片隅の天使

mizuho

第0話 プロローグ

 天使とは、宗教の聖典や伝承に登場し、神の使いとして描かれる存在であり、実在はしない。

 いや、実在するのかもしれないが、大抵の人間は架空の存在として認識しているはずだ。


 けれど、世界の片隅で、時たま流れる噂がある。


 天使が現れた、と。


 しかしその存在が公になる事はなく、多くの人々にとっては、やはり架空の存在なのだ。


 天使などいない。


 そう、天使などではない。


 長い歴史の中で時たま噂になる彼らはただの人間なのだから。




 いまにも崩れそうな、ボロボロの家屋が建ち並ぶ一画。

 スラム街と呼ばれるその場所で、少女は物陰に身を隠し、息を潜める。

 ほんの数時間前まで一緒にいたあの子が、黒い塊に担がれ音もなく運ばれていく。

 あの子の意識はなく、だらりとぶら下がった腕が、脱力しきった様子で揺れているのだけが、やけにはっきりと見えた。


 少女は見た。

 あの子の背後から近づいた黒いモノが、何かを顔に押し当てて、あの子の意識を奪ったところを。

 黒く、汚く、不快なモノが視界を遮る。

 これほどの色を視るのは、少女にとって初めてだった。


 怖い。

 けれど、助けなくては、と。


 あの子はまだここへ来たばかり。

 すべてをなくして、ここへ来たばかり。


 物陰から出ようとする少女の肩を、きつく掴んで引き留める手があった。

 少女とよく似た顔の少年が、唇を噛み締め静かに首をふる。


 掴まれた肩に込められた力の強さに、少年の想いを感じ取り、少女は空を仰ぐ。

 崩れそうなレンガの隙間から、いまにも降って落ちてきそうなほどの星、星、星。


 少女はこの夜の色が好きだった。

 いつ、どんな時も、どれほどの絶望を抱えていても、包み隠してくれるような、深い夜の色が。

 深ければ深いほど、星は輝くものだから。


「ここはもう危ない。遠くへ行こう。もっと遠くへ」


 少年が言った。

 少女がゆっくりとうなずく。


 どこでもいいのだ。


 この夜空の下ならば、どこへ行っても生きていける。

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