第26話 春休み、そして進級

 春休み。学生生活の中で唯一宿題という厄介事が存在しない長期休暇だ。もちろん学生達は基本的に寮から実家へ帰る事になっており、晴人達も例外では無い。しかし、タマを智香一人に預けてカナダへ帰るのは心配であり、申し訳無くもあった。


「大丈夫よ、晴人君。安心して親孝行してらっしゃい」


「安心するにゃ!」


 智香とタマの笑顔に見送られ、寮を後にした晴人。そして寮に残ったのは智香とタマの二人だけだった。


 カナダまでの飛行時間は約九時間半、バンクーバーに降り立った晴人は小さく震えると首を竦めた。


「寒……」


 呟いた晴人。


「寒いにゃ」


 タマが応えるのを待っている自分に気付いた晴人。しかしタマはここには居ない。晴人は首を大きく横に振って迎えに来てくれているであろう両親の姿を探した。



 その頃、智香の部屋ではタマがコタツでゴロゴロしながら訴えていた。


「智香さん、退屈だにゃぁ……」


 智香がこのセリフを晴人が戻ってくるまで百回以上聞かされるのは言うまでも無い。



 両親と再会した晴人はカナダの家の自分の部屋で寛いでいた。前回帰ったのは年末だったから三ヶ月ぶり。母が掃除をしてくれているのだろう、綺麗で快適だった。建一と二人の寮の部屋とは大違いだ。しかし、なんだか落ち着かない。きっと大勢で過ごす事に慣れてしまっているのだろう、それぐらいに考えて晴人は両親の居る居間に読みかけの本を持って移動した。


「あら、晴人どうしたの?」


「うん、何か落ち着かなくて」


「自分の家なのに落ち着かないなんて変な晴人」


「うん、そうだね」


 母との会話。父はテレビを見ているが、スピーカーから聞こえてくるのは当然英語なので晴人には半分ぐらいしか聞き取れない。

 晴人はソファに座り、本を開いたがやはり落ち着かない。友達と離れて退屈だと思った事はあったが、こんなに落ち着かないのは初めてだ。その理由に気付いたのは夕食の時だった。

 テーブルにはカナダらしくサーモンやロブスター等の魚介類が並んでいる。分厚く切られたサーモンステーキを見て晴人は思った。


――タマが見たら喜ぶだろうな――


 晴人の頭の中にタマの笑顔が鮮明に浮かび上がった。


――あれっ、なんで俺はタマの事なんか考えてるんだ?――


「晴人、どうしたの? ぼーっとして」


 母の声に我に帰った晴人は「なんでもないよ」とナイフとフォークに手を伸ばした。しかしサーモンを食べてもロブスターを食べてもタマの顔が頭から離れない。


――どうしちゃったんだ、俺は?――


 そう言えばタマと出会ってから、一日も欠かさず彼女の笑顔を見てきた。それが僅か一日会わないだけで、いやまだタマと別れてから二十四時間も経っていないというのにこんな気持ちになるなんて……困惑した晴人の動きが止まった。様子のおかしい晴人を心配そうに見ている父と母。暫く考えて込んでいた晴人がおもむろに口を開いた。


「父さん母さん、ちょっと話と言うか、お願いがあるんだけど」


 晴人は思い切って両親に受験が終わるまでは日本で過ごしたいと話した。もちろん表向きの理由は受験勉強に専念する為だが、本当の理由はもちろんタマだ。最初は渋っていた両親だったが粘り強い晴人の説得に最後には首を縦に振るしか無かった。



 そして数日後、晴人とタマにとっては退屈な、友香にとってはタマの相手に疲れた春休みが終わりに近付き、晴人がカナダから寮に戻った。


「晴人君、お帰り~」


 晴人の帰りを心待ちにしていたタマが飛び付いてきた。「ただいま」と微笑みながらタマの頭をポンポン叩く晴人。二人を優しい目で見る智香。もしかしたら晴人の帰りを心待ちにしていたのはタマよりも彼女の方かもしれない。


 晴人が智香に挨拶を済ませ、自分の部屋に戻ろうとタマが後ろを着いてきた。


「タマ、どうした?」


 晴人が尋ねるとタマは笑顔で応える。


「晴人君がいなくて寂しかったにゃ。だから今日はずっと一緒に居るにゃ」


 なんともかわいい事を言うものだ。こんな事言われたら、普通その場で抱き締めてしまいそうなものだが晴人は真っ赤になって俯いてしまった。彼がカナダの実家で感じた寂しさをタマも感じていたのだと思うと嬉しかったと同時に意識してしまったのだ。タマを猫又では無く、女の子として。


 晴人の部屋で二人きり。しかもタマはいつもの調子、いや、一週間程会っていなかったのだ、いつも以上にゴロゴロとじゃれついてくる。以前なら普通にしていられたのだが、タマを女の子として意識してしまった晴人はバキバキに固まってしまっていた。


「どうしたの、晴人君。にゃんか様子が変だにゃ」


「そ、そうかな? ははっ……」


 晴人はタマの言葉に曖昧な笑いで返す事しか出来ない。一度意識してしまうと止められない。男とはなんと悲しい生き物なのだろうか。


 ギクシャクした時間が過ぎる。どれぐらいの時間が経ったのだろうか? 晴人が向かい合って座るタマの肩に手を置いた。


「タマ……」


「ふにゃっ?」


「おう、晴人。今帰ったぞ!」


 いきなりドアが開いて建一が入ってきた。その瞬間、呪縛から解かれた様に晴人はいつもの晴人に戻った。


「おう建一、お帰り」


「建一君にゃ! お帰りにゃさーい」


 タマもいつもの調子に戻った。タマがさっきまで見せていたのは晴人にだけ見せる仕草なのかもしれない。


「おっ、タマも居たのか。あ……もしかして俺、邪魔だったか?」


「な、何言ってるんだよ!」


 真っ赤になって大声を上げる晴人。タマは建一の言っている意味がわからないのか、大声を上げた晴人にキョトンとしている。それにしても建一の乱入が無ければ晴人はタマに何を言おうとしたのか? あるいは何をしようとしたのか? それは今となっては定かでは無い。


 それからしばらくして淳二と透、由紀と結衣に順子と綾も寮に戻って来て晴人達にいつもの日常が戻った。例によって帰省のお土産を持って晴人の部屋に集合した。


「ほれ、由紀ご所望のメープルクッキーだ」


 晴人が赤福と共にカナダ名物メープルクッキーを袋から出した時、大きめの丸い缶詰がゴロンと転がり落ちた。


「ん? 何だこりゃ?」


 建一がそれを手に取り見てみるとサーモンの絵が描いてある。


「シャケ缶?」


「あっ、それは……」


 建一が声に出すと晴人が何か言おうとして口篭った。晴人の顔が少し赤くなっているのに気付いた建一はすぐに理解した。これは晴人がタマの為に買って来たものなのだと。


「そっか、コイツは俺達の夜食用なんだよな」


 建一はニヤリと笑うと立ち上がり、手に取った缶詰を机の上にそっと置いた。


 そして次の日。二年から三年には受験の事を考えてだろう、クラス替え無しのいわゆる『持ち上がり』だったので変わらない顔ぶれで何事も無く晴人達は三年生となり、豊臣学園での最後の一年がスタートした。もっとも建一は『何事も無く』というより『なんとか』三年生になれたと言った方が良いかもしれない。

 豊臣学園は進学校なので、三年生と言えば受験生。晴人達も受験勉強に本腰を入れなければならないのだが


「堤防の桜が見頃なんだってー」


「良いねー、みんなでお花見と洒落込むか」


 などと呑気に盛り上がっている。まるっきり変わらない晴人達だった。


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