開く節婆の導き

 光秀は信長の前にひざまつき、畏れ多くも申し上げた。


「殿、これは如何なる仕儀にてございましょうや。この輪は、この女は……一体何が起きているのですか」

「おまえが戸惑うのも無理からぬこと。ならば話すとするか」


 これ以上隠し通すのは無理と感じた信長は、光秀にこれまでの経緯を簡単に説明した。本堂で聞いた声、魔王の語った話、その指示に従ってこの場に来たこと……全てを聞かされてようやく光秀も納得した。


「左様でありましたか。第六天魔王が力を貸して下さるとは何たる僥倖でありましょう。これで殿の天下取りは確約されたも同然。さりとて何故今まで黙っておられたのです」

「すまぬな。儂も心底信じていたわけではなかったのだ」


 如何に信頼厚き光秀といっても、いきなり「魔王の声を聞いた」と聞かされて、それを鵜呑みにできるはずがない。信じられるような何かがなければ人は信じてはくれない。そう考えた信長は敢えて何も言わずにここまで光秀を連れてきたのだ。


「だが、今こうしてこの世ならざるものを見せられた。宙に浮く光輪……魔王の仕業としか考えられぬ。これを見た今のおまえならば儂の言葉も素直に受け止められるはず、そう考えて全てを話す気になったのだ」

「殿、そこまでお気遣いくだされたのか」


 光秀は感激した。もし、突然魔王の話を切り出されたら、それを信じられたかどうか自信がない。信長の厚き思い遣りに胸打たれた光秀は平伏して泣かんばかりである。そんな光秀を冷ややかに眺めながら女は冷めた口調で手を叩く。


「はいはい、麗しき主従の遣り取りはそれくらいにしてくれないかね。さっさと用事を済ませたいのじゃ」

「おお、そうであった。して、我らはこれから何をすればよい」

「知れたこと。あの円環の中に入るのじゃ。さすれば容易たやすく魔王の力を得られよう」

「どのようにして入る」

「これを使うのじゃ。念のために予備の札を持って来てよかったじゃて」


 女が身に着けた奇妙な装束には左右に袋が縫い付けられている。その片方の袋から女は二枚の札を取り出した。信長は目を凝らして札を見る。大明神の札でもなければ不動明王の札でもない。見たこともない奇天烈な文様が描かれているだけの札だ。


「その札は何だ」

「これは持ち主に魔境へのアクセス権を与えるもの。これがなければあの円環は開かぬのじゃ」

「あくせつ、とな……」


 信長と光秀は顔を見合わせた。そのような言葉は聞いたことがない。光秀は宙に浮く円環を注視した。完全な円ではない乳白色の輪、それはまるで真竹のふしのように見える……光秀の顔が輝いた。


「わかりましたぞ。あの輪は竹の節。それを開けるゆえ『せつ』なのでございましょう」

「なるほど開く節か。ならば婆よ、おまえは『節婆せつばあ』というわけだな」


 信長の言葉を聞いて女は露骨に嫌な顔をした。それでも己の役目をさっさと終わらせたいのだろう、反論もせずに話を進める。


「そう呼びたきゃ呼ぶがええ。それよりも右手を出すのじゃ。ほれ、早く早く」


 女に急かされて二人は右手を差し出す。その手のひらに女が札を押し付けると、札は消えて奇天烈な文様だけが残った。尋常ならざる現象を目の当たりにした二人の口から驚きの声が漏れる。


「これくらいで驚いていたら円環の中では腰を抜かしますぞえ。さて、では中へ入るとしようかのう」

「あの輪をくぐると魔境へ行けるのだな」

「くぐるのではありませぬ。入るのじゃ。あの円環は電脳空間と呼ばれる魔境への入り口。気を付けなされ。一度ひとたびそこへ足を踏み入れれば、人の形をしながらにして人ではない存在となるのじゃからのう」

「人ではない存在だと!」


 光秀の心中に危惧の念が湧き起こった。相手は年増の女ながら魔王の眷属。どのような力を持っているか知れたものではない。その証拠にたった今、札の文様を手のひらに写し取るという人智を超えた技を発動させた。人を人に非ざる者に変化させる技を持っていたとしても不思議ではない。


「聞き捨てならぬな、開く節婆よ。人ではない存在とは如何なる意味だ。もしや我らを魔の者にするつもりか。魔の力を借りるには我らも魔の者にならねばならぬ、そう申すのか」


 いつの間にか光秀の手が刀の柄を握っている。女は溜息をついた。


「ああ、言い方が悪かったようじゃな。人ではないとは、つまり実体がないという意味じゃ。声を用いて喋られる言葉に実体はないが、意味はあるじゃろう。それと同じじゃ。魔境では人としての実体はないが人としての情報はある、そう言いたかったのじゃ」

「いや、しかし……」


 口籠る光秀。女の言葉の意味を全て理解できたわけではないからだ。返す言葉のない光秀に女は愛想を尽かす。


「嫌ならおぬしは入らなくて結構じゃ。用があるのは信長一人だけなのじゃからな。信長、あんたはどうするね」

「人ならぬ存在か。面白い。人を捨て魔になるのも悪くない。儂は入るぞ。十兵衛、気が進まぬのなら残れ。ここから先は一人で行く」

「と、殿!」


 己の信条より主君への忠義を優先させるのが臣下の務めである。残れと言われて残れるはずがない。光秀は腹をくくった。


「いえ、拙者もお供致す。殿が魔となるのなら、この十兵衛も魔となりましょうぞ。開く節婆よ、早くその輪を開けぬか」

「まったく、余計な時間を食ってしまったわい。なら行きますじゃよ。婆の後に付いてきなされ」


 女は己の右手を円環に当てた。吸い込まれるように姿が消えていく。


「おお、これが魔王の力か。しからば儂も行くとしよう」


 続いて信長も右手を当てた。女と同じように消えていく。


「と、殿。お待ちくだされ」


 光秀も慌てて右手を当てた。姿が消える。そして廃城跡はいつもの静けさに戻った。


「これが、魔境……」


 円環を抜けた光秀の目に映ったのは薄暗い洞窟だ。両壁には蝋燭が掛けられ、その灯りが点々と奥まで続いている。

 先に入った女と信長は早くも歩き始めていた。光秀は慌てて後を追う。追いながら改めて周囲を見回す。幅も高さも十尺以上ある広い洞窟。しかしその壁面は岩ではない。鉄とも銅とも違う金属で覆われている。人の手によって作られた抜け道のようだ。


「妙にひんやりと致すな。ここは北国か。それとも山中か」

「どっちでもない。わざと冷やしているのじゃ。熱は禁物じゃからな」

「先ほど『人ならざる者になる』などと申しておったが、拙者も殿も人の形をしておるではないか」

「姿は変わらぬ。本質が変わっておるのじゃ。生身の体は伝達方式の規則に従ってデータ化されておる。さあ、つべこべ言わずに歩くのじゃ。ここに留まれる時間には限りがあるのじゃからな」


 命令口調の女に光秀は閉口する。他にも色々訊きたいことがあるが、あるじである信長を差し置いて出過ぎた真似もできない。ここは無言で付いて行こうと心に決めた。


 道は緩い下り坂になっている。三人は黙々と薄暗い洞窟を下りていく。よく見ると洞窟の壁に掛けられているのは蝋燭ではなく光を放つ透明な球体だ。これも魔の者の技に違いない。

 光秀の心中は穏やかではなかった。ここは魔境、魔の者たちの住処すみかだ。魔王の眷属であるという開く節婆に導かれているとはいっても、己も主たる信長も魔の者ではなく人。明らかにここには場違いな存在だ。もし魔の者たちに見付かったとしたらどうなるのだ……


「ああ~、開く節婆よ、ちと尋ねたいことがある」


 口を利くのは控えようと心に決めた光秀ではあったが、次第に募ってくる不安がその戒めを呆気なく破らせてしまった。


「何じゃ」


 不機嫌そうな声で女が答える。光秀は信長の顔色を窺いながら小声で問う。


「ここは魔境。となれば魔王の他にも多くの魔が潜んでいるのではないか」

「そうじゃ。それがどうしかしたか」

「もし拙者たちが魔の者たちに見付かったら、どうなるのだ」

「直ちに囚われの身となり魔境から追放されるじゃろうな。相手によっては命を奪われるやもしれぬ」

「命を!」


 光秀が悲鳴に似た声を上げた。物怖じしない信長もさすがにこの返答は見過ごせない。前を行く女の肩に手を掛け、動きを止めた。


「それは誠か、婆。もしや我らを魔族の生贄にするために、魔境へ引き込んだのではあるまいな」

「生贄にするのが目的ならば、命を奪われるなどと馬鹿正直に答えるわけがなかろう」

「ならば何故魔の者たちは我らの命を奪おうとする。何故ここから追い出そうとする。我らは魔王の許しを得て魔境に招かれたのではないのか」

「ああ、それはちょっとややこしい話でな」


 女は腕を組んで顔を伏せた。眉間に皺を寄せて考えている。


「つまりじゃ、おぬしらは正式な客としては招かれなかったのじゃ。さきほどのアクセス札、実はあれは魔王の命でこの婆が作り出した不正な札。よっておぬしたちは不正な侵入者としてこの魔境では認識されておる」

「では正式な客となるにはどうすればいい」

「人を捨て、魔の者になるしかない。が、それはできぬじゃろう。よって不正なまま魔境を突き進むしかないのじゃ。本来ならばこのパスには不正アクセス感知システムが働いておるのじゃが、それはここへ来る前にダウンさせておいた。よってよほどのヘマをせぬ限り、おぬしたちが魔族に見つかる恐れはない。さあ、行きますぞ」


 女が歩き始める。信長も光秀もその後に従う。正直なところ、二人とも女の言葉を全て理解できたわけではなかった。心の中にはまだわだかまりが残っている。

 さりとてここまで来た以上、引き返すことなどできようはずがない。たとえこの先に危険が待っているとしても進むしかないのだ。


 三人は洞窟の中を下へ下へと進んでいく。すでに相当な深さまで到達しているはずだ。これは帰り道が大変だなと光秀は思った。


「むっ、あれは火か」


 不意に信長が声を上げた。光秀は洞窟の前方に目を凝らす。行く手を阻むようにゆらゆらと揺らめく赤いものが見える。女が舌打ちをする。


「ちっ、火の壁じゃな。残念ながらあれだけはダウンできなかったのじゃ。基本システムに組み込まれておるでのう」


 三人は火の壁に近付く。ゆらゆらと燃える炎は、まるで通せんぼをするように通路を塞いでいる。

 しかしその火勢は二尺半ほど、せいぜい膝の高さしかない。さらにその幅は五寸もない。見るからに弱々しい火の壁だ。敵の正体を知って安堵したのか、光秀が大口を叩く。


「これしきの炎ならば跨いで通れる。なんと無意味な通せんぼであることよ」


 言葉通り袴をまくって光秀は火の壁を跨ごうとした。が、信長がその腕を掴んだ。


「待て、十兵衛。初めて相見あいまみえる敵を見掛けだけで判断するのは危険極まりない振る舞い。婆よ、ここはどう切り抜ける」

「ほほう、さすがは信長。良き判断じゃわい。これ、袴をまくった愚かなおぬし、下がるのじゃ。貧弱だからと侮ってはいかん。その炎にほんの少しでも触れれば、たちどころにシステムが作動し、大勢の魔族がここに押し寄せるのじゃからのう」

「ひえっ!」


 悲鳴とも言葉ともわからぬ声を上げて光秀は退いた。代わりに女が火の壁に近付くと、装束の袋から紫紺の札を取り出した。


「火消しの札じゃ。これを使えば火は収まる」


 女が炎の上で札を揺り動かした。札から夕立に似た水滴がほとばしり出る。見る見るうちに火勢は弱まっていき、ほどなく火の壁は消え去った。


「これでよし。終着地まで残り僅かじゃ。行きますぞえ」


 歩き出す女の背に頼もしさを感じながら、信長と光秀もまた歩き始めた。

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