第五章 追憶

第16話 『非線形のエレクトリカ』

 片手で卵を割る。これが案外難しい。


 電脳を起動させてネット検索した動画を頭の中で再生する。視界の右上一部が切り取られ、そこに今見えている現実とは別の映像が流れる。


 片手で卵を縦に掴み、野球のボールを投げるように人差し指と中指の間に卵をホールドして親指で尖った卵の頭を押さえる。かつん、と勢いよくボウルへぶつけ、その手を人差し指側と親指側とに縦に開く。卵は何ら抵抗する様子も見せずにあっさりとその中身をボウルへぶちまけた。


 動画を見る限り、努力も反復練習も必要なさそうな単純な動作に思える。しかし実際に何度試してみても卵は素直に割れてはくれなかった。


 園は苛々する気持ちをぐいと飲み込んで、仕方なく両手で卵を割る事にした。左手で卵を掴み、ギプスで手の甲から手首まで固定されている右手を添える。かろうじて動かせる右手の指先で卵を押さえ、左手親指をヒビにねじ込む。ようやく卵は砕け割れてくれた。


 手首を骨折したおかげで取れた有給休暇を有効活用しようと、園は初めてのホットケーキ作りに挑戦していた。


 樹脂のボウルへ上手く割れた卵を二つ投入する。これまでに何個の卵を犠牲にした事か。ボウルの中で黄身と白身がとろんとした膜に包まれて肩を寄せ合うようにまとまった。そこへ砂糖を大さじ六杯。ふと手を止めて、園は考え込む。大さじ一杯って何グラムだ? 電脳で検索をかけると大さじ一杯15ccと出た。園はさらに首を傾げた。砂糖15ccっていったい何グラムだ。


 普段から料理をしない園のキッチンに、そもそも大さじなんて存在しなかった。カレースプーンでいいや。多少大きい気もするが、甘い方が美味しいに決まってる、とスプーンに山盛りの砂糖を六杯、ボウルへ投げ込んだ。


 冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、今度はちゃんと分量を計って混ぜ入れた。計量カップは持っていた。今まで使った事なんてなかったが。


 そしてお次は小麦粉だ。スプーンで卵と砂糖を混ぜながらレシピを見て、園は大きく溜息をついた。小麦粉300グラムなんて、いったいどうやって計ればいいのやら。園は計量器を持っていなかった。


 仕方なく風呂場に小麦粉とボウルを持って行き、まずは身体一つでそうっと体重計に乗った。デジタル数値が落ち着くまで息を止める。園の体重が確定する。そして卵と砂糖と牛乳がない交ぜになったボウルへ小麦粉を振り入れて、再計測ボタンを押す。ふと、小麦粉が入ったボウルを小脇に抱えて体重計に乗る、口を半開きにしたジャージ姿の女が鏡の中にいるのに気が付いた。


「私は何をやっているんだ」


 料理中に我に返ってはいけません、とはレシピに書いてなかった。我に返ってしまった場合はどうすればいいのだろう。


 テンションの下がったままキッチンに戻り、小麦粉をどろどろしたモノに混ぜながら電気コンロをオンにしてフライパンを温める。なんとかここまでは片手でも作業出来た。さて、利き腕ではない左手でどこまでフライパンを扱えるか。


 べったりと生地がついたスプーンをおたまに持ち替えて、どろりと一掬いフライパンへ流し落とす。じゅっと熱が弾ける音がして生地が白い煙を上げる。フライパンが熱過ぎたか? レシピを見ても熱源の温度までは書かれていなかった。温度を下げるか? いや、違う。バターを溶かすのを忘れてただけだ。


 園は慌てて冷蔵庫からバターのパックを引っ張り出し、じゅうじゅうと音を立てて焼けつつある生地の周りにごろごろとバターの塊を落として、片手でフライパンを揺すった。


 後は参考動画と同じ焼け具合になったら上手くひっくり返してもう片方の面も焼けば完成だ。


「なんだ、意外と簡単に出来るじゃん」


 園はふんと鼻を鳴らして小さな胸を張り、何故か右手のギプスにこびりついているホットケーキ生地をぺろりと舐め取った。生の生地は妙に甘ったるいくせに粉っぽかった。生の生地って舐めても大丈夫なのかな。やっぱりギプスの生地をティッシュで拭っておく。


 作業工程を電脳視界の動画でチェックしながらレシピ通りに焼き上げたはずのホットケーキは、小麦色とはかけ離れたダークな色合いをしていて、その表面は月面のようにぼこぼこと穴が空いていた。


「おかしい」


 ちゃんとレシピ通りに作業したはずなのに。園は首を傾げずにはいられなかった。


 大きめの皿に重ねて盛り付けて、熱々の焼き立てのうちにバターを乗せてさらに上からメイプルシロップをかける。やっと見た目はホットケーキらしくなってくれた。


 さくっとナイフを入れて、垂れこぼれたメイプルシロップを掬い取るようにしてホットケーキを一口放り込む。


「なんだこれ」


 園が作った初めてのホットケーキは、異様にパサついた何の工夫もないパンを焼き焦がして食べたような素朴過ぎる味がした。バターの風味とメイプルシロップの甘みがこれが食べ物であるとぎりぎり証明してくれた。


「多過ぎるし」


 ちょっと調子に乗って焼き過ぎたか、濃い色合いのデコボコとクレーターの空いたホットケーキはまだまだ皿に積み重なっていた。


 それに、今日のホットケーキ作成のためだけに買った小麦粉、卵、バター、それとメイプルシロップ。大量に余ったこれらをどう処理したらいいのだろうか。ホットケーキタワーの前で腕を組む園であった。




 牛乳パックを小脇に抱えてフォークをくわえタバコのように口にして、ホットケーキの積み重なった皿を無事な左手に持ってリビングへ移動する。


 園は焦げ付いたホットケーキでもなんとか美味しく食べられる方法を発見した。メイプルシロップにひたひたに浸す食べ方だ。今度は天然蜂蜜を試してみようか。園はフォークをくわえたままテレビのリモコンを探した。あった。ソファのクッションの隙間にねじ込まれていた。


 電源を入れて、ハードディスクを起動させる。朝食にホットケーキを楽しみながら観ようと、昨晩寝る前に一本の映画をダウンロードしていたのだ。


 リモコンを使い慣れない左手で操作し、撮り貯めるだけで全然観れていないテレビ番組が溢れそうなハードディスクの中に目的のタイトルを探した。


『非線形のエレクトリカ』


 今まであえて観るのを避けていた映画だ。園は電脳装備者をエレクトリカと呼ぶのは嫌いだった。自虐的なくせにどこか選民意識があると言うか、自らを特別視するような言葉だからだ。しかしドリフター状態から帰還した優一はこの映画を観て、ネットの巨大掲示板に『俺達はエレクトリカになるべきだ』と書き込みをし、それがきっかけで電脳装備者が自嘲気味にエレクトリカと名乗るようになったのだ。今だからこそ、観ておくべきだと園は思った。


 再生アイコンをクリック。すぐに配給会社のロゴが浮かび上がり、映画は一体の女性型ロボットが化粧をするモノクロシーンから始まった。


 メインキャストのクレジットがポップな音楽に合わせて画面上をステップを踏むように踊り、女性型ロボットが化粧を進めるにつれて画面は色鮮やかに変化していく。ファンデーションでプラスチックのような表皮素材が張りのある柔肌の頬に、明るい色合いのアイラインを引くと大きな瞳の灰色の虹彩が琥珀色にくるくるときらめく。


 骨折のため急に降って湧いたような休日だ。今日一日は優一の行動を追う。そんな一日にすると園は決めていた。


 今までキッチンに立った事もない優一がユカリのためにホットケーキを焼く。どんな思いで不器用に卵を割り、小麦粉を無難に測り混ぜ入れ、熱したフライパンでバターを温めたのか。


 マイナーなSF映画の『非線形のエレクトリカ』を観る。優一は何を感じ、どこに共感を求めたのか。何故、優一はエレクトリカになる事を望んだのか。


 優一の生活をトレースするだなんて、何の意味もない馬鹿げた行為かもしれない。それでも園は少しでも優一の気持ちを知ろうと、優一になろうと思った。偽物の思い出によって真っ白い深淵から掬い上げられた優一は、何を思ってユカリの瞳を見つめるのだろうか。何を思って愛を語るのか。


 帰還した優一は、漂流した優一と同じなのか。ロボットになりたかった優一はどこに溶けてしまったのか。電脳ハッキングにより二つの時間軸の記憶を持つ園は、本当に今までの園と同じなのか。偽物の記憶を書き込まれた園は溶けてしまわないか。

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