転居

 新居に移って暫くの間、亀公丸は塞ぎ込み続けていた。無心で経書の類に向かい合っている姿はそのままなのであるが、彼の顔からは生気が抜けていた。ほうけている、というよりは寧ろ悲痛なものを感じさせる面持ちばかりをしていた。それでも勉学を怠ることはなかった——というよりも以前にもまして一層打ち込むようになっていたのだが、それ以外の時には自室に籠りがちになっていた。養父母も、彼に何か異変があったのだろうことは勘づいていた。勘づいてはいたのだが、彼の口からは何も語られなかったし、養父母もまた、何となく聞き出すのも憚られたので、時間が解決するまで、触れずにおこうと決めていた。或いは、その決定には、実の親ではないが故の遠慮もあったのかも知れない。


 亀公丸がその少年——左慈助さじのすけと出会ったのは、新居に腰を落ち着かせてから数日後のことであった。左慈助は新しく募った下男の息子で、年の頃は丁度亀公丸と同じであった。初めて下男が息子を連れて来た時、左慈助はその円らな瞳をきらきら輝かせて、亀公丸の手を握った。左慈助はよく日焼けした褐色の肌の少年で、手脚はほっそりとしていたが、ともすればたおやかと評されるほど女々しさのある亀公丸と違って、左慈助のそれは筋張って健脚そうに見えた。

 その次の日、左慈助は亀公丸を外に連れ出した。亀公丸自身は当初そこまで乗り気ではなかったのだが、殆ど押し切られるような形だった。亀公丸の養父正十郎せいじゅうろうはそれを許した。

 外の空気は存外、悪いものではなかった。まだ残暑の時期で暑さもあったが、からりと晴れた空の下は清々しいものであった。

「この草は滑莧すべりひゆって言ってな、食べると美味しいんだ。ちょっとぬめってしてな……」

 左慈助は地面を指差して言った。そこには赤い匍匐茎ほふくけいに長円形の葉をした草があった。左慈助はそれを毟ると、葛の蔓で編んだ籠に放り込んだ。

 その後、二人は川に赴いて釣りをした。亀公丸は左慈助から釣り竿を借りたが、何匹も釣っている左慈助の横で、亀公丸は一匹も釣れぬまま、じっと竿をめつけていた。それでも日の暮れかけた頃に一匹の雑魚が連れたものだから、亀公丸の顔は俄かに晴れ渡り、茜色の空の下で、二人は笑い合った。

 左慈助は野外で見られる草花や昆虫、獣の類に詳しかった。彼は見つけた昆虫や蛇の名前をよく言い当てたし、畑を荒らしに来る獣のこともよく語った。それは恐らく、彼が実際にこれまで外で見たり触れたりしてきたものなのだろう。左慈助は大人の間の身分の違いを分かっていなかったのか、父の主人の息子という立場の亀公丸に対しても特にかしこまったりせずに接したが、そのよそよそしさを感じさせない所が、亀公丸にとっては心地よかった。

 代わりに左慈助は漢字が苦手であまり読めなかった。その為、亀公丸は漢字の読み書きを教えたり、漢詩や経書、史書の中でも特に興味を引きそうな部分を語って聞かせた。

 亀公丸は、左慈助の話が好きだった。彼ならきっと、山海経せんがいきょうの幻獣さえ見つけてくれるとさえ思えた。左慈助もまた、唐土もろこしの武人の話などをよく好んで、一つ話すと次の話をすぐさま求めた。亀公丸は廉頗れんぱ藺相如りんしょうじょ列伝の話をし終えたすぐ後には王翦おうせん白起はくき列伝を語って聞かせたりした。

 


 

 亀公丸が去った後、お清は鬱々とした日々を過ごしていた。そこにつけ込もうと言い寄る男たちも何人かいたが、彼女はそれらをことごとく袖にした。

 お清は今一度、亀公丸がいた頃のことを振り返ってみた。当初は戸惑いもあったことを思い出す。自分はあのような年下の小さな男子おのこが好みであったのか、と。

 それに、自分は彼のことを恋い慕いながら、彼について何も知らなかったことも気づかされた。見目形の麗しさだけを寵し、その彼の為人ひととなりについて少しでも知ろうとしたのかと自問してみれば、はっきりと返答出来ない自分がいる。

 けれど、唯々内側で燃える恋情の前では、それらのことは全て些事に過ぎない。思慕の猛炎は、彼が去って尚鎮まらない。いや、寧ろその欠乏を燃料に勢いを増すばかりである。

 そうして過ごしている内に、お清は自分の腹に子が宿っていることに気づいた。思い当たる節はただ一つしかない。孕んだ子の父親は、愛しの亀公丸その人以外にありえなかった。それを知って、お清はまた亀公丸に会わねばならぬ、と強く思った。その腹の中の子に父親を見せてやらねばならない、という思いも加わり、より一層の焦燥が彼女を駆り立てた。

 そして、お清は突然、誰に何を言うでもなく、町から姿を消してしまった。


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