求めていたもの

 ネットが社会の隅々まで浸透するにつれ、ネット関連犯罪の取り締まりは厳しさを増していった。

 センターからの告発を受け、任意同行に応じたトクガワには逮捕状が出された。更に拘留請求が出されたため、数日間に渡って身柄を拘束され取り調べを受けた。


 トクガワは警察でありのままを話した。夢で見た薬師如来、不正アクセス、微弱入力信号、信長による歴史書き換え、それに伴う現代の改変、並列して存在する記憶……トクガワにとっては全て真実だ。

 だが取調官は信じてはくれなかった。毎日同じ質問をされ同じ答えを繰り返す。精神鑑定も受けさせられた。トクガワの頭は次第に麻痺していった。


『やはり俺は間違っているのか。室長だったのも平社員だったのも、俺の願望が作り出した妄想に過ぎなかったのか』


 ふと、そんな考えに囚われることもあった。だが、その都度トクガワは弱気になろうとする自分を叱咤した。


『いや、違う、絶対に違う。間違いなく歴史の改変は二度起きている。トクガワ、自分をしっかり持て!』


 針の筵に座らせているような毎日。先の見通しがまったく立たない日々が続き、トクガワの鋼のような心に少しずつ亀裂が生じ始めた、そんなある日、


「釈放だ。トクガワ、出ろ」


 何の前触れもなくトクガワは解放された。覚束ない足取りで警察署から出ると、目の前にはオダが立っていた。


「どうして君がここにいる」

「私が身元引受人になったの。でなければ勾留延長されていたはずよ」

「そうか、礼を言う」


 だがそれはトクガワの本心ではなかった。オダへの疑念は晴れるどころか膨らむ一方だった。会社のエントランスで揉め事を起こした時、オダに言われた言葉、


『私の高校時代の手紙でも見ながら筆跡を真似て自分で書いたのでしょう』


 あの時は気が動転していて気付かなかった。だが勾留されてからトクガワは思い出した。この歴史では高校時代にオダから一度も手紙をもらっていない。もらったのは一つ前の歴史、母が死に、親類を頼って沖縄で暮らし始めたオダから届いた手紙、それだけなのだ。


「オダさん、君は気付いていたんじゃないのか。俺の言葉が正しいことを……」

「待って。ここでその話はよしましょう」


 オダは強い口調でトクガワを遮った。二人がいるのは警察署の正面玄関。言い合いをするには不適切過ぎる場所だ。


「私の家に行きましょう。そこで積もる話でも聞かせて」


 止めてある車のドアが開いた。トクガワは無言で後部座席に身を滑らせた。


 車の中では現在トクガワが置かれている状況をオダが簡単に説明してくれた。まだ処分保留の身であること。しかし不起訴になる可能性が高いこと。その理由はトクガワが不正アクセスをした証拠を掴めないから、そして逮捕後も不正アクセスが続いているから、などなど。


「結局トクガワ君の妄想だったという線で落ち着きそうよ。不正アクセスが始まった三月七日という日付は秀信の葬式の日。メンイフレームのメンテンナンスが午前と午後の零時であることはおおやけになっている。二回の書き換えは信長の危機、桶狭間の戦いと信玄上洛中止の日に近い。それらの事実からあなたが作り出した妄想、そんな結末に落ち着きそうね」


 トクガワは何も言わなかった。口を開けばお互いを傷つけあう言葉しか出て来ない。気の進まない会話はできるだけ後回しにしたかった。

 数十分後、車は止まった。正面にそびえる超高層ビルを見てトクガワは驚きの声を上げた。


「ここは、俺が住んでいたマンションじゃないか」


 偶然はそれだけではなかった。住んでいる部屋まで同じだった。


「室長だったトクガワ君は住所不定。今このマンションに住んでいる私は室長。何もかもが逆になってしまったわけね。お風呂、沸いているわよ。入ったら」


 上から目線で指図するオダ。それはトクガワの記憶にあるオダではなかった。まったく別の女のように思われた。

 トクガワはバスルームに向かった。かつて住んでいた部屋なので勝手はわかっている。汚れた服を脱ぎ、シャワーを浴び、疲れた体をバスタブに沈める。用意された服に着替えリビングに入ると、テーブルにはミルクコーヒーのカップが置かれていた。


「どうぞ。高校の頃から好きだったものね」


 ソファに座って飲む。オダも何か飲んでいる。恐らくアルコールの類だろう。トクガワが一息つくとオダはまた話を始める。獲物を見るような目をしている。


「センターでは知らない振りをしてしまってごめんなさいね。あそこまで騒ぎが大きくなっては他にどうしようもなかったの。あの時すでにあなたは気付いていたのでしょう。私が前の歴史の記憶を鮮明に覚えていることを」

「ああ気付いていた。疑わしい言葉を二回も聞かされたんだからな」


 トクガワの返事を聞いたオダは嬉しそうに笑った。ようやく腹を割って話し合える、そう言いたげな表情だ。


「どんなに社会的地位が高くなっても、そそっかしい点は治らないみたいね。一回目は室長、二回目は手紙。うっかり口を滑らせてしまったわ。特に手紙は致命的だったわね。三度の歴史の中であなたに手紙を出したのは二度目の私だけなのだから」


 沖縄の親戚と住むようになってしばらくの間、オダはモバイルを持てなかった。その僅かな期間、トクガワとは文通で付き合いをしていた。その記憶が今のオダに紛れ込んでしまったのだ。


「やはり君なのか。不正アクセスも歴史の書き換えも、全て君がやったのか」


 トクガワは余計な言葉を聞きたくなかった。ただこの質問の答えだけが欲しかった。オダはグラスを傾けながら余裕たっぷりに答えた。


「ええ、そうよ。全て私がやったこと。でも証拠はないわ。私がコンピュータルームに入った記録も一切残っていない。犯行時の歴史は改変されてしまったのだから」

「見事なまでの完全犯罪だな」

「そうね。けれどトクガワ君も心配は無用よ。あなたが犯人だという証拠だってないのですもの。不正アクセスはバグ、微弱信号はノイズ、そのように処理されて終わりよ」


 トクガワは唇を噛み締めた。オダにとっては全て終わったことなのだろう。しかしトクガワにとっては終わっていない。むしろこれから始まるのだ。


「教えてくれ。どんな手を使ったんだ。最初の歴史では空調設備の調整員、二回目の歴史ではサーバ管理室の派遣社員、センターの内部に入り込んでいるとは言っても、ハッキング行為に及べば即座に発見されるはず。室長だった頃の俺ですら、セキュリティ統合室から常に監視されていたんだからな。どんな方法でセンターのセキュリティを突破したんだ」


 不意にオダは立ち上がった。ワインセラーからボトルを取り出しグラスに注いでいる。酔わなければとても話せない、そんな風にも見える。


「あなたも飲む?」

「いや、俺はいい」


 トクガワは断った。とてもそんな気にはなれない。オダは少し口を尖らせるとボトルをテーブルに置いた。


「魔王の力を借りたのよ」

「魔王?」

「そう。最初の書き換えがあった後、お昼を一緒に食べながらトクガワ君は話してくれたわね。夢に薬師如来が出てきたと。私も同じ。出てきたのは第六天魔王。信長が自ら名乗った魔物。そいつは言ったのよ。この貧しい暮らしから抜け出したくはないか。今まで見上げてきた人間を見下してみたくはないかって。底辺を這いずるように生きていた私にとって、それは神からの福音のように聞こえた。もちろん承諾したわ。そして魔王の言葉に従い五五〇年前の信長に直接会った。彼に不正アクセスの方法を教えた。運命を変えるためにメインフレームのデータを書き換えた。私と魔王と信長、ハッキングはこの三人で行なったのよ」

「信長に直接会った、だって……」


 荒唐無稽すぎる話だった。何を聞かされても全て受け入れるつもりのトクガワではあったが、このオダの話には驚きを隠せなかった。


「信じたくないのなら信じなくてもいいわ。私の行為を裏付ける痕跡は何一つ残っていないのだから」

「いや、俺の話だって他人から見れば単なる妄想だ。君の話も俺の妄想と大差ない。君の口から真実が聞けてよかったよ。これでもう思い残すことはない」


 トクガワの心は平穏を取り戻していた。今はむしろオダが哀れに思えて仕方なかった。


「ふふ、私を軽蔑しているんでしょう。室長になるために魔王に魂を売った、そう思っているのではなくて」


 トクガワは力なく頭を横に振った。


「俺はようやくわかったよ、最初の歴史の君がどんな想いで生きてきたのかを。警察に勾留されている間、今の歴史の俺がどんな生き方をしていたのか俺はずっと探り続けていた。悲惨だった。握り飯一個だけの弁当。好きな女子生徒からおかずを分けてもらう時の屈辱。大学進学できなかった悔しさ、社会に出てからの惨めな生活。親爺が死んで自由になっても不自由な生活は変わらない。もし魔王からこの境遇を変えてやると言われたら、俺もその申し出を受けていたはずだ、君と同じように」


 オダは不敵な微笑みを絶やさない。トクガワの言葉が全て真実だとは思っていないのだ。


「トクガワ君には気の毒なことをしたわね。言い訳に聞こえるかもしれないけれど、家康を死に追い遣ったのは私の意思ではないわ。私と信長が書き換えた歴史は信玄の陣中病没だけ。その数年後に家康が死ぬなんて予想もできなかった。でも安心して」


 オダはグラスを置いた。テーブルを挟んでトクガワの顔に自分の顔を近付けた。アルコールのせいか少し頬が火照っている。


「責任を取らせてちょうだい。私があなたの面倒を見てあげる。住む所も働く場所も探してあげるわ。もしよかったら、ここで一緒に住んでもらっても構わな……」

「いや、それはできない」


 トクガワはきっぱりと言い切った。その目は真っすぐオダを見詰めている。


「どうして断るの。私は変わったわ。以前はあなたに相応ふさわしくない女だった。前科者の父、施設育ちの環境、派遣という不安定な地位。でも今の私は違う。トクガワ君とこうして対等に話せる女になった。私の世話になったところでトクガワ君は何の引け目も感じなくて済むはずよ」

「そうだ。君は立派になったよ。以前の俺とならお似合いだったろうな。だが、俺はもう以前の俺じゃない。君が対等に話したかった俺はもういないんだ」

「トクガワ君は変わらないわ。以前の記憶をまだ持っている。このままセンターに復帰しても何の支障もなく働けるはず」

「いいや、違うよ、オダさん」


 トクガワは力なく頭を振った。その様子はまるで老人のようにひどく疲れて見えた。


「新しい記憶は古い記憶を徐々に浸食していく。留置所でそれを嫌になるほど感じた。このまま一年も過ぎれば新しい歴史はこの俺を新しい俺に作り変えてしまうだろう。そうなれば俺は単なる社会の落伍者だ。今の君には不釣り合いだ」

「そんなこと、ない……」


 オダは否定できなかった。トクガワの言葉はオダ自身も感じていたからだ。二つ前の歴史で味わった貧しい自分の記憶、それはもうオダの中にはほとんど残っていない。新しい自分になりつつあるのはオダ自身もわかっていた。


「なぜ施設を出た後、君が俺に連絡をくれなかったのか、今、君と同じ立場に置かれてようやくわかった。俺の幸せを考えてくれたからだ。今の自分と一緒では俺を不幸にするだけ、そう考えた君は敢えて俺の前から姿を消した。それと同じだよ。君と俺の立場が入れ替わったのなら俺もまた身を引くべきだ。もう君には会わない。魔王の力を借りてまで掴んだ君の幸福を壊したくないから」


 トクガワは立ち上がると唯一の持ち物であるバッグパックを掴んだ。どこへ行く当てもない。が、ここは自分が居るべき場所ではない。早く立ち去りたかった。


「待って!」


 オダが両手を広げてトクガワの前に立ち塞がった。目は大きく見開かれ、頬は赤く上気している。


「私の話を聞いていなかったの。どうして私が魔王の言い成りになってこんなことをしたか。私の目的は偉くなることでも室長になることでもない。トクガワ君に相応しい女になりたかった、何の引け目も感じずにあなたとお喋りがしたかった、私が求めていたものはただそれだけ、それだけなのよ」

「ありがとう。そこまでオダさんに思ってもらえて嬉しいよ。だけど君が求めたトクガワはもうこの歴史にはいない。君に相応しい俺は俺じゃないんだ。さようならオダさん。俺の分まで幸せになってくれ」


 オダの両手から力が抜けた。項垂うなだれて立ち尽くすオダの横をトクガワがすり抜ける。ドアが開き、閉じる音がする。オダは振り向いた。あなたがいないのに幸せになれるはずがない、そう言いたかった相手はもうこの部屋にはいなかった。ただ冷たく頑丈なドアがオダの心を封じ込めているだけだった。

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