1ー11 父の遺したもの

 どれだけ歩いただろうか。

 陽は既に傾きつつあった。白い砂の上に落ちた僕の影も、どんどん長くなっていく。

 結局コウとは巡り会えず、だけど相変わらず聞こえてくる鈴の音だけを頼りに、僕はのろのろと進み続けていた。


 ひときわ大きな砂の山を登りきると、あるものが視界に入る。

 横たわった樽のような形をした、何かの機械らしきものの残骸が。

 近づくにつれて、それがキャラバンのワゴンより一回りほど大きいものだと分かる。

 その表面はかなり錆び付いていて、ところどころに何かがぶつかったような凹み傷があった。全体的に砂まみれなので、長年この場所に放置されていたもののようだ。


 ぐるりと回り込むと、ドアのような部分が外れて中に入れるようになっていた。

 恐る恐る、入口をくぐる。

 そして——僕は思わず息を飲んだ。


 そこにあったのは、鋼鉄製のいかつい椅子に固定された、人間の白骨死体だった。


 死体がまとっている服はぼろぼろで、ほとんど原形を留めてはいない。

 だけどただ一つ、左手首の部分に引っ掛かっているものには見覚えがあった。

 赤い瑪瑙めのう石のブレスレット。僕の右手首に嵌まっているのと同じものだ。それは父さんと母さんが揃いで持っていた——


 背後から、しゃん、と音がした。


「あぁ、良かった。先に辿り着いてたんだな」


 掛けられた声に振り返ると、コウが立っていた。


 じゃあ、僕をここまで導いた鈴の音は——

 僕は視線を死体に戻す。


「あの、これって……」


 コウは頷き、おもむろにしゃがみ込むと、椅子の肘掛けの辺りを指さした。


「ここを見てほしい」


 身を屈めて、覗き込む。死体の右腕が置かれたその部分は砂で覆われていた。

 しかしよく目を凝らすと、引っ掻き傷のような文字が刻まれているのが分かる。


 それは、こう読めた。

 “マナ”と。

 どきりとした。

 母さんの名前だ。


「これはジンさんが地球に戻ってくるために使った、宇宙船の脱出ポッドだ。前回の巡行の時にたまたま見つけた。月のコロニーの罪人が、時々地球に落とされてくることがあるんだ。ジンさんはそれをうまく利用したらしい」


 コウの声を聞きながら、文字を覆っている砂を払う。すると新たな文字が出てくる。


 “クスリヲ マナニ”


「父さんは……」

「ジンさんは、マナさんの病気を治す薬を手に入れるために、最後のシャトルで月に行った。そして恐らく、辿り着いた先で特効薬を入手し、家へ帰ろうとした」


 コウの言葉が、僕の頭をがんがんと揺らしていく。


「だが途中で、隕石か何かがポッドに衝突したんだろう。ジンさんは結局この椅子に固定されたまま命を落とし、それは適わなかった」


 そう言われて、このポッドの表面にあった傷のことを思い出した。

 白骨化した父さんの眼窩を、じっと見つめる。そして、今もその左手首に大切そうに嵌まっているブレスレットに目を落とす。


 父さんは、母さんや僕たちを見捨てたわけではなかったのだ。

 あぁ、だとしたら。

 最愛の人の身体を蝕む病。

 無事に戻れる確証のない旅。

 最後に目にした背中を思い出す。

 しゃん、しゃん、という音と共に遠ざかっていった背中。僕がどれだけ泣き叫んでも、決して振り返ることのなかった背中。


——父さん、母さんを助けて!


 あの時、父さんは、いったいどんな気持ちだったのだろう。いったいどれほどの覚悟だったのだろう。

 さっきの文字の下の砂を、さらに払う。


 “マナ ナギ ナミ アイシテル”


 僕の目から零れ落ちた水滴が、砂にぽたりと染みを作った。


「これ、物入れだと思うんだ」


 コウが指す椅子の足元には、確かに蓋のようなものがある。


「だけど錆付いてて、開けることができなかった。この前は巡行のスケジュールもあったから後回しにしてしまったんだが、もし薬があるなら持ち帰りたい」


 僕の肩に、大きな手が置かれる。


「手伝ってくれ、ナギ」


 コウは鞄からバールを外すと、先端をその溝に挿し入れた。

 初めはびくともしなかった蓋は、交代でいろいろな位置や角度を試すうちに、やがて鉄錆の擦れる音がしてわずかに持ち上がった。だけど砂が溝に噛み、それ以上動かなくなってしまう。

 次にコウは取っ手に指を掛け、勢いを付けて思い切り引っ張り上げた。蝶番ちょうつがいがみしみしと音を立て始める。

 一方で僕はバールを隙間に挿し込み、コウとタイミングを合わせて体重を掛ける。すると蓋はもう数センチほど浮き上がる。でも、またもやそこでぴたりと止まってしまった。


 蓋の間から、真新しいナイロンの鞄が見えた。このぐらいの隙間だったら、僕の腕ならぎりぎり入りそうだ。

 僕は念のためブレスレットを外し、袖を捲ってから、そこに右腕をねじ込んだ。錆びた蓋のふちが皮膚をがりがりと擦る。

 コウは少しでも隙間を広げようと取っ手を引き上げ続けている。だけど、さすがに鞄そのものを取り出すことはできない。


「もう少し上げられる?」

「任せろ」


 さらに少し浮いた蓋の下に僕は両腕を差し込み、チャックを探り当てて鞄を開けた。中に入っているものを、一つずつ引っ張り出していく。


 疲れきっていたはずだった。

 腕ももう傷だらけだった。

 だけど不思議と疲労も痛みも感じない。何か底知れない力が、身体じゅうから湧き出していた。


 取り出すことができたのは、固形の保存食、寝袋のポーチ、そして——薬のケースだった。

 ケースは全部で二十個あり、その一つひとつにびっしりとカプセルが入っていた。


「やったな」


 壁にもたれかかるコウが、荒く息をしながら白い歯をこぼす。僕は血の滲んだ腕を軽くさすって、笑みを返す。


 ずっと父さんを憎んでいた。

 だけど本当に許せなかったのは、何もできない自分の弱さだった。

 そうだ、僕は弱い。この大いなる自然の中ではちっぽけな存在であることに間違いないし、嫌になるほどできないことばかりだ。

 だけど——

 勝手に滲んでいく視界を、僕は拭う。

 どんなに弱くてちっぽけでも、やれることはある。

 父さんが命を懸けて遺したものを、僕は確かに受け取ったのだ。



 ポッドから外へ出ると、陽はすっかり沈みかかっていた。

 西の空は、赤く燃える太陽を追って見事な茜色に染まっている。

 東の空からは幕を引くように深い群青の闇が張り出し、まだ色の薄い真円の月が顔を覗かせていた。

 視界の中心にそびえる『希望の塔』は、空の色を映してきらきらと輝いている。


 太陽と、月と、そして塔——


 ナミの声が聞こえる。


——諦めなければきっと、良き未来が待っているはずです。


「……帰ろう」


 塔の遥か向こう、地平線の彼方、僕の生まれた街へ。

 僕の無事を祈って帰りを待つ、片割れの元へ。

 穏やかな風が追い越していく。まるで僕を導くように。

 僕とコウは再び歩き出す。恵みの季節は、すぐそこまで迫っていた。

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