花仙国伝 後宮の睡蓮と月の剣／天川栄人

第一章 その１

「英（えい）瑞（ずい）王（おう）曰（いわ）く、国はこれ庭、民（たみ）はこれ種」

　厳しい冬の寒さが緩（ゆる）み、分厚い雪を割って蕗（ふき）の薹（とう）が顔を出すころ。国土の大半が高山地方の瑞（ずい）湖（こ）国にあって、春は待ちに待った喜びの季節のはずだった。しかし、ここ去（きよ）州（しゆう）阿（あ）備（び）村、国境の不（ふ）顧（こ）峠（とうげ）に続く街路筋の宿場町では、二週間も前から閑（かん）古（こ）鳥（どり）が鳴きまくっていた。

　いつもなら昼時にはごった返す宿屋の食堂も、今はがらんとしている。

「えい……ずい……」

　大きな卓（たく）に隠（かく）れるようにして、床（ゆか）に座り込む影（かげ）が二つ。一人は五歳くらいの丸顔の少年。この宿屋の女将（おかみ）の末っ子坊（ぼう）だ。

「えいずいおう、いわく、国は……えっと」

「国はこれ庭」

　そしてその隣（となり）、指で土に文字を書いているのは、長い髪（かみ）を耳の横で二つにまとめた少女だ。年は十五歳ほど、よく動く眼（め）は零（こぼ）れそうなほど大きい。

　彼女の名前は明（めい）遠（えん）。この村では短く遠（えん）と呼ばれている。

「英瑞王曰く、国はこれ庭、民はこれ種。咲（さ）かすは王の所業なり。枯（か）らすも王の所業なり」

　英瑞王は瑞湖国建国の父。山間で酪（らく）農（のう）を営んでいた少数民族たちをまとめ上げた賢（けん）王（おう）として有名だ。『瑞に在りて民の血を流すべからず』──無血の誓（ちか）いのもと、侵（しん）攻（こう）せず、侵攻させず、重武装中立国家としての礎（いしずえ）を作った。

　創建記と呼ばれる英瑞王の語録は、学のある者なら諳（そら）んじて当然の古典だ。しかし、坊には難しすぎるらしく、さっきから退（たい）屈（くつ）そうな顔をしている。

「遠、飛（ひ）翔（しよう）先生の真似（まね）事（ごと）かい？」

　宿の女将に声をかけられ、明遠は立ち上がった。

「だってあんまり暇（ひま）なんだもん。大（だい）丈（じよう）夫（ぶ）、授業料はまけとくから」

「雇（やと）い主にふっかけるんじゃない」

　女将は両手を腰（こし）に当て、窓の方を向いた。

「ま、暇なのは否定しないけどね……。あの旗のせいで、商売になりゃしない」

　女将が見つめる先、窓の外の澄（す）み切った青空に翻（ひるがえ）るのは、真っ黒な弔（ちよう）旗（き）。ここ阿備村にも、王都から国王崩（ほう）御（ぎよ）の報が届いたところだ。

「服（ふく）喪（も）期ってどれくらい続くのかなあ」

「次の王が即（そく）位（い）するまで、だろ。それまではうちも休業かねえ」

　この宿の客の大半は、不顧峠を越（こ）える旅人だ。しかし、峠の関を通るには通行証が必要で、通行証を得るには去州府の許可印が必要で、その州府は服喪期が終わるまでは公休。つまるところ、喪が明けるまで宿屋には仕事がない。早いところ新しい王に即位していただかなくては、遠からず明遠は暇を出されることになるだろう。

「だけどね、遠。いくら暇だからって、坊に勉強なんてさせても無（む）駄（だ）さ。この子だってそのうちここを出て行って、どっかの団に入って、客として帰ってくるようになるんだ」

　女将は泥（どろ）で汚（よご）れた息（むす）子（こ）の顔を見やって苦（く）笑（しよう）する。

　そもそも、不顧峠を越えるのは決して楽ではない。特に冬場は雪が深く、普（ふ）通（つう）ならば避（さ）けるべき道だ。ゆえに不（かえり）顧（みずの）峠（とうげ）。振（ふ）り返ってしまえば母国への情が湧（わ）き、その先の厳しい道のりを行く勇気が削（そ）がれる。

　それでも旅人たちがここを通るのは、北の大国・亜（あ）煌（こう）帝（てい）国（こく）に彼らの仕事があるからだ。仕事とは、すなわち戦争。そう、この宿場町の客たちは、ただの旅人ではない。瑞を出て煌へ出（で）稼（かせ）ぎに行く荒（あら）くれ者──国のためではなく金のために戦う、傭（よう）兵（へい）たちである。

　女将は坊を抱（だ）き上げながら、こう言った。

「ところで遠、どうしたんだい、その痣（あざ）」

「え？　ああ、これ？」

　明遠は左手の甲（こう）に目を落とす。確かに、そこには花びらのような赤い痣があった。

「ちょっと前に急にね。どこかにぶつけたのかな。もう二週間くらいずっと治らなくて」

「まったく、嫁（よめ）入（い）り前だっていうのに」

　女将がそう零（こぼ）すや、苦い顔になる明遠。いつもの話が始まりそうだ。

「遠、あんたもそろそろ年（とし）頃（ごろ）だ。身の振り方を考えるべきじゃないのかい」

「だからその話は……」

　女将は明遠に口を挟（はさ）ませない。

「うちの客の中には、あんたを気に入ってくれる人もちょくちょくいるんだよ。覚えがないわけじゃないだろ」

　明遠は答えず、後ろ手に腕（うで）を組んで膨（ふく）れっ面（つら）をした。女将はなおも、

「荒っぽい連中だが、稼ぐことは確かだよ。悪い話じゃないと思うけどね」

「冷たいなあ、看（かん）板（ばん）娘（むすめ）を失っていいってわけ？」

　明遠がお茶を濁（にご）そうとすると、女将は片手で椅（い）子（す）を引いて坐（すわ）り、膝（ひざ）の上に坊を乗せた。

「あんた、これからどうしていくつもり？」

「どうって？」

「ずっとこうやって暮らしてるわけにもいかないだろ」

「別に……今の暮らしで不満はないけど」

　食べて行ける程度に働いて、退屈しない程度に村の人たちと関（かか）わって。ここで毎日、不顧峠を眺（なが）めて。

「あたしは今のままで十分幸せだよ」

　屈（くつ）託（たく）ない表情で言い切る明遠。女将はまだ何か言いたげにしていたが、そこで不意に思い出したように、

「ああ、そんなことを言いにきたんじゃなかった。遠、今日はもうお帰り」

「えっ、半休？」

　減る給金を計算し始める明遠に、女将はこう告げた。

「どうも客みたいだよ、飛翔先生のところに。帰った方がいいんじゃないのかい」

「飛翔に……客？」

　それは大ごとだ。

　宿場町のある通りから少し離（はな）れた山の麓（ふもと）、切り立った崖（がけ）を背負うようにして、飛翔と明遠の暮らす家はある。苔（こけ）むした土（つち）壁（かべ）の小さな庵（いおり）。ここで隠（いん）者（じや）みたいな生活をしている飛翔の元に客が訪ねてくることなど、今まで一度だってなかった。飛翔に仲のいい友人がいるなんて聞いたこともないし、仮にそんな友人がいるとしたら絶対にろくな奴（やつ）じゃないのだから、結局良からぬ客に決まっている。こんな辺（へん）鄙（ぴ）な山村に似つかわしくない豪（ごう）華（か）な輿（こし）で乗り付けてくるような客ならばなおのことだ。

「……やっぱ、戻（もど）ろうかな」

　面（めん）倒（どう）ごとに関わりたくない。玄（げん）関（かん）先（さき）で明遠がそろりと踵（きびす）を返そうとしたとき、

「遠、何してる。早く入れ」

　庵の中から飛翔の声。ばれていた。明遠は諦（あきら）めて戸をくぐる。

「帰りました……」

　土間の奥の座（ざ）敷（しき）であぐらをかき、薬草臭（くさ）い煙管（キセル）をふかしているのが、この庵の主（あるじ）。明遠の養父・飛翔だ。ぼさぼさの長い髪（かみ）、いつでも寝（ね）ているような細い目、常に気だるそうな表情。年（ねん）齢（れい）で言えばまだ四十くらいなのに、そこらの老人よりも覇（は）気（き）がない。これで一応阿備村の医者だが、呼び出されない限りはこの庵に引っ込んで、日がな一日書の山と紫（し）煙（えん）に溺（おぼ）れるようにして生きている。短く言うと変人だ。

「飛翔に客が来てるみたいだって、おかみさんが」

「ああ、茶も茶（ちや）請（う）けもないって言ったら買いに行ってくるってよ。そのうち戻る」

「はあ……？」

　客に出す茶を客自身に買いに行かせるという暴挙。よく殴（なぐ）られなかったものだ。

「それと、俺の客じゃない。お前の客だ」

「あたしの？」

　明遠は眉（まゆ）をひそめた。もちろん身に覚えはない。しかし飛翔はこちらを見もせず、無（ぶ）精（しよう）髭（ひげ）を搔（か）きかき、不（ふ）穏（おん）なことをのたまった。

「悪い知らせと、もっと悪い知らせと、さらに悪い知らせがある。よりどりみどりだ。喜べ」

「喜べるか！」

　明遠はいきり立って叫（さけ）ぶが、飛翔はどこ吹（ふ）く風、煙管で目の前の座（ざ）布（ぶ）団（とん）を指す。坐れということらしい。明遠は仕方なく沓（くつ）を脱（ぬ）ぎ、座敷に上がると、向かい合うように腰を下ろした。

「知らせって？」

　飛翔は煙管の雁（がん）首（くび）で煙管（キセル）盆（ぼん）をコンコン叩（たた）き、一（いつ）拍（ぱく）空けてから、長く煙（けむり）を吐（は）き出した。珍（めずら）しくものものしい雰（ふん）囲（い）気（き）だ。明遠は膝の上で拳（こぶし）を握（にぎ）った。

「一つ目。惻（そく）隠（いん）王（おう）がご崩御なされた」

「……それは、知ってるけど」

　村中に翻る弔旗が、瑞湖国六代国王・惻隠王の崩御を告げている。まだ若かったはずだが、突（とつ）然（ぜん）の病死だとか。不（ふ）憫（びん）ではあるけれど、おかげで宿場町は商売あがったりだ。

「だけど、あたしと関係ある？」

「大ありだ」

　飛翔は短く言うと、煙管を置き、腕を組んだ。そして明遠をまともに見る。いつも半目だから目立たないけれど、飛翔の瞳（ひとみ）は、本当は灰色をしている。

「二つ目」

　明遠に息を吞（の）む暇も与（あた）えず、飛翔は告げた。

「お前は、惻隠王の娘だ。つまり瑞湖国の公主」

「………………は？」

　たっぷりの沈（ちん）黙（もく）の後、明遠は間（ま）抜（ぬ）けな声を出した。飛翔は一（いつ）瞬（しゆん）目をすがめ、しかしすぐに、何事もなかったかのように続ける。

「そして三つ目」

「え？　説明なし？　え？」

　混乱する明遠をよそに、飛翔は口にする。彼女の運命を左右する、三つ目の知らせを。

「新しい花（か）仙（せん）は……お前を次の王にお望みだそうだ」

　明遠は丸い眼（め）を大きく見開いたまま固まった。

「ってことで荷物をまとめろ。明朝王都に出発だ」

　飛翔はと言えば、話は終わったとばかりに、読みかけの書を広げ、また煙管をぷかぷかやり始める。明遠は頭痛を抑（おさ）えるように額に手をやり、

「ちょ、ちょっと待って。……冗（じよう）談（だん）だよね？」

「こんなつまらん冗談を言うためだけに、はるばる王都から客がやって来ると思うか？　表に停（と）まってるのはお前を乗せるための輿だぞ。うちの猿（さる）には必要ないと言ったんだがな」

「誰（だれ）が猿かっ！」

　条件反射で怒（ど）鳴（な）ってから、明遠はやり場のない両手で自分をぎゅうっと抱（だ）きしめた。確かに、冗談にしたって性質（たち）が悪い。でも、じゃあ、冗談じゃないとしたら……？

「あたしが……次の王？」