大騒ぎ清洲城

 寝転がって書物を読む信長君の横で光秀が物思いに耽っていると、御殿の庭が騒がしくなってきた。


「来たか」


 光秀は庭に面した障子を開けた。最近、名前の後に『秀吉』の二文字を追加した木下藤吉郎秀吉が、二頭の馬の手綱を引いてこちらへ歩いてくる。


「藤吉郎、ご苦労であったな」

「あれ、ひでちゃんじゃない。どうしたの」


 以前は秀吉を『猿』と呼んでいた信長君ではあったが、後の世のエンターテインメント作品にちりばめられている三原則「友情」「努力」「勝利」に感化され、光秀を『光っちゃん』と呼ぶように秀吉も『秀ちゃん』と呼ぶようになっていた。


「殿、お忘れですか。本日の月は上弦。魔境の輪が出現する日でございます」

「ああ、そうだった。この城に来てから本当に面倒くさくなったよね。那古野に居た頃は歩いてもそんなに疲れなかったけど、今は馬にでも乗らなきゃ帰りがだるくてさあ」


 現在の居城である清洲城から古渡城跡まで約二里。歩いて一刻、馬で半刻ほどかかる。当主になる以前はそれくらいの道のりで不平を言うような信長君ではなかったのだが、毎日平成の世のラノベばかり読んでいるせいで、すっかり体がなまってしまったのだ。


「殿、前回は魔鏡を見られなかったのです。今回こそは何としても見ておかねばなりませぬ。さあ、参りますぞ」


 光秀に言われて信長君は渋々遠出の支度に取り掛かる。新しい読み物を書き写すための紙と矢立。ついでに餅と昆布巻きと栗きんとん水筒も用意させている。馬に乗りながら食べるつもりなのだ。


「出陣じゃ!」


 信長君と光秀は馬を並べて歩き出した。秀吉は走って後を追い掛けてくる。二人が魔境に行っている間、馬の番をするために付いて行くのだ。


「今回は奥の間に入れるかなあ」

「それは心配ご無用と思われまする。これまで二度続けて入れなかったことは一度もなかったのですからな」


 魔鏡の置かれている空間に入るには輪戸わど札が必要だ。せつ婆からありったけの札を貰ってはいたが、十回に一回ほどの割合で、手持ちの札を全て使っても入れなくなる事態が発生していた。

 だが次の上弦月の日には、魔鏡に通じる円環の前に必ず新しい破す輪戸札が置かれていた。そしてそれを使えば必ず入ることができた。


「開く節婆は常に我らを見守っていてくれるようですな」


 あの日以来、信長君も光秀も開く節婆に会っていない。だが札を置いているのは婆以外に考えられない。恐らく魔境に入らずとも札を置くくらいの操作は簡単にできるのだろう。


「あ~、やっと着いた、うっぷ」

「食べ過ぎですぞ、殿」


 廃城跡には既に円環が姿を現わしている。後でわかったことだが、手のひらに開く節文様を持つ者がいなければ、たとえ上弦の月が昇っていても円環は姿を現わさない。逆に姿を現わしていても、信長君や光秀が円環から十間ほど離れると消えてしまう。上弦の月が昇り、かつ、開く節文様を手に持つ者が近くにいる、この二点が円環出現の条件のようだ。


「されば行って参る。藤吉郎、馬を頼んだぞ」

「お任せください。お二方、御武運を」

「秀ちゃん、残った餅、食べていいよ。いつも走って付いてきてくれてご苦労さん。お年玉だよ」


 信長君からお年玉を貰った秀吉は感激のあまりその場に平伏した。


「と、殿、かたじけのうございます。この木下藤吉郎秀吉、三国一の果報者にて……」


 その後、秀吉は延々と感謝の言葉を述べ続けたが、既に二人は魔境に入ってしまっていたので、ただの独り言になってしまった。


「おお、此度こたびも札が置かれている。開く節婆、礼を言いますぞ」


 いつものように洞窟を下り、火の壁を消し、洞窟の行き止まりへやって来た二人。魔鏡へ通じる円環の前に破す輪戸札が置いてあるのを見て、光秀はひとまず安心した。


「んじゃ、入ろうか」


 置かれていた札を使うと難なく円環を抜けられた。魔境の右に信長君、左に光秀が座り、画面分割してそれぞれが読みたい事柄を表示させる。


「今回はこのお話にしようかな」


 魔鏡に新しい読み物が映し出されると、信長君はせっせとそれを書き写し始めた。一方、光秀も半年先までの出来事をせっせと書き写す。今回は先月入れなかったので二カ月分だ。織田家の他に周辺の今川家、斎藤家、北畠家の情勢なども書き写すので結構な量になる。


「ふむふむ、五月十二日、今川義元殿、二万の兵を率いて駿府を立つ、か。家督を譲って隠居しても元気な御仁であるな。十七日、沓掛くつかけ城に到着。十八日、松平元康殿、大高城へ兵糧入れ。あの竹千代も立派になったものであるな。十九日、丸根・鷲津砦陥落。佐久間盛重殿戦死。義元殿、沓掛城から大高城へ移動開始……」


 魔鏡の記述を読み上げる光秀の声が徐々に小さくなっていく。顔色も優れない。


「こ、これは……」


 光秀の手から筆が落ちた。目は魔鏡を凝視し、口は開けっ放しになり、紙を持った左手はブルブルと震えている。が、すぐに己を取り戻すと、魔鏡の右側に座っている信長君に駆け寄った。


「と、殿、一大事でござる。こちらへ来てくだされ」

「え~、今、忙しいんだけどなあ。あの表示が零零零零になってからにしてくれない」

「それまで待っていたらここから排出されてしまうではないですか。とにかく一刻も早く魔鏡の左側へ来て、表示を読んでくだされ」


 光秀は腕を掴んで強引に信長君を連れて行こうとする。こんな状態では書き写すこともままならないので、仕方なく魔鏡の左へ移動する。


「ええっとなになに、信長君、南の島へ湯治に出掛け、名物の黒糖もずくを賞味する、か」

「どこにそんな記述があるのですか。それは殿が書き写していた読み物の話でありましょう。きちんと五月の出来事を読んでくだされ」

「光っちゃんは冗談がわからないなあ。ええっと、五月二十日、善照寺・中島砦陥落。義元と元康は那古野へ進撃開始。二十一日、那古野城陥落、林秀貞戦死。二十二日、清洲城総攻撃。籠城していた織田信長、善戦むなしく戦死。織田家は滅亡する。嫡男信忠はかろうじて逃れ、その後の消息は不明。一説には出家したと伝えられている、か。あ~あ、織田家滅んじゃったねえ」

「何を呑気なことを仰っているのですか。四か月後、殿は身罷みまかられてしまうのですぞ」

「ホントだあー。短い生涯だったねえ」


 信長君はまるで他人事である。ここまで腑抜けでは話にならない。光秀は話を切り上げると、写し終わった紙を丸めた。事は急を要する。直ちに帰城し家臣たちに伝え、織田家存続のための対策を練らなくてはならない。


「殿、帰りますぞ。支度をしてくだされ」

「え~、どうして。まだ来たばかりだよ。帰りたいのなら光っちゃん一人で帰りなよ」

「承知致した。六王ろくおう!」


 光秀は迷わず排出の呪文を唱えた。これほど腑抜けていては説得しても時間の無駄である。それに信長君を話し合いに出席させても碌な意見など出るはずがない。居ない方がマシである。

 呪文を唱えた光秀は一瞬で廃城跡に飛ばされた。目の前には秀吉がいる。


「この餅も昨年の晦日に殿自らが杵を振るって搗かれた餅だとか。そのような有難き餅を拙者の如き小者にお与え下さるとは、この木下藤吉郎秀吉、感謝の言葉もございませぬ」


 感謝の言葉がないと言いながら秀吉はまだ平伏して感謝の言葉を述べている。二人が魔境に入ったことにまだ気付いていないようだ。


「藤吉郎、帰るぞ。馬を出せ」

「えっ、もうお帰りになるのですか。おや、殿の姿が見えませぬが」

「殿は後で来る。拙者だけ先に帰城するゆえ、おまえはここで殿を待て」


 光秀はそれだけを言い残して一目散に清洲城へ戻った。


「そ、それは誠でござるかっ!」


 光秀からの報告を受けた織田家家臣たちは騒然となった。魔王について全てを打ち明けて以来、光秀は魔鏡から書き写した内容を全て家臣たちに見せていた。最初は半信半疑だった家臣たちも光秀の言葉通りに事が起き、一度も違えることなく見せられた通りの結果になる、という事実が八年も続くと、もはや信じぬわけにはいかなくなっていた。


「魔王の力を借りたという噂は嘘ではなかったのか」


 信長君が腑抜けになった分だけ光秀が賢くなった、今では全家臣がそう信じている。その信頼厚き光秀が織田家の滅亡を報告したのである。大騒ぎにならないはずがない。


「ここは手っ取り早く今川家に降伏を」

「今川の家臣になったところで松平家のようにこき使われるだけだ」

「相手の動きは完全にわかっている。ならば負けるはずがない」

「動きがわかっているだけで数万の軍に数千の軍が勝てようか」


 意見百出の家臣たちを前に光秀は頭を絞る。これまでは特に策を講じることもなく魔鏡の表示のままに事を進めてきた。しかし今回ばかりは放ってはおけない。信長君が戦死するのだから家臣団も全員討ち死にするはずである。織田家だけでなく己が生き延びるためにも、歴史を変える方策を考え出さなくてはならない。


「秀ちゃん、お疲れさま。馬にはたっぷり水と餌をあげてね」


 外から信長君の声が聞こえてきた。ようやく廃城跡から戻って来たのだ。

 議論に熱中していた家臣たちは一斉に冷めた表情になった。


「あれ~、みんな集まってどうしたの。もしかして宴会?」


 襖を開けて信長君が入って来る。明らかに場違いの人物、できれば即刻退場して欲しいと誰もが思ったのだが、如何に腑抜けでも相手は当主である。仕方なく上座に着かせて光秀が説明する。


「宴会ではござらぬ。魔鏡が映し出した当家の一大事、五月の今川勢侵攻について話し合っておるのです」

「ああ、そのことか。考えたって無駄だよ。魔鏡がそうなると言ったら、絶対にそうなるんだから。これまでもずっとそうだったじゃん。僕さあ、最近時間を行ったり来たりする小説を読んだんだよ。で、その話に出て来る人がね、死んじゃったお友達を生き返らせようと努力するんだけど、全然うまくいかないんだ。今回もそれと同じ。織田家滅亡は確定事項です」

「だからと言ってこのまま何もせず死を待つことなどできませぬ。魔鏡に示されていたのは籠城戦による敗北。ならば城を出て野戦に持ち込めば勝機もあるはず」


 織田家一の武闘派である勝家が熱い口調で語る。他の家臣たちも賛同の声を上げた。今こそ魔鏡の示す運命に反逆すべき時、そんな声があちこちから聞こえる。


「わかってないなあ」


 信長君は冷めきっている。居並ぶ家臣がどれだけ燃え上がろうとも、信長君のヤル気は氷のままだ。


「少しだけなら変えられるかもしれないさ。だけど大局は決して変わらないんだよ。出陣しようとしたら僕のお腹が痛くなって、結局籠城戦になっちゃうかもしれない。無事出陣したとしても洪水が起きて全軍流されちゃうかもしれない。待ち伏せしていたら雷が落ちて敵に露見し、全軍やられちゃうかもしれない。松平家を調略して寝返りに成功しても、実はそれこそが策略でこっちが返り討ちにあうかもしれない。北畠家に援軍を頼んだら逆に攻め込まれて、結局滅ぼされるかもしれない。ねっ、わかったでしょ。僕らがどんなに頑張ったって、織田家が滅亡する運命は変えられないんだよ。これまでもそうだった。信行君の謀反も斎藤家の内紛も、結局止められなかったじゃん。今回もそうなんだよ」


 家臣たちは一斉に黙り込んでしまった。魔鏡の示す運命の絶対性はこの八年間で嫌というほど思い知らされていた。そして織田家の全員がそれを受け入れてきたのだ。織田家滅亡という承服しかねる運命であっても、これまで通り甘んじて受け入れるしかないのだ。


「ならば魔王は……第六天魔王は何のために殿に力を与えたのですか。天下を取らせるためではなかったのですか。これでは話が違う」

「光っちゃんはまだ魔王を信じていたのか。馬鹿だなあ、ははは」


 信長君はニコニコ笑っている。傍目には頭の弱い童子のように見える。


「最初から僕に天下を取らせる気なんかなかったのさ。考えてもみてよ、相手は魔王なんだよ。人が苦しみ悩み悲しみ嘆く姿を見るのが大好きな魔王なんだよ。彼の目的はひとつ、僕らの、織田家の絶望する姿を見たかったのさ。絶対に変えられない運命を知った時、人は絶望するしかないだろう。きっと今頃魔王は僕らを見て大喜びしているよ。『滅亡までの四カ月間、失意のどん底でもがき苦しむがいい、わっはっは』なんて言っているに違いないよ。だから僕は笑っているのさ。ねえ、どうして僕がいつも腑抜けを装っているのか、みんなはまだ気が付かないのかい。魔王を喜ばせるのが嫌だからだよ。僕らがいつも楽しそうにしていれば魔王は『当てが外れたあ~。全然絶望してないじゃねえか、こいつら』って悔しがるはずでしょう。だからさ、こんな小難しい話で頭を悩ませていないで、ここはひとつパアーっと宴会でも始めようよ」


 光秀は顔を伏せた。今日の今日まで信長君の真意を見抜けなかった己の不明が恥ずかしかった。


「殿、拙者は大変な考え違いをしておりました。お許しくだされ」

「いいんだって。じゃ、宴会を始めようか。ちょっとお姉さん、お酒持って来て~」

「殿、今宵は拙者も飲みますぞ」


 さりとて信長君のような大うつけにはなりたくないなと、心の中でひっそり思う光秀であった。

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