トーマが鼻をヒクつかせるのとほとんど同時に、ルウンがハッとして顔を跳ね上げる。

 いい香りがするね、と声をかける間もなく、ルウンはカップをテーブルに置いて立ち上がると、慌てた様子でパタパタとキッチンに駆けて行った。

 その背中を呆然と見送ったトーマの元に、先ほどよりもはっきりと、何かが焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。

 キッチンの方を伺えば、何やらワタワタしているルウンの姿が見えた。

 いつでも駆けつけられるようカップを置いて、「大丈夫?」と声をかけると、振り返ったルウンはコクコクと何度も頷く。

 程なくして、ルウンはお皿を二つ手にして戻って来た。


「ちょっと焦げた……けど、お昼」


 ルウンは、おずおずと皿をトーマの前に置く。

 そこには、ホワイトソースとチーズをたっぷりのせて焼いた食パンがあった。

 焦げたとは言っても、表面のチーズとパンの耳に少し色がつきすぎているくらいで、トーマにしてみれば気にするほどのことでもない。


「これくらい、焦げているうちに入らないよ。凄く美味しそう」


 トーマは、早速パンを手で掴み上げる。


「あつっ!」


 持ち上げた拍子にとろっと指に零れ落ちたホワイトソースに、トーマは慌ててパンを皿に戻した。

 すかさずルウンが、フォークとナイフを差し出す。


「ちょっとがっつき過ぎちゃった」


 トーマは、ははっと照れくさそうに笑う。


「では、改めまして。いただきます!」


 ザクザクと固い音を立てながら、トーマはパンにナイフを入れていく。

 二枚重なり合っていた食パンの間には、更にミートソースが挟んであった。

 挽き肉に潰したニンニク、みじん切りのタマネギとニンジンとセロリに、荒く切ったトマトとトマトペースト、更に香草を加えたルウンの手作り。

 切り分けられたパンの上で、チーズとホワイトソースが混じり合って、とろりと皿に流れ落ちる。

 トーマはそれをナイフで掬ってパンに塗り、息を吹きかけて冷ましてから口に運んだ。

 ザクザクと音を立てて噛み締めるトーマを、ルウンは不安げな面持ちで見つめる。


「うん、思った通り!いや、思った以上に美味しい。全然焦げてなんかいないよ。むしろ、香ばしくていい感じ」


 笑顔のトーマに、ようやくルウンは安心したように顔を綻ばせる。

 そして、ナイフとフォークを持って自分の分に手をつけようとしたところで、ふと動きを止めた。


「ん?」


 ジッと見つめる視線にトーマが首を傾げると、ルウンは自分の口の端をトントンと指先で触ってみせる。

 その仕草をなぞるようにトーマも自分の口元に指を当てて、苦笑いしながらパンの欠片を摘んで口に放った。


「今日中に終わるかな……」


 ポツリと呟かれた言葉に、ルウンもザクザクとパンを切り分けながら首を傾げる。


「まあとりあえず、屋根があれば雨はしのげるから問題ないか。あっ、でも安心してね!部屋の片付けは、責任を持って終わらせるから。でないと、お礼にならないしね」


 お礼と言うと、ルウンもお礼のつもりでトーマに部屋を貸す予定なので、なんだか変な感じがする。

 お礼のお礼には、またお礼を返すべきなのだろうか――。

 切り分けたパンにフーっと息を吹きかけながら、更にはふはふと熱気を逃がして咀嚼しながら、ルウンは密かに考える。

 どちらが正解なのかは結局分からないけれど、ひとまずこれだけはとルウンは口を開いた。


「そろそろ、雨、多くなる。だから、あの部屋……ずっと、使っていい」


 部屋を貸そうと決めた時から、ずっと言おうと思っていたことだった。

 ルウンの方を見て驚いたように目を見開いたトーマは、しばらく何も言わない。

 だからルウンも、それっきり口を閉じて黙り込んだ。

 しばらくの沈黙のあと、トーマは遠慮がちに「本当に、いいの……?」と尋ねる。

 ルウンが迷いなく頷くと、途端にトーマの表情がぱあっと華やいだ。


「嬉しいよ!ありがとう。そっか、そろそろ雨季なんだね。どうりで最近は風も湿っぽくなってきたと思ったよ」


 そっかそっかと言いながらナイフとフォークを皿に置いたトーマは、姿勢を正してから改まって頭を下げる。


「何から何まで、本当にどうもありがとう。改めて、しばらくお世話になります」


 自分に向かって下げられたトーマの頭を見つめながら、ルウンは返す言葉を探して黙り込む。

 こういう時にはなんと言葉を返すのがいいのか、考えてみても正解がちっとも分からない。

 また困ったような微妙な表情を浮かべるルウンに、顔を上げたトーマはにっこりと笑って見せた。


「ルン、これからは僕にも色々手伝わせてね。こんなにお世話になっているのに、なりっぱなしじゃ申し訳ないから」


 またしても応え方の分からない言葉をかけられ、ルウンは黙り込む。

 けれど、自分を見つめるトーマが明らかに返事を待っているから、迷った末にルウンは、おずおずと頷いて見せた。

 トーマの笑みが、一層深くなる。


「ひとまずは、二階の掃除だね。とりあえず、今日寝る場所だけは確保しておかないと」


 それから、あっという間に食事を平らげていくトーマに遅れを取るまいと、ルウンも小さな口で一生懸命にパンを頬張る。


「ルンはゆっくり食べて。僕はまだ、自分の仕事が終わってないから急いでいるだけだから」


 そう言ってカップの中身を一息に飲み干したトーマは、「今日もすごく美味しかった。ありがとう」と笑顔を残して席を立つ。


「食器は、向こうでいいのかな?」


 皿を手にキッチンの方を視線で示すトーマに、ルウンはふるふると首を横に振ってから、テーブルの上を指差した。


「えっ、でも……」


 指差されたテーブルの上とキッチンとを交互に見つめ、トーマは困ったような声を漏らす。

 それでもルウンは、トーマを見上げてテーブルの上を指差し続けた。

 やがて、苦笑気味にトーマが折れる。


「じゃあ、お願いします」


 ルウンがコクっと頷くと、トーマは手にしていた食器をテーブルの上に戻して、先ほどとは打って変わって足取りも軽く階段を上っていく。

 そんなトーマを見送ってから、ルウンは食事を再開した。

 タッタッタッと軽快に階段を駆け下りてきた足音が、またすぐに同じ音を立てて上っていく。

 繰り返されるその音は、不思議と心地よくルウンの耳に響いた。

 今までは一人でいるのが当たり前で、当たり前過ぎて、それに対して何か特別な感情を抱くことはなかったけれど、同じ空間に誰かがいるという事が、一人ではないという事が、不思議なほどに心を沸き立たせる。

 初めてのその感覚が、内側からほんわりと、ルウンの小さな体を温めた。

 タッタッタッと軽快な足音を聞きながらカップを傾けると、程よくぬるまったミルクが、溶け込んだ砂糖の甘さを引き連れて喉を伝う。

 じんわりと染み込んでいく甘さに疲れも癒されて、ルウンは空になった二人分のカップと食器を手に立ち上がった。


 **

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る