(2)「誰が離すか、吸血鬼!」

 二か所から、水の奔流が迸った。

 一つはイズキの魔力を、一つはテディの魔力を帯びている。テディの操る水が、キットに伸びる。

 幾筋も幾筋も、

 雪の結晶同士がそうあるように、模様を描きながら伸びていく。キットの体を囲う。

 テディの操る水の尖端が、同時に幾筋もキットに迫る。小さな体を守るように、テディの操る水がキットを覆った。

 水の槍が、結界に阻まれて砕ける。

 けれど、操る魔術はイズキよりもテディが圧倒的に上手だ。あっという間に結界が砕け散っていく。

「ド畜生めっ!」

 一歩、二歩。

 駆け寄る。間に合わない。

 悟って、イズキは魔術を重ねた。

いや増せアンプラート

 立て続けに魔術を行使した負荷に、背骨が軋む。構わない。

 イズキの操る水が、砕ける。テディの操る水に削られて、しまいには魔力に押し負けて主導権すら奪われていく。

 阻むものを失った水の槍の一筋がキットの体を貫く。その寸前に、

 イズキはキットの体に覆い被さっていた。瞬間、灼熱が肩を貫く。

「がっ……!」

 激痛に視界が明滅した。それでもキットを守ろうと、小さな体を抱え込む。

「いやだわ、退いてイズキ。あなたを殺すつもりはないのよ」

 少しばかり色を失った、声。


 そうだ、テディの声だ。呆れるほど馴染んで、聞き慣れている。

 ひとは誰かを失ったとき、声から忘れていくのだという。

 ふと、誰かから聞いた話を思い出した。聴覚の記憶が、最も脆いのだと。

 けれどイズキはこの一年、テディの声を忘れたことなどなかった。昨日まで聞いていたように、いつでも思い出すことができた。

 テディの存在が色あせることなどなかったのだ。声も、姿も、語った言葉も。

 いっそ、忘れて、薄れてしまえばいくらか楽だっただろうに。

 飽きるほど、どうやったって忘れられないほど、呆れるほど。テディの存在はイズキに根付いていた。

 それだけ、一緒にいたのだ。当然のように、イズキはテディのことを誰よりも知っていると思っていたのに。

 ――もう、テディのことが判らない。


!」


 吸血鬼と、イズキはテディを呼んだ。初めて会った、敵性吸血鬼に対するように。

 痛みを無視して、顔を上げる。霞む視界に、青が映る。

 見慣れた色だ、と思う。

 誰よりも知っている。誰よりも判っている。。

 ずっと、そう感じていた。けれどおそらく、何も知らないままだったのだ。

 姉のように思っていた。母のように思っていた。ときに妹のようだった。

 けれど――。

 視線の先で、テディが身じろぐ。イズキに突き放された名で呼ばれたことに、戸惑うように。

「どうしてそこまでするの、イズキ」

 聞き分けのない、子どもにするように。

「あなたにはわたしがいるし、わたしにはあなたがいるわ」

 未熟なハンターにするように。

「そこの炎遣いなんて、でしょう」

 くらり、と目眩がした。一瞬だけ強く眼を瞑る。

 何に眼が眩んだのだと考えて、気づいた。テディの後ろに、月が浮かんでいる。


 欠けのない月。

 あとはただ欠けるばかりの月。


から、ラリーを殺したのか?」

 視界全体が、かき回されるようだった。ちょうど水面に映った景色が波紋に揺らぐように。

から、キットを殺すのか?」

 揺らぐ水に、月が浮かぶ。真円の月。

 、疑問は浮かばなかった。

「俺の知る、テディは――」

 視界と、思考が定まらないまま、イズキは続ける。紡いだ言葉は、自分でも驚くほど乾ききったものだった。

なんて、絶対に言わなかっただろうよ」

「イズキ?」

 ふ、と嘆息した。嘆きか、諦めか、自分でも判らなかった。

 ただ、理解する。

 どんなに追いすがっても、求めても。たとえ生きていようと、死んでいようと。


 


「テディ、」

 ぐらりと、世界が揺れた。

 青い蝶が、遊んでいる。ずっと、視界の端で遊んでいる。


 青い蝶がひらと舞って、不意に姿を消した。


 気紛れを起こしたように。もしかしたら、自分がもういないことに気づいたように。

「愛しいテディ、俺のテディ、可愛いテディ、」

 イズキは立ち上がった。

 貫かれた肩の痛みも、食い破られた首筋の痛みも、どこかに消えていた。足下を見下ろせば、キットと眼が合う。

 キットは、――なぜか、ひどく焦ったような顔をしていた。

「よせ、

 幼い声が名を呼ばう。体の動きを縛り上げようとする力を、イズキは無意識に弾いた。

 ただ、愛おしむように。慈しむように。


 祈るように、

 もしかしたら赦しを乞うように。


「唯一のエドワード・ラズリート」

 想いを恋うように。


「俺が、お前を殺すよ」


 テディを見据える、視界の端で――。

 欠けのない月が、やけに心に残った。

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