変えられない運命

 天正一〇年五月、信長君はいつものように畳に寝転がってだらだらしながら、開けっ放しの障子の向こうに広がる庭を眺めていた。


「あ~あ、今日は雨かあ。なんで上弦月の日に雨が降るかなあ」

「そろそろ梅雨入りの頃ですからな。天に愚痴っても仕方ありませぬ」


 二人がいるのは萬松寺の宿坊である。ここ数年、魔境へはここから出陣している。


「那古野城もいよいよ廃城にしたほうがいいかもね。よしちゃんがいなくなってから、すっかり荒れ放題だし」

三左さんざ殿……惜しい武人を失くしましたな」


 光秀は魔境の写しを巻物にした織田家魔境伝第三巻を開くと、長篠の戦いの項目に視線を落とした。暇を持て余している信長君も光秀の横から覗き込む。


「長篠の合戦かあ。まさか可ちゃんが参戦するとはねえ……」


 太鼓叩きとして魔境へ入った可成は、その後、塞ぎ込むことが多くなった。「織田家の家臣は腑抜けている」この信長君の言葉が可成の心に深く突き刺さったまま抜けなくなっていたのだ。


 信玄が病没してから二年後、今月の魔境便りで「天正三年五月、三河長篠において織田・徳川連合軍と武田軍が激突する」の一文を見た時、可成は即座に参戦を決意した。それも大将としてではなく、名もない足軽として戦いたいと言い出した。


「え~、どうして。足軽なんてすぐに死んじゃうし、死んだ後もそのまま野ざらしにされて誰もとむらってなんかくれないんだよ」

「それでよいのでござるよ。この身は既に死んでおるのです。このまま織田家の役に立てず無為な時を過ごすくらいなら、戦場にてこの身を散らしとうござる」


 そう言って可成は槍一本持って三河へ向かった。それから七年経っても帰って来ないので、恐らく討ち死にしたのだろうと二人は諦めている。

 可成がいなくなったので、上弦月の日に那古野城に立ち寄るのはやめた。今は前日に清洲を出て萬松寺で一泊、次の日歩いて魔境へ出陣している。


「殿が魔境で、『織田家の家臣は腑抜けている』などと口にしたせいですぞ。あんな言われ方をされれば、戦場に赴かぬわけにはいきませぬからな」

「もう、光っちゃんはいつでもそうやって人のせいにするんだから。僕はこれでよかったんだと思うよ。可ちゃんにとっては那古野城で寿命が尽きるのを待つより、戦場いくさばで戦い抜いて死んだほうがよっぽど幸福だったんだよ。そう思わない?」

「ま、まあ、武人らしい死に方ではござるな。さて無駄話は切り上げて魔境へ出陣致しましょう」


 光秀は広げていた巻物を閉じた。いつもの紙と矢立の他にばちを持ち、太鼓を背負う。そろそろ上弦月が昇る頃だ。今日は間違いなくせつ婆が来る。雨の中、待たせるのは気の毒なので早く古渡城跡へ向かったほうがいい、そう判断してのことだ。


「雨、やまないかなあ」


 二人は雨の中を歩き出した。どちらも被り笠に合羽という出で立ちだが、光秀は柿渋と桐油を塗った紙合羽。信長君は舶来の羅紗らしゃを使った丸合羽だ。


「この合羽、意外に蒸れるねえ。やっぱり雨は嫌いだあ」

「我儘はおやめくだされ。それよりも急ぎましょう。この雨の中で長く待たせたりしては、婆も機嫌を損ねましょう」

「そだねー」


 二人が開く節婆の来訪を確信しているのは理由がある。数カ月前の魔鏡に「天正一〇年六月三日、家康、堺にて鯛の天麩羅を食し、それが原因で死去」の表示を見たからだ。


「うわー、イエーちゃん、死んじゃうんだ。どうしよう、可ちゃんみたいにお見送り会を開いたほうがいいかな」

「冗談はおやめくだされ。魔鏡による後の世の先読みは織田家の者しか知らぬこと。如何に親しき徳川家といえど、この秘密を明かすわけには参りませぬ」

「じゃあ知らんぷりしているしかないのか……いや、ちょっと待って。婆も家ちゃんが死ぬのを知っているはずだよね」

「そうでしょうな」

「じゃあ絶対にやって来るよ、魔鏡の表示を書き換えるために。だって婆は家ちゃん大好きだからね。光っちゃん、太鼓叩き頼んだよ」

「仕方ござらぬな」


 こうして二人は婆が来る日を首を長くして待っていたのだが、先々月も先月も来なかった。今月来なければ来月になるが、来月の上弦月の日には家康は死んでいるので絶対に今日来るはず、それが二人の一致した意見だった。


「婆に会うのは九年ぶりかあ。きっと全然変わってないんだろうなあ」

「我らはいささか年を取り過ぎましたな。今となってはこちらが爺と呼ばれてもおかしくはないでござる」


 雨の中、二人はお喋りをしながら歩く。萬松寺の境内を抜け、古渡城跡へ入り、内堀の橋を渡ったところで、崩れた本丸櫓に浮かぶ円環と、その前に立つ人影が見えた。


「むっ!」


 光秀の足が止まった。同時に右手が刀の柄を握る。信長君は身構えはしなかったものの表情は険しくなっている。


「一人は婆、もう一人は……男のようですな」

「うん。一応、用心して近付こうよ」


 二人は警戒しながら本丸櫓へ近付く。相手と二間ほどの距離になった所で立ち止まり、そのまま無言で睨み付ける。と、婆がこれまでにない優しい口調で話し掛けてきた。


「ごめんなさい、驚かせてしまったみたいね。安心して。私が連れてきたのは怪しい人ではないわ」


 婆の言葉を聞いて二人は腰を抜かさんばかりに驚いた。姿形は間違いなく婆だ。しかし言葉遣いも物腰もまるで別人である。


「えっと、そこのお姉さん、本当に婆なの? この九年間で一体何が起きたのかな」

「初めて会った時、あなたたちが問答無用で婆なんて呼ぶから、その通りに振る舞ってあげただけ。これが本来の私の話し方よ。私も、それからこの人も五〇〇年くらい先の時代に生きているの。私は信長さんの子孫でオダ。ホラ、あなたも自己紹介して」

「あ、俺は、いや、私はトクガワという者です。家康の子孫に当たります。今日は頼み事があって来ました。信長さん、よろしくお願いします」


 トクガワは光秀に歩み寄ると手を差し出した。握手を求めているのだ。当然、信長君は憤慨している。


「それは光っちゃんだよ。信長は僕! そそっかしいなあ、君は」

「えっ、これは失礼」


 慌てて信長君と握手をするトクガワ。オダに近寄り耳打ちする。


「オダさん。本当にこの腑抜けた男が信長なのか。俺のイメージと全然違うんだが」

「ちょっと訳アリでね。初めて会った時はちゃんとしていたのよ」

「そこの二人。内緒話をしているつもりでも筒抜けなんだからね。とにかく魔境へ入ろうよ。雨の中で立ち話なんてしたくないでしょう」


 信長君は右手を円環に当てて、さっさと中へ入ってしまった。残りの三人も続いて入る。


「用件はわかっているよ。死すべき運命の家ちゃんを助けて欲しいんでしょう。でもその前に二人が今どんな状況に置かれているのか教えてよ」


 トクガワとオダは洞窟の中を歩きながらこれまでの経緯を簡単に話した。二度の歴史改変によって二人の運命が大きく変わってしまったこと。特に現在トクガワが置かれている境遇はあまりに惨めすぎること。


「何もかも元通りにしてもらおうとは思っていません。平社員、いや、派遣社員でもいいので、せめてアパートに住めるくらいの歴史を与えて欲しいのです」

「私からもお願いするわ。信長さんにとってはどうでもいい出来事でしょうけど、私たち子孫にとって家康の死は大きな転機になる出来事なの」

「う~ん、そうだなあ……一つ訊いていいかな。二人は未来人なんだよね。じゃあ、僕が天下を取るかどうかも知っているんでしょう。今回の書き換えで僕はどうなったの」

「天下を取ります。本来の歴史では幕府を開くのは家康でした。最初の書き換えでそれが秀吉になり、今は信長さんが幕府を開いたことになっています」


 トクガワの返事を聞いた光秀が万歳を始めた。


「万歳、万歳! 殿、遂に織田家の宿願が叶いましたな。目出度い、いや実に目出度い。さっそく今月の魔鏡便りにて各地の家臣に伝えましょう。ふむ、天下取り祝賀会はいつに致そうか」


 大騒ぎする光秀だが信長君の表情は冴えない。やがて四人は魔鏡の間へとやってきた。


「これを使って不正アクセスを実行していたのか。ようやく犯人を暴き出せたような気がするな」


 この魔鏡に半年以上振り回されてきたのだ。正体を突き止めたトクガワは感無量だった。その隣では光秀が紙と矢立を取り出している。百文字要約文執筆の準備だ。


「さて、それでは如何にして家康公を救いましょうや。殿、何か良き案はありますかな」

「ああ、光っちゃん、その件だけどね……」


 声に元気がない。能天気な信長君にしては珍しい。


「僕は家ちゃんの命を助けない、ことにする」


 この返事を聞いた三人は愕然となった。トクガワはその場で仁王立ちになり、オダは崩れ落ちて両膝を地に着け、光秀は猛然と信長君に食って掛かった。


「何故でございますか。徳川家は我ら織田家の盟友でありましょう。すでに天下を取ると決まっている以上、家康公の命を助けることに何の不都合がありましょうや。殿がかくまでに冷たき心の持ち主とは。この光秀、殿を見損ないましたぞ」

「光っちゃん、それ、言い過ぎだよ。まあ、僕の話を聞いて」


 三人の前に立った信長君は、悄然としながらも真剣な口調で話し始めた。


「この二人の話を聞いてね、僕はわかったんだよ。魔王の本当の標的は婆、オダちゃんだって。オダちゃんを不幸のどん底に突き落とす、それが魔王の真の狙い」

「ならば殿が家康公の命を救えば、その狙いは打ち砕かれるはず。何故それを拒まれるのです」

「光っちゃん、話は最後まで聞いてよ。さっき洞窟を歩きながら、書き換えた内容とその結果について教えてもらったでしょ。それでね、僕は過程と結果には相関関係があることに気付いたんだ。最初、僕は義元ちゃんに討たれて死ぬ。その結果、家ちゃんが天下人になり秀ちゃんは小大名になる。次の書き換えでは僕と信玄ちゃんが相討ちになって死ぬ。その結果、秀ちゃんが天下人になり家ちゃんは小大名になる。さらに次の書き換えでは家ちゃんが死に、僕は天下人、秀ちゃんは小大名になる。僕、家ちゃん、秀ちゃん、この三人には切っても切れない関係があるんだ。ねっ、ここまで言えばわかるでしょう」


 三人に何かを悟らせようとするかのように、信長君は話を切った。少しの間があって光秀が言葉を返した。


「つまり、三人の誰か一人が天下人になるには、残りの誰か一人が死に、誰か一人が小大名にならねばならない、そう言われるのですか」


「そう。そして今回の歴史では天下人になるのは僕で死ぬのは家ちゃんなんだよ。この運命だけは絶対に変えられない。たとえ今、書き換えを行なって家ちゃんの命を助けたとしても、またいつかどこかで家ちゃんは必ず命を落とす。僕が天下人になる限り、何度助けてもその都度家ちゃんは命を落とす、きっとそうなると思うんだ」


 魔鏡の間が静寂に包まれた。信長君の言葉の意味がようやくわかったのだ。魔王の目的はオダを絶望の淵に追い込むこと。それは既に達成された。魔王の望み通りになった今の歴史を変えるのは至難の業に違いない。トクガワは、ふっと吐息を漏らした。


「そうか。どうやら諦めるしかないようだな。オダさん、ここまで俺を連れてきてくれてありがとう。それから信長さん、光秀さん、今までオダが随分世話になったみたいですね。俺、いや私からも礼を言わせてもらいます、ありがとう」


 やはり運命は変えられないのだ。それでもトクガワは嬉しかった。ここまで自分を気遣ってくれたオダや信長君、光秀に深く感謝した。

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