魔境究極奥義「発句印具」

 やがて四人は魔鏡の間へ到着した。秀吉は真ん中に置かれた巨大な魔鏡を見て、猿のような阿呆面になっている。


「これ、秀吉。いつまで呆けておるのじゃ。太鼓を叩く支度したくを致せ」


 婆に言われて慌てて背中の小太鼓を下ろす秀吉。婆は光秀にも注文を付ける。


「先ほど説明してくれたおぬしの戦略じゃが、あのままでは長すぎて時間がかかりすぎる。百文字以内に要約して紙に書け」

「百文字でございますか。これはまた少ない」

「それが婆の限界じゃ。つべこべ言わずにさっさと始めよ」


 光秀は紙と矢立を取り出して筆を走らせ始めた。婆は魔鏡の後ろで何かをしている。信長君は完全に手持ち無沙汰状態だ。


「ねえ、婆。さっき書き換えるって言っていたけど、具体的にどうするの。魔鏡に向かって『これこれこういう風に書き換えて』ってお願いするの?」

「それで済むなら苦労はないわ」


 婆は魔鏡の後ろから細い紐を引っ張ってきた。端には黒い磯辺焼きのような物がくっ付いている。


「心の準備も兼ねて、おぬしたちにこのカラクリの仕掛けを少し説明してやるかのう。おい、秀吉、数を数えてみよ」

「へ、へい。ひい、ふう、みい……」


 秀吉が十まで数えると婆は止めさせた。


「零を入れると数は十個しかない。十以上の数は桁を上げて十個の数を用いて表す、それが人の世じゃ」

「そんなこと言われなくてもわかっております」


 秀吉は口を尖らせた。魔境への随行を始めて以来、織田家家臣の名に恥じぬよう必死になって読み書き算盤に励んでいたのだ。そのおかげで今では人並みの教養を身に着けている。


「じゃがな魔境では違うのじゃ。数など十も要らぬ。二つで足りる。零、一。それだけあれば全ての数を表せる」

「へっ?」

 と秀吉。理解できていないようだ。


「確かに」

 と信長君。完全に理解できている。


「はて……零と一だけで……なるほど、桁を増やしていけばよいのですな。さて続き続き」

 と光秀。少し考えて理解できたようだ。納得したら引き続き要約文執筆に精を出す。婆は話を続ける。


「この魔境も二つの数だけで動作しておるのじゃ。零か一か、それが魔境におけるの言葉。二つの文字だけで全ての言葉を作っているとも言える。言葉とは即ち信号、信号は数でなくてもよい。零か一か、有るか無いか、黒か白か、明るいか暗いか、高電圧か低電圧か。要は二種類あれば何でもよいわけじゃ」

「つまり、僕らがいつも魔鏡に向かって喋っている言葉も、最後には零と一に置き換えて、魔境は理解しているってこと?」

「ほほう、腑抜けの割にはお利口ではないか。その通りじゃ」

「ならいつものように言葉で頼めばいいじゃない。書き換えてくれって」

「そうは問屋が卸さぬのじゃ。書き換えは魔境の中で最大の禁じ手。その技は厳重に封印されていると同時に様々な罠が仕掛けられておる。魔鏡に頼んだりしたら、その瞬間、我らはアクセス権を奪われて魔境の外へ排出され、二度と入れなくなるじゃろうな」

「じゃあ、どうするの?」


 信長君の心配そうな顔を見て、婆はにやりと笑う。


「直接データを叩きこんでやるのじゃ、中央演算処理装置にな」

「データ? 中央?」


 如何に利口な信長君でもこの言葉は理解できない。婆は構わず話を続ける。


「信長、おぬしは魔王の声を聞いた、しかしそれは耳で聞いたのではなく直接頭の中へ響いてきた、そうじゃろう」

「うん。よく知ってるね」

「婆もそうじゃったからな。言葉が頭の中に湧いたような気分じゃった。此度こたびも同じこと。魔鏡という耳を介して中央へ言葉を届けようとすると、立ちどころに魔境の罠が発動し、我らの企みは阻止されてしまう。じゃが、直接魔境の頭、中央演算処理装置へ言葉を届ければ、我らの願いは容易たやすく聞き入れられるはず」

「凄い凄い、どうやってやるの」

「これを使う」


 婆が見せたのは、先ほど魔鏡の後ろから引っ張り出してきた紐だ。


「本来なら入力装置で簡単に送信できるのじゃが、この魔境ではこのようなものしか用意できなんだわい。これは零と一の代わりに声の高い低いを使う装置。零が低音、一が高音じゃ。光秀、百文字にまとめられたか」

「できておりますぞ」


 光秀が書き換え文を差し出す。目を通して納得した婆は信長君にそれを渡した。


「信長、おぬしも読め。異論がなければ承認の証しに花押かおうしるすのじゃ」

「え~、面倒だなあ。婆がいいなら僕もそれでいいよ」

「そうはいかぬのじゃ。魔王が力を与えたのは信長一人だけ。おぬしがこの魔鏡の間にらねば婆とて魔鏡を使えぬのじゃ。此度は書き換えという最大の禁じ手を使う。おぬしの花押がなければそれを試みることさえできぬじゃろうて」

「あ、そうなの。んじゃ書くよ」


 事情を飲み込んだ信長君はポチポチと花押を書く。最近新しく作った花押で「汁が飛び散ったざる蕎麦」のイメージだ。信長君は気に入っているのだが家臣の評判はすこぶる悪い。


「これでいいかな、婆」

「うむ。百文字で二百バイト、千六百ビットか。秀吉、太鼓を叩いてみよ。一定の拍子で打ち続けられる最速の叩き方で頼むぞ」

「ははっ、お任せくだされ」


 秀吉が軽快に太鼓を叩き始める。婆は足で拍子を取りながらそれを聞く。


「一秒間に四打といったところか。文字データと命令コードを合わせて七分ほど。それだけの間、集中力を切らさぬようにせねばな」


 婆は光秀の百文字要約文を魔鏡の前に掲げると叫んだ。


「読み込み! 文字コード二進数変換!」


 たちまち魔鏡の表面は0と1の二文字でぎっしりと埋め尽くされた。これが何の意味を持つのか光秀も秀吉も理解できない。しかし信長君だけは何となくわかった。


「たくさん並んだ丸と棒……これが魔境の言葉なんだね。光っちゃんの要約文を魔境の言葉に直すとこうなるんだね」

「そうじゃ。今から婆がこの言葉を喋る。この言葉で魔境に記録されている内容を書き換える。これぞ魔境究極奥義、ハッキングじゃ」

「ほっくいんぐ、とな」


 光秀が首を傾げた。また当て字を考えているようだ。婆が簡単に説明する。


「連歌の発句ほっくのように言葉を発し、思い通りの記録をしるす。この道具を使ってのう」


 この言葉を聞いてはたと膝を打つ光秀。


「なるほど。発句で印す道具。『発句印具ほっくいんぐ』でござるな」

「うわ~、光っちゃん、今回はカッコイイね。発句印具かあ」

「なにやら異国の言葉のように聞こえまする」


 信長君も秀吉も大喜びだ。その間も婆は必死に魔鏡の数値を見詰めている。これを今から声に出して入力するのだ。一文字の失敗も許されない。


「秀吉、もう一度叩いておくれ」


 いつの間にか叩くのを止めていた秀吉を催促する婆。叩き始めた音に合わせて小声でぶつぶつとつぶやき始めた。本番に向けた最後の調整のようだ。


「ねえねえ、太鼓は何のために必要なの」

「音を区切るためじゃ。高音、高音と同じ音が二回続いた場合を考えなされ。連続していては一つの高音なのか二つの高音なのかわからぬじゃろ。しかし、高音、太鼓、高音と続けば、はっきり二つの高音とわかる。その為に叩くのじゃ」


 納得する信長君。答え終わった婆はまた呟き始める。念には念を入れて稽古をしておきたいのだろう。


「よし、肝が据わった。秀吉、一旦休止」


 しばらくしてようやく婆の覚悟が決まったようだ。秀吉の手を止めさせると三人に向かって言った。


「これから技を発動させる。最初は演算装置を駆動させる命令コード。それに続いて魔鏡に表示させたデータを入力じゃ。おぬしたちは決して音を立てるでない。余計なノイズを拾われるとそれだけで失敗するからのう。魔鏡から離れて口に手を当てておれ。秀吉、おぬしも絶対に口を開くでないぞ。そして常に一定の拍子で太鼓を叩き続けるようにな」

「ははっ、必ずやご期待に沿えてみせまする」


 出世欲に燃える秀吉のここ一番の勝負強さは折り紙付きである。

 信長君と光秀がずっと離れた場所で口に手を当てているのを確認した婆は、魔鏡をぐっと睨み付けて、音声入力装置を口に近付けた。


「太鼓、叩け!」


 秀吉が叩き始める。婆が声を出す。


「ああおあおおあおあおあおおお……」


「あ」が高音、つまり一。「お」が低音、つまり零。見事なまでに太鼓の音に調和した婆の魔鏡言葉は、何かの呪文のように聞こえる。


 魔鏡の間には太鼓の音と婆の声だけが響いている。信長君も光秀も音を立てないように身を固くして成り行きを見守る。秀吉は人間技とは思えぬ正確さで太鼓を叩いている。それに合わせて声を出す婆は経をあげる僧侶のようだ。

 この光景は永遠に続くのではないか、そう思われた時、ふっと婆が口を閉じた。


「終わった……秀吉、もういいよ」


 秀吉の手が止まる。魔鏡の間は静寂に包まれた。信長君と光秀が二人の元へ走り寄って来る。


「書き換えられたの? 婆」

「多分な……光秀、確かめてみるのじゃ」


 光秀は右手を魔鏡に当てた。はっきりとした声で言葉を発する。


「永禄三年五月、尾張織田家!」


 それまで表示されていた0と1の羅列は消え、文字と映像が映し出された。


「五月十二日、今川義元、二万の兵を率いて駿府を立つ。十七日、沓掛城に到着……」


 光秀が魔鏡の表示を読み上げる。最初は変わらない。以前と同じ内容だ。光秀はそのまま読み進める。


「十九日寅の刻、織田信長、清洲城より出陣。巳の刻、善照寺砦の信長本隊三千となる。半刻後、信長二千の兵で出撃。牛の刻過ぎに降り出した豪雨に乗じ今川本隊を奇襲。義元、桶狭間にて討ち死に……お、おお……」

「や、やりましたな! お見事でございます。勝利を祝ってこの猿めが猿の舞をご披露致しましょう」

「やれやれ、これで織田家もしばらくは安泰じゃろうて」


 光秀は感激のあまり涙を流して絶句している。秀吉は太鼓を鳴らしながら舞い踊っている。婆は疲れたのか床に座り込んで肩を揉んでいる。しかし信長君だけはいつも通りの腑抜けた表情で魔鏡を眺めていた。


「さて仕事も済んだし、婆は一足先に帰るとしようかのう。おぬしたちも後は帰るなり魔鏡で何か見るなり、好きにしなされ」

「婆よ、此度のこと心より礼を言わせてもらうぞ、この光秀……」

「ログオフ!」


 光秀の感謝の言葉を聞かずに婆は消えてしまった。光秀は気を取り直すと、紙と矢立を取り出して魔鏡の表示を書き写し始めた。


「家臣の皆にも早く知らせてやらねば。きっと大喜びするであろうな。おや、殿、どうなされた。浮かぬ顔をしておられるが」


 信長君は突っ立ったままだ。いつものように小説を読もうともせず、魔鏡の表示をぼんやり眺めている。


「これで本当によかったのかなあ」

「よかったに決まっております。何故そのように思われるのですか」

「これからは僕だけじゃなく織田家の家臣全員腑抜けになるよ、きっと。だって後の世を知るだけでなく、好きなように変えられるんだもの。そう思わない、光っちゃん」

「当家の家臣に限ってそのようなこと、あるはずが……」


 光秀はその先を続けられなかった。明確に否定できる自信がなかったからだ。


「本当に、これでよかったのかなあ……」


 信長君はもう一度つぶやくと、魔境によって新しく構築された己の未来を眺め続けていた。

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