去に思いを馳せていたトーマは、階下から聞こえてくる微かな物音に現実へと戻ってくる。

 スーっと机を撫でるように手を滑らせながら立ち上がると、今度はベッドに向かって、そこにごろりと横になった。

 そして今度は、過去ではなく現在のことに思考を飛ばす。

 森の奥の洋館に一人ぼっちで暮らす、不思議な銀色の少女について――。

 思い出したように体を起こすと、トーマは枕元に置いていたバッグを引き寄せて、中から使い古したノートとペンを取り出す。

“紅茶にジャム”初めて知ったその情報をノートに書き込んで、その横にルウンはよくそうしてお茶を飲んでいることも加えておく。


「よし」


 こうしてルウンの何気ない日常をノートに記していくことが、今のトーマの日課でもあった。

 そうして知り得たことをまとめて、いつかはルウンの日常を一つの物語として完結させる。

 物語調に書くつもりではいるけれど、そこにはれっきとしたモデルがいて、その日常は本物だ。

 自分が想像したキャラクター達が頭の中で動き回るのではない、実際に目の前で忙しそうに動き回る少女がいる。

 その初めての試みに、トーマの心は踊っていた。

 物語の舞台としては申し分ない洋館、そこに暮らす、それこそ物語の中から抜け出してきたかのような銀色の少女。

 しばらくトーマは、目を閉じて思考に耽る。

 気がつけば、階下から聞こえていた片付けの音が止んでいた。

 シーンと静まり返った部屋に、屋根を打つ雨の音だけが響く。

 やがてトーマは、深く息を吐きながら目を開けた。

 けれどすぐさま


「ああ……お腹いっぱいでなんだか眠い」


 ベッドに仰向けで倒れこみ、体の下で木枠が不吉な悲鳴をあげているのも構わずに、寝返りを打って再び目を閉じた。


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