辺りがすっかり暗闇と静寂に包まれた頃、固く閉ざされていた洋館の扉が、ゆっくりゆっくりと開いていく。

 片目が覗くくらいの隙間でピタッと扉の動きが止まると、そこから恐る恐る外を伺う青みがかった銀色の瞳。

 月明かりに照らされて見える範囲に目を凝らせば、昼間お茶を楽しむために準備したティーセットもバスケットも、当然のように自分が残して行った時のまま、テーブルの上にあった。

 更に視線を巡らせて、月明かりに照らされた敷地と、闇夜に溶け込んだ森との丁度境目に、少女はその姿を見た。

 地面に座り込んだ自分の隣にバッグを下ろして、月明かりを頼りに何やら一心に手を動かしている青年。

 どんなに目を凝らしてみても、この位置からではそれ以上は見えない。

 少女は隙間を広げて、まるで猫のようにそろりと体を外に出すと、足音を忍ばせてテーブルまで歩いていく。

 青年は未だ顔を上げることなく一心に手を動かしていて、少女の存在には気がついていない。

 テーブルの影に隠れるようにしゃがみこんで、少女は再び青みがかった銀色の瞳をそっと覗かせた。

 月明かりに浮かび上がる、真剣な青年の横顔。

 まだ少し距離はあるものの、先ほどよりはよく見える位置から、少女は目を凝らす。

 青年は右手に持った万年筆で、左手に持っているノートに何かを書き付けていた。

 紙の上をペン先が走る音を聞きながら、少女はそろりとテーブルの影から這い出して、そのままスカートの裾や手の平が汚れるのも構わず地面に手をついて体制を低くし、ゆっくりと青年の元に近づいていく。

 手を伸ばせば触れられるところまで近づいて、少女は後ろから青年の手元を覗き込んだ。


「……?」


 少女がそこに見たものは、紙の上をのたくる大量のミミズ……にしか見えないような何か。

 最初は本当にミミズだと思ったから、少女はビックリして思わず身を引いたが、よくよく見れば、それは青年が手を動かすたびに紙の上に生み出されていて、どうやら文字のようだった。

 滅多に触れる機会のない文字に、少女は興味津々で青年の手元を覗き込む。

 あまり熱心になりすぎたせいで体が前のめりになってしまい、近づきすぎた青年の手元に白銀の髪がひと房、肩を伝って滑り落ちる。

 突然視界に飛び込んできた白銀に、青年はようやく驚いたように顔を跳ね上げた。


「おわっ!?」


 すぐ後ろから自分の手元を覗き込む少女の姿に、青年は驚いてのけぞる。

 その声に少女もまた、驚いて素早く身を引いた。


「ビックリした……」


 呟いた青年は、気持ちを落ち着けるように、ふうと一つ息を吐く。

 そして今度は、新鮮で濃厚な緑の匂いと、昼間よりも幾分温度の下がった空気を吸い込んだ。

 その様子をジッと見つめたまま、少女はジリジリと密かに後ずさる。

 青年は、先ほどよりやや離れたところにいる少女に、改めて向き直った。


「大きな声を出してしまってごめんね。でも、また会えて良かった。どうしてもキミに謝りたかったんだ、昼間の事」


 未だティーセットとバスケットが載ったままのテーブルにチラッと視線を送って、青年は申し訳なさそうに頭をかく。


「僕は、トーマ。しがない旅の物書きでね、色んなところを旅して回りながら、お話を書いているんだ」


 少女は、トーマが手にしている古びたノートと、こちらも年代物の万年筆に視線を落とし、次いで着古した旅装と使い込まれたバッグを順番に眺めてから顔を上げた。

“旅の物書き”という初めて聞く響きが、新鮮に少女の耳を打つ。


「今は新しい物語を探しながら、特にあてもなく西方をめぐり歩いている途中なんだ。昨日まではこの森を抜けた先にある村とか、その更に向こうにある町をぶらついていたんだけど、なんだか妙に好奇心をそそられる森を見つけてね。物書きの端くれとしては、いてもたってもいられなくなっちゃって。それで実際に来てみたら、キミと出会ったというわけなんだ。ビックリさせちゃって本当にごめんね」


 大きな身振りや手振りを交えて一通り状況を説明したあと、トーマは座った姿勢から地面に頭がつきそうな程深々と頭を下げる。


「ところで、キミのその髪はとても不思議な色をしているね。昼間チラッと見た時も思ったけど、近くで見ると凄く綺麗な白……いや、銀かな」


 すぐさま顔を上げたトーマが、興味深そうに少女の髪の毛を見つめる。

 少女は、肩から零れ落ちた自分の髪をすくい上げた。


「それから、瞳の色も」


 自分の髪をまじまじと見つめていた少女が顔を上げると、トーマとバッチリ目があった。


「パッと見は青いけど……でも、こっちも銀が入っているね。神秘的な色だな……。こんな綺麗な瞳は初めて見たよ」


 まじまじと覗き込むように見つめられて、少女は思わず目を逸らす。

「ああ、ごめん!つい」とトーマは慌てたように、乗り出し気味だった身を引いた。


「それでね、お願いがあるんだけど……」


 遠慮がちに切り出したトーマに、少女はおずおずと視線を戻す。


「もし良かったら、キミの話を聞かせてくれないかな」


 何を言われているのか分からなくて少女がキョトンとすると、トーマは手に持ったままのノートに視線を落とした。


「森の奥、廃れた洋か……あっ、ごめん。えっと……趣のある、洋館!」


 先ほど自分が書いた文字、少女にはミミズにしか見えないものを、トーマは当然のようにスラスラと読み上げていく。

 そして“廃れた”の部分で少女が若干むくれたのを見て、慌ててその部分に修正を入れた。


「そこに暮らすのは、白銀の髪に青みがかった銀色の瞳の少女」


 本当は、白い髪に青い瞳と書いていた部分にも修正を入れていく。


「これだけでも想像が膨らんで、頭の中にはいくつも物語が展開されているんだ」


 そう言って、トーマはまだ何も書かれていない空白部分を、トントンと指で軽く叩いた。


「けどね、僕はキミを題材にした想像の物語が書きたいんじゃなくて、キミの日常を、ここでの生活をありのままに書きたいんだ。その方が、素敵な物語が出来そうな気がしているから」


 月明かりに浮かび上がるトーマの表情は、真剣であって同時に楽しそうでもあった。

 好奇心に輝く瞳が、真っ直ぐに少女を捉える。


「是非僕に、キミの物語を形にさせて欲しい」


 まるで少年のような純粋な輝きを持つ瞳からは、悪意なんて微塵も感じられなくて、少しだけ、ほんの少しだけ少女の警戒心が薄れる。


「……どう、かな?」


 少女の反応を伺うように、トーマはおずおずと問いかける。


「……やっぱり、ダメかな。突然やって来た知らない男にそんなこと言われても、困っちゃうよね」


 何も言わない少女に、トーマは残念そうに笑いながら頭をかく。


「重ね重ね、ごめんね」


 トーマがノートと万年筆をバッグの中にしまおうとしたところで、少女はふるふると大きく首を横に振った。

 首の動きに合わせて、白銀の髪もまた左右に揺れる。

 視界の端を動いた煌きにトーマが顔を上げると、少女はもう一度、今度は少し控えめに首を横に振った。


「えっと……」


 意味がよく分からず困惑気味のトーマを正面から見据えて、少女は小さく口を開く。


「……わ、たし……なにもお話、持って、ない……」


 少女が発した声は少し掠れていて、言葉もどこかたどたどしい。

 森の奥に一人きりで暮らし、毎日のように訪ねてきてくれるのは鳥達だけとくれば、声を出す機会もそうそうない。

 その為、本日初めてにして久しぶりに発した声は、まるで声の出し方を忘れてしまったかのようにぎこちないものとなった。

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