ニューロ・パンケーキ

鳥辺野九

第一章 漂流

第1話 向こう側を覗いてこい

 ここはあまりに何も無さ過ぎて、脳細胞の使い方を忘れてしまった。


 いったいどのくらいの時間を無為に過ごしていたのだろう。


 真っ白い世界が全方位無限に広がっていた。あるいは、淡く白い光を放つ小さな箱の中に閉じ込められているか。ここは白そのものだ。ここには白と言う概念しかなかった。


 単一の要素で埋め尽くされた空間は一切の境界をほどき、そこにあるすべての輪郭を侵していく。ここは白に侵食されていた。質量を持つかのような濃密な白色に充ち満ちて、空間内の距離感を失わせる。この白い空間が無限に続いているのか、目の前でぷつりと途切れているのか、知る術も無い。


 音が響かない空間では、声に出しているのか、心の中で思っているのか、そんな簡単な事ですら判断できなくなる。思考のスピードはどんどんと鈍くなり、自分自身に問い聞かせる行為そのものに意味を見出せなくなる。この真っ白い世界では、声も思考もあっけなく無意味なものになってしまう。


 何も存在しない空間に置かれていた身体は何物にも触れられないまま感覚がその機能を喪失し、身体と空間の区別が付かなくなる。ほろほろと体組織が分解されて細かい粒子となって空間に染み出てしまう。


 どちらが上で、どちらが下か。どちらが前で、どちらが後ろか。そんなシンプルな世界の基準すら消え失せてしまう。世界を覆い尽くす白色に侵食され、身体と空間との同化が始まる。


 やがて、時間すらも意味を失う。役を果たせなくなった時間は空間から解離して溶けてなくなる。後にはまったく変化しない完全に閉鎖された世界が残るだけだ。


 意識もすでに消失し、思考もありとあらゆる事を考え尽くしてもう何も思い浮かばなくなる。ただただ真っ白くなり、ここに在り続けるだけになる。ただそれだけになる。


 どのくらい、こうしていたのだろうか。


 不意に白い世界に波紋が湧き立った。白い空間に濃淡の波が生まれ、くぐもった残響音とともに空間を駆け抜けていった。しかも一つではない。波は幾重にも幾重にも折り重なって霧散していく。


 やがて波紋が消え、再び世界が静かな白色で満たされ、そしてふと気が付くと、また波紋がやって来る。それを幾度となく繰り返し、世界は時間を取り戻した。時間の経過という刺激が世界に変化をもたらした。


 ようやく意識が目覚める。思考が回り始める。脳細胞の使い方を思い出す。


 これは、音だ。この真っ白い世界に、音が生まれた。


 さざなみが砂浜を洗うように、甲高く震える音が波となって打ち付けて来る。


 これは、声だ。誰かが自分を呼ぶ声だ。


「さあ、目を覚まして。起きるんだ」




 モーターの駆動音がかすかに聞こえる。


 金属の硬い殻に包まれた小型モーターは規則的なリズムで甲高い音色を奏でて、どこか子供の頃に聞いた飛び跳ねる虫の鳴き声を思い起こさせた。


 砂原園さはらそのは思う。そういえば、もう十何年も虫の鳴き声なんて聞いていない。そんな虫、今もまだこの国のどこかで生きているのだろうか。頭の中で鳴く想像上の虫を追い払って、園はモーター殻をひと睨みする。


 モーターが一際甲高い駆動音を響かせて、医療用ベッドは静かにせり上がり横たわる男の上半身を起き上がらせた。ベッドの側に立つ白衣を纏った男がずり下がってしまった毛布をかけ直し、一つ一つ慎重に言葉を選ぶようにして言う。


「ドリフターです。名前は天野優一あまのゆういち。我が社の電脳技師です。優秀な人間です、でした」


 あえて過去形で言い直したのが園には気に入らなかった。まるで眠る男が二度と目覚めないかのような口ぶりだ。もうすでに天野優一と呼ばれた人格は存在しないのだと、ぶつりと切って棄てるようで。


 白色の検診着を身に付けた眠れる天野優一は、頭部に何本ものプラグが差し込まれた網目状のヘッドギアを被せられ、延髄部に移殖された電脳生体端末にも何本ものケーブルがぶら下がり、血の気を失った白い顔で規則正しくゆったりとしたリズムで胸を上下させていた。


「はっきり言ってしまえば状況は良くないです。まだ心肺機能は自力で動いていますが、徐々に衰弱しています。このままふうっとロウソクの炎が潰えてしまうように、いつ彼の機能が止まってしまうか、不安です」


 天野優一のヘッドギアや首から伸びるケーブルはベッドサイドのPC群に接続されていて、モニターに彼のバイオシグナルがグラフとして表示されていた。園はこのグラフの読み方を知らなかったので揺れ動く折れ線が何を意味するのか理解できなかったが、グラフは全体的に起伏が少なくフラットなものに見えた。このフラットさが白衣の男が言う良くない状況なのだろうか。


「厚労省のガイドラインに則って適切な処置は出来ていると思います。例の、思い出療法、でしたっけ?」


 自嘲気味に笑みを漏らす白衣の男。そして言葉の反応を確かめるように、背後に立つ厚生労働省からやってきた役人、園とその上司の山鹿朗やまがあきらをちらりと覗き見た。


「現場では思い出療法と呼んでいるんですか。言い得て妙ですね。我々は仮想対話による喚起式かんきしきカウンセリングと呼んでいます」


 山鹿が抑制された低い声で受けて答えた。


「少なくとも、あなた方が言う思い出療法が現段階でのドリフター治療で一定の効果が認められている唯一の治療法です。我々電脳保健倫理委員としてもこの治療法に頼るしかないのです」


「ええ、確かに。フラットだった脳波パターンに一部変化が見られる瞬間がありました。天野優一が脳内で何かを見ていると言えるでしょう」


 白衣の男が山鹿へバインダーを差し出した。山鹿はそれを受け取るとクリップ部を軽くダブルタップした。バインダーに記録されたデータが山鹿のAR眼鏡に搭載された拡張現実端末にダウンロードされる。データだけを受け取ると、山鹿はバインダーを園へ押し付けるように預けた。


 園はバインダーに挟まれたプリント用紙の束をぱらぱらとめくる。ぱっと目に留まったページがあった。被験者である天野優一の脳波パターンと、同時間軸での仮想対話の内容だ。対話者である天野優一の妻の言葉に脳波が大きく反応しているポイントがあった。それまでまったくのフラットだった波形が、まさに除細動器のショックを受けて再び鼓動を再開させた心臓のように大きく跳ね上がっている。


「砂原。おまえ、ドリフターを直接診るのは初めてだったな」


 ARタブレットのデータを読んでいた山鹿が仮想の資料から目を離さずに言った。拡張現実オーグメンテッドリアリティ端末を搭載したAR眼鏡でしか見る事ができないタブレット型仮想端末だ。AR眼鏡を装備していない園からすれば、何もない空間を指でなぞっているだけにしか見えない。


 せめてこちらに目線だけでも向けてくれれば返事のバリエーションも増えると言うものの、背の高い上司の顔は虚空を見たままで、どういう意図でそんな事を言ったのか汲み取れず、園は生返事を返すしかなかった。


「ええ、まあ」


「何事も経験だ。こちらの機器をお借りして、ドリフター状態を体験してみるか」


 何もない空間でノートを閉じるような仕草をして、山鹿はAR眼鏡を外して部下に振り返った。感情のこもっていない目で背の小さな園を見下ろし、形だけ笑っているように口元を歪ませていた。


「……はい?」


「インターシヴィルの向こう側を覗いてこい」


 長い黒髪を下ろして隠してはいるが、園の延髄部に移殖されている電脳生体端末がぞくりと疼いた。




 インターシヴィルワールドと名付けられたその世界は、仮想世界に構築された人類の新たな活動の舞台だ。内なる宇宙、第二世界などと呼ばれる電脳空間であり、ヴァーチャルとオーグメントが巨大な二本の柱となって仮想の天蓋を支えている。


 VRゴーグルやAR眼鏡などの仮想現実、拡張現実デバイスによって仮想世界を垣間見るか。それとも生体端末を延髄部に移植して電脳装備者となりどっぷりと脳髄まで電脳空間に浸かるか。インターシヴィルワールドの住人達の中でも、特に電脳装備者はよりディープな電脳空間に潜っていた。


 ノーマルな人間達からは、データ化された人類が演算処理される宇宙のように膨張し続けるサーバーと揶揄されている、まさしく架空の世界だ。




 園はインターシヴィルワールドのビアカフェにいた。古い時代の東ヨーロッパを思い起こさせる質素な木造りのカウンターがあり、その奥には読めない文字で飾られた様々なボトルが並んでいる。そんな木の香りがしそうなカウンターに園は一人、何をするとなく座っていた。


 ここは、どこだろう。見覚えのある風景だが、どこの店だったか。それに、自分はいつからここにいるのだろう。


 カウンターの奥には蝶ネクタイを身に付けた象をモチーフにしたアバターのバーテンダーがいて、園の視線に気付くと穏やかに頭を下げた。園は象のバーテンダーに前髪が揺れる程度の会釈を返してカウンターに視線を落とした。


 空になった自分のグラスと、もう一つ半分ほど飲み物が残されたグラスがある。カウンターには園しか座っていない。さほど広くない店内にも園と象しかいない。この半分ほど琥珀色の液体が残ったグラスは誰のものだろう。園は記憶をたどってみた。誰かとこのビアカフェに来た事があったろうか。


「もう一杯、お作りしましょうか?」


 蝶ネクタイの象バーテンダーが女の声で言った。


「そうね。じゃあ、おまかせでお願い」


 園はひと呼吸間を置いて答えた。仮想空間でも電脳装備者ならば味覚も感知できる。仮想のアルコールを仮想の身体に入れたところで酔うはずもなく、それにいくら飲んでも太らないし。


 象の女性バーテンダーが新しいグラスを準備する間、園はぼんやりとカウンター周りの造形を眺めた。ふと、ボトルの列の横に古めかしいトランジスタラジオが置いてあるのを見つけた。ラジオは園がこちらに気が付いたのを確認したかのように不意にチューニングを合わせ、電気的なノイズを撒き散らした。


「……ら、さ、はら。砂原。何をぼんやりと酒を頼んでいるんだ。ドリフターのエミュレートを始めるぞ」


 ラジオは山鹿の声で喋り始めた。


「山鹿さんですか。ここはいったいどこなんですか?」


 園はラジオに聞き返した。


「おまえの記憶領域からランダムに再構築されたイメージのはずだ。そこがどこだかおまえがわからなくて、俺に答えられる訳がないだろう」


 やはり、私の記憶か。こんな小洒落たカウンターのある店なんて入った事があっただろうか。それに、園の隣に置かれた琥珀色した液体が残ったグラス。グラスの主は未だ姿を見せていない。誰だろう。


「さあ、始まるぞ。インターシヴィルを漂流してこい」


 ラジオがノイズ混じりの低い声で言った。


 ドリフター。インターシヴィルワールドからの漂流。ビアカフェの木の香りがするカウンターで、これから何が始まるのか。園は思わず居住まいを正した。


「お待たせ致しました」


 象のバーテンダーが背の低いゴブレットグラスを持って来た。ついとカウンターを滑らせるように園の前に差し出して、長い鼻を垂らしたまま優雅に頭を下げる。


 眩しいオレンジ色の液体で満たされたグラスは今にもハレーションを起こしそうな色合いで、グラスの縁から溢れんばかりに白い泡を盛り上がらせていた。園はグラスから象のバーテンダーへ目をやり、このカクテルの名前を尋ねて、またグラスへ視線を戻した。


「これは?」


「マンゴービアです」


 グラスに手を伸ばすと、ふと、園はかすかな違和感を覚えた。ほんの一瞬目を離しただけなのに、こんなに泡が白く盛り上がっていただろうか。グラスを見ているうちに、もくもくと入道雲のように白い泡が大きくせり上がり、しかし物理法則に反して垂れ下がらずに白色の塊を膨張させていく。


 象のバーテンダーを見れば、彼女にも異変が現れていた。ウイングカラーシャツの白さがやたら目に眩しい。眩し過ぎる。人型の象が身に付けている黒のベストや蝶ネクタイが霞むほどに白が浸食していた。


「どうかなさいました?」


 象のバーテンダーが歩けば、シャツの白だけが空間座標に取り残されて、残像を見せつけるように映像が折り重なって白の面積を増やしていく。瞼を閉じれば、溢れる白のイメージが視界にこびり付いて剥がれない。


 仮想空間の白と言う情報だけが映像処理し切れずに多重に影を積んでいく。瞼を閉じていても迫ってくる白い残像に怖くなって目を開けると、視界にざっくりと大きなクラックが入っていた。白いひびは細かく振動しながら仮想空間をばらばらに砕いていく。


「何なの、これ」


 園の震えた言葉を発端にして、ついに白がオーバーフローを起こして園を覆い尽くそうと押し寄せてきた。振り払おうと腕を伸ばせば、園のか細い腕は白に飲み込まれてぷっつりと途切れてしまう。ゴブレットから溢れ出た白が園の華奢な脚をずぶずぶと白の中に沈めていく。


 園の仮想空間は瞬く間に真っ白く塗り潰されてしまった。

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