第1話 総合歴史記録センター 2099年

データ管理室 室長トクガワ

 トクガワは濃い霧の中にいた。視界は完全に遮られ、もはや白い闇と呼ぶに相応しい空間だ。その中をトクガワは歩いている。どこから来たのかどこへ向かっているのか、トクガワ自身さえわからない。


「あれは……」


 白い闇の遠い向こうで仄かな光が灯った。何かの条件反射のようにトクガワの足はそちらへ向かう。近付くにつれ光はますます大きく強くなる。白檀に似た甘く清涼な香りも微かに漂い始めている。


 ――聞け!


 声だ。トクガワは足を止めた。これ以上進んではならない、そう思わせるほどの威厳をその声は持っていた。


 ――そなたに危機が迫っている。心せよ。いついかなる時も注意を怠るな。


「危機? 俺にどんな危険があるって言うんだい」


 ――それはそなた次第。降り掛かる火の粉はそなたの取る行動によって大きくもなり小さくもなる。我が言えるのはそれだけだ。ゆめゆめ忘るるなかれ……


 霧の奥から放たれていた輝きが小さく弱くなっていく。トクガワは叫んだ。


「待ってくれ。まだ話は終わっていないだろう。そもそもここはどこだ。あんたは何者だ。どうして俺にそんなことを教えてくれるんだ」


 ――我は薬師如来。そなたの祖、家康公の守り神である……


 光が消えていく。周囲は元の白い闇へと戻っていく。トクガワは手を伸ばした。霧の向こうにまだ淡く灯っている残光を掴むために……


「はっ!」


 残光に手が届いたと思った瞬間、トクガワの五感は日常へと復元した。目に映るのは寝室の天井。耳に聞こえるのは目覚まし代わりのピアノ曲。白檀に似た芳香剤の匂いが微かに漂っている。


「夢か。しかしこれほど鮮明に覚えている夢も珍しいな」


 トクガワはベッドに横たわったまま室内を見回した。三十才を過ぎてまだ独身の男には広すぎる十畳の寝室。昨年、念願の室長に昇進した時、一念発起して名古屋郊外に購入した高級高層マンションだ。


「さすがにそろそろ身を固める時期か。さっき夢の中で聞いた薬師如来、明らかに女性の声だった。まだ早いと言いながら本当は嫁が欲しい、そんな隠れた願望があんな夢を見させたのかもしれんな」


 枕元の時計を見る。ちょうど起床の時刻だ。トクガワはベッドを出ると二十キロの重りを詰め込んだバックパックを背負った。


「ふん、ふん」


 そのまま腹ばいになって腕立て伏せを始める。日課にしている起床後と夕食前のトレーニングだ。職業柄運動不足になりやすいため、室長就任前から実施している。


「よし、今日も絶好調だ」


 設定した回数とセット数をこなしたトクガワは、心地良い筋肉の疲労を感じながらしばし休憩する。だが出勤前の朝は一分でも惜しい。すぐにシャワーを浴び、着替えを済ませてリビングに入った。

 トクガワを感知したディスプレイが直ちに本日の予定と主要なニュースを表示する。テーブルにはメニュー表に従って朝食がセットされている。トクガワはソファに身を沈めて用意されたミルクコーヒーを飲む。


「この数十年でここまで進歩するとはな。子供の頃とは大違いだ」


 加速するIT技術は人々の暮らしを大きく変えた。特に日常生活の細部にまで浸透した人工知能によって、炊事、洗濯、掃除といった家事全般は完全に自動化された。この部屋全体が一人のメイドのようなものだ。男一人の生活でも何の不自由も感じない。


「そのおかげで嫁を貰おうという気も起きないんだから一長一短だな。さて、行くか」


 トクガワは部屋を出て一階へ下りる。マンションのエントランス前にはすでに車が待機している。数年前、自動車も含めた交通機関は完全に自動運転化された。シートで居眠りしていても会社へ連れて行ってくれる。

 トクガワが勤務している企業は総合歴史記録センター。旧石器時代から現代に至る日本の歴史に関するありとあらゆる資料、文書、図画、動画などのデータを電磁的に記録管理し、蓄積された情報を提供する公的機関である。

 このセンターには日本政府が承認した情報しか登録されない。現段階において正しいと認められている歴史だけを取り扱っている唯一の機関だ。

 従って国内のみならず世界各国の教育機関、研究所、自治体などに直結しデータを提供している。情報が更新されれば全ての提供先のデータも瞬時に更新される。このセンターが日本の歴史を作っている、と言っても過言ではないほどの権威ある機関なのだ。


「おはようございます、トクガワ室長」

「ああ、おはよう」


 十五階にあるオフィスに入ったトクガワは、入り口から最も離れた位置にある室長席へ向かう。オフィス全体を見渡せるこの座席に着いて間もなく一年。最初の数カ月は全社員の視線がこちらに向けられているような気がして、毎日が緊張の連続だった。しかし今ではその視線が心地よく感じられるようになっている。


『ようやく上に立つ者としての自覚が備わってきたようだ。このままどこまでも昇り詰めてやる』


 トクガワの上昇志向は室長程度では収まらない。天下を目指した戦国武将の如く常に高みを目指しながら今日も仕事に励むのだ。


「午前は通常業務。午後は役員も出席する会議が一件か」


 デスクの端末で再度今日の予定を確認する。トクガワが室長を務めるデータ管理室では、センターが保有する膨大なデータの管理、保守を行っている。

 勤務中は時間の流れが速い。時は金なり、トクガワはテキパキと業務をこなす。


「室長、チェックお願いします」

「うむ」


 座席に着いたまま職員が声を掛けてきた。トクガワの端末に文書が表示される。センターでは紙を一切使わない。文書の遣り取りは全て端末上で行われる。

 送信に当たって声を掛ける必要もないのだが、特に重要な文書の場合はこうして声掛けをすることもある。トクガワは表示された文書に目を通しながら、子供の頃の自分を思い出した。


『小学生の時には図書館で本を借りて読んだものだが、まさかペーパーレス化がここまで進むとはな。ページをめくる時の手触りが懐かしい』


 書類を使わないのはこの部署だけではない。企業全体、社会全体から「文字や図が書かれた紙」というものがほぼ消滅してしまった。その発端となったのは十年近く前に開発された高信頼性高寿命メモリと超薄型細密ディスプレイである。

 何万回書き換えても決して劣化せず、数百年間確実に記録できるメモリの出現により、あらゆる情報は電磁化された。さらに紙と同程度の薄さのフィルム状ディスプレイを安価で大量生産できるようになると、それを数百枚用いた書籍が製造されるようになった。

 本のページをめくる感覚で極薄ディスプレイをめくり、自由にダウンロードした小説や漫画を読む、従来からあったそのスタイルが完全に一般化したのだ。

 書店は紙の本を売らなくなり、様々な大きさ、形、趣向を凝らしたデザインのディスプレイ本を売るようになった。今では書いたり描いたりするために紙を用いているのは、書道家や美術家というごく限られた人々だけになってしまっている。


「あれも骨董品になってしまったな」


 文書チェックを終え『済』の印を表示させると、トクガワは引き出しの中に入れてあるボールペンを取り出した。高校生の時、付き合っていた彼女から誕生日プレゼントとして貰ったものだ。

 それは安物の、ごくありふれたボールペンに過ぎなかった。しかし上部のクリップにはトクガワのイニシャルが刻まれていた。彼女自身の手で彫られたものだ。


『どうしても世界でひとつの贈り物にしたくて……』


 そう言ってはにかんだ彼女の笑顔は、今でもトクガワの脳裏に残っている。


『彼女、今頃どうしているのだろうな』


 トクガワはこのボールペンを一度も使ったことがない。大切なものだから、という理由だけではない。十年前の大改革によって使う機会がほぼ消滅したからだ。

 トクガワが高校生の頃から筆記用具を一切使わない生徒は既に存在していた。電子端末を使って書き込み、保管し、読み出す、その技術が爆発的に向上した現在、ほぼ全ての人間がペンと紙を捨ててしまっている。


『電灯が普及してランプを壊す童話があったな。おまえもランプのような存在になってしまったな』


 トクガワはボールペンを引き出しに戻すと、北側にある窓の外に目を遣った。ゴチャゴチャと立ち並ぶビルに囲まれて、小さな光点を二つ載せた緑色の屋根がある。かつての尾張徳川家の居城、名古屋城だ。陽光を反射して金の光を放つシャチホコを見ていると、それだけでトクガワの中にはヤル気が湧いてくる。


「はい、トクガワちゃん、ミルクコーヒー」


 馴れ馴れしく声を掛けてきたのはトヨトミだ。トクガワとは大学時代からの知り合いで同期の一人。上昇志向のトクガワとは正反対で出世欲はまったくない。今もまだ平社員のままである。

 出世する気がないのだから上への気遣いもない。上司に当たるトクガワに対しても学生時代と変わらぬタメ口である。


「もう休憩時間か。ありがとな」


 口調が学生時代と変わらないのはトクガワも同じだ。午前と午後に十分間設けられている休憩時はほとんどトヨトミと過ごしている。


「まあ~た名古屋のお城を見ていたんでしょ。徳川家末裔のトクガワちゃんにとって、あのお城は我が家みたいなものね」


 トヨトミは学生時代から女っぽい話し方をする。初対面の時は面食らったが今ではすっかり慣れてしまった。


「そう言うトヨトミも豊臣家の末裔なんだろう。大阪城が恋しくはないのか」

「あんなちっぽけなお城に心惹かれるはずないじゃない。幕府を開いた将軍様と地方の一大名じゃ、比べるのもおこがましいわ」


 大事なのは城の大きさではないだろうと思いながら、トクガワはもう一度窓の外を見た。

 江戸に幕府を開いた家康は西国大名に命じてあの城を作らせた。家康の死後、九男義直が尾張に入って初代藩主となり、以後名古屋城は明治まで続く尾張徳川家の居城となった。天守は戦災で焼け落ちたが復元され、創建から五百年経つ現在まで大切に守られている。


「ねえ、トクガワちゃん、どうして家康はあそこに城を作ったのかしら。あの頃の尾張の中心は清洲だったはずでしょう。そこに建てればよかったのに」

「懐かしかったんだろうな、家康は」

「懐かしかった?」


 トクガワが何を言いたいのかトヨトミには理解できない。トクガワはミルクコーヒーを飲み干すと一気に喋った。


「家康は幼少期のほとんどを人質として過ごした。辛い日々だったと思われがちだが、実際にはそうではなかったんじゃないかな。その証拠に家康は晩年を駿府で過ごしている。今川の人質として十二年間暮らした場所だ。もし人質生活が悲惨なものだったのなら、そんな辛い思い出の残る場所で余生を過ごそうなどと考えるはずがない。名古屋城も同じだ。織田家の人質になっていた時、彼は那古野城の南にあった萬松寺に預けられていたそうだ。幼い頃の思い出は大人になっても残る。江戸に幕府を開き西方に備えて城を築くことを考えた家康は、ふと、幼少期に過ごした寺の近くにあった那古野の城を思い出したのだ。あの日々にもう一度戻りたい、幼い頃に遊んだ場所でもう一度暮らしてみたい、そんな懐かしさがあの地に城を築かせた……それが俺の考える家康だ」


 トヨトミは少なからず驚いていた。トクガワとは長い付き合いだが、家康に関してこれほど詳細に自分の思うところを語るトクガワを見るのは初めてだった。むしろ自分の祖先ということで、話題に出るだけでも嫌な顔をするのがこれまでのトクガワだったのだ。


「珍しいじゃない。トクガワちゃんがそんな話をするなんて」

「ああ、珍しいな。今朝の夢のせいかもしれん」

「夢?」


 トヨトミは続きを聞きたそうな顔をしているが、トクガワはそれ以上話すつもりはない。その代わり空になったコップを差し出した。


「休憩時間は終わりだ。仕事に戻れ」

「ははっ! 承知しました」


 トヨトミは空のコップを受け取ると冗談めかした口調で敬礼した。そしてそのまま立っている。立ったまま動こうとしない。


「どうした。席に戻らないのか」

「伝えたいことがあってね」

「伝えたいこと? 何だ」

「昨晩、不正アクセスがあったみたい。それもメインフレームに」

「何だと!」


 予想だにしていなかったトヨトミの言葉に、一気に表情が険しくなるトクガワであった。


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