第4節 これ以上、俺の罪を重くすんじゃねえ!

 龍崎りょうざきは放課後の廊下を早足気味に歩きつつ、一ノ瀬いちのせ篠崎しのざきと死んだ魚を思い浮かべる。


 死んだ魚の疲労を滲ませた顔。篠崎がこぼした涙。もしかすると『自己援助同好会』の面々がバラバラになってしまうかもしれない事態。そして一ノ瀬を追い詰めたのは自分だ。棘のある言葉を吐いてしまった。だから一ノ瀬は教室を飛び出し、死んだ魚と篠崎はあんな顔をしていた。だが、そんなことは大切ではない。一番の問題は…………。


「一ノ瀬なんてどうでもいい! でもな! あの女がなにかしでかすと俺が困るんだよぉぉぉ!」龍崎は駆け出した。


 特別連棟4階の廊下をひた走る。現在時刻17時を過ぎたあたり。校舎に残っている人間などそういない。教室で部活動をしている部は極わずか。

 夕日が窓から差し込み、廊下に飛び石のようなコントラストを作り出す。吹奏楽部の奏でる音が、廊下に響き渡る。


「どこだ浮舟! 絶対に変なことすんじゃねぇぞ!」


 涼香がこの学校で何かしでかせば、芋ずる式に龍崎も関係者として扱われるハメになるだろう。それを恐れたのだ。

 と、そこで龍崎は廊下の窓越しに、渡り廊下に佇んでいる2つの人影を捉えた。


「いやがった!」


 龍崎は階段の踊り場まで走り、一気に階段を駆け落ちる。

 東南高校の渡り廊下は、特別連棟と一般連棟の二階と三階で、それぞれ繋がっている。

 龍崎が捕らえた人影は、校舎の3階をつなぐ渡り廊下。鉄柵で囲まれ、屋根のない吹き晒しの場所である。

 龍崎は特別連棟3階までやってくると、渡り廊下に繋がる扉に体当たりをかまし、一気に開け放つ。


「おい浮舟えぇぇ!! てめぇ絶対にここで――」

「うるさい!私はこの学校も、あの部活も嫌いなの!」


 と、大きな声が龍崎の言葉を遮った。

 龍崎の視界の先にあるのは、鉄柵にもたれるようにして体を預けている涼香。その奥にいる一ノ瀬は目を赤くして睨みを利かせていた。

 渡り廊下を吹く抜ける風が、彼女らの髪がなびいている。

 夕陽が校舎を赤く染め上げ、鉄柵の蔭が色濃く伸びていた。

 涼香は一ノ瀬に顔を向けることなく、空を見上げるようにして口を開く。


「話してくれるのはありがたいのだけれど、なぜそんなに嫌いなのかしら。あなたはこの学校の誰もが羨む存在でしょう」

「どうせ浮舟さんに言っても分からない……というか浮舟さんホントにウチの生徒なの?一回も見かけたことない」


 一ノ瀬はそう言ってキッと涼香を睨み付ける。

(――やっべ)

 龍崎は即座に走り出し、涼香の横にならんだ。涼香の不法侵入がバレそうになっている。それが大ごとになれば龍崎も被害を受けることになる。それだけは避けたかった。 


「まて、一ノ瀬! コイツはえっと‥‥‥保健室登校なんだよ! 病気なんだよ! 頭が! 」

「うっさい、龍崎君は黙っててよ」

 すると一ノ瀬は小馬鹿にしたような顔を龍崎に向けた。

「……だって龍崎くん不良でしょ?そんなやつの言葉なんて聞きたくない」

「―――――なっ」


 龍崎は胸の内にドス黒い感情が湧くのを感じた。そんな言葉、言われたくなかったからだ。言い返してやりたくなった。だが、口は開かない。今、それを反論しても意味はない。そんなことより涼香をこの場から連れ出すべきなのだ。

 すると一ノ瀬は「ふん」と鼻息を鳴らした。


「絡まれやすいってなに、どうせ自分からガン飛ばしたりしてるんでしょ。それで不幸な自分でも気取りたいんでしょ。絡まれ体質なんてあるわけない」


 一ノ瀬は、続けて言い放つ。


「そんなに絡まれやすいって言うなら、どうにか努力すれば? 自分は悪くないみたいな言い方、私大嫌い」


 そんな言葉に龍崎は一ノ瀬を睨み付けた。やはり、この女になにか言ったところで意味などなかったのだと。だから龍崎が言うべき言葉はもう決まっていた。


「……どうしようもない問題も世の中にはあるんだよ。そんなこともわかんねぇのか」


 とそこで龍崎は言葉を区切り言い放つ。


「優等生のくせによ」


 そう、龍崎が言った瞬間。一ノ瀬は、胸を抑えてよろめき、身体を震わせ始める。


「なんで‥‥‥なんでそんな酷いこと言うの……」


 突如、一ノ瀬の体から黄色のドロドロとした流動体が湧きす。眼から、鼻から耳から、腹から、股下から、あらゆる場所から湧き出し始めた。


「‥‥‥なっ」


 龍崎は目の前で起っている光景に絶句した、あれは、なんだと。

 すると涼香が鉄柵から背中を離し、一ノ瀬に身体を向ける。


「ああやって『カワイガリ』は湧き出るのよ……というよりもヒュドラ君。私はあの教室で待っておくように言ったのだけど。それじゃ言いつけが守れない犬みたいじゃない」


 涼香は右手に赤色のテープを巻きながら、そう言った。

 龍崎は一瞬、呼吸を忘れる。その赤色のテープの意味すること。


「おい浮舟、まさかここで――」

「約束を破ったのはヒョドラくん。いまからアナタの身に起こることは自己責任」


 涼香がそう言い切った瞬間、駆け出す。右手を眼前に構えると、身体に紫色の焔が湧き立つ。

 そのとき、一ノ瀬に動きがあった。身体を包んでいた黄色の流動体が、放射状にはじけ散る。校舎の外壁に、窓ガラスに、渡り廊下の地面に向かって飛来する。


「――――甘い」


 涼香は右手を振り下して『バンカラ』を身に纏った。右手に持った湾曲した竹刀で、飛来する黄色の流動体を払い飛ばす。

 払い飛ばされた黄色の流動体が、涼香の後方に向かって飛んでいく。

 黄色い流動体が、龍崎の右側頭部スレスレを突き抜け、後方にある扉に突き刺さる。

「————ッッ」

 龍崎は肩越しに後ろを見てなにが起きたのかを知ると、パッと視線を前に戻した。


 涼香は湾曲した竹刀を 一ノ瀬の右脇腹に向かって、斬り上げようとしていた。片持ちであるにも関わらず剣の軌道にブレがない。

 膝を折り、身を屈めることで、湾曲した竹刀を躱す一ノ瀬。身を屈めるまでのスピードが異様に早い。


「――――ちッ!」


 湾曲した竹刀は空を斬るが、涼香は身体を反転させ体勢を立て直した。

 だが一ノ瀬は、曲げた膝を一気の伸ばすようにして前方へ飛ぶ。ジャンプではなく、跳躍。それが近い。その先にいるのは、


「――――ッッ!」

 龍崎は考えるより先に横方向に向かって身体を投げ出した。

 先ほどまで龍崎が立っていた場所に、一ノ瀬の右脚が突き立てられる。大きな陥没痕でき、コンクリート片が舞い散った。


「憎い! 憎い! みんな憎い!」


 一ノ瀬は 右手をかぎ爪のような形にして、龍崎の顔を薙いだ。

 首をすくめるようにして、頭を大きく反らし、一ノ瀬の右手を避ける龍崎。

 龍崎には一ノ瀬の拳を目で追えなかった。だから一ノ瀬が動き出した瞬間、全身を大きく動かして攻撃を避けている。

 だからこそ龍崎の横顔を一ノ瀬の拳がかすめる。耳元で金属バッドを振られたような感覚に陥った。


「――――――くっそ!!」


 龍崎は悪態をつく。そうでもしなければ恐怖に身が透くんでしまうのだ。

 と、そこで一ノ瀬の後方に人影を見た。渡り廊下の反対側から駆けてくる――浮舟涼香だ。

 涼香は一ノ瀬の数メートル手前で跳躍し、湾曲した竹刀を腰に引き付ける。


「でりゃあああああ!」


 涼香は湾曲した竹刀を真っ直ぐに突き出し、一ノ瀬の背中に突き立てた。


「ガッッ!」


 一ノ瀬の身体が逆反りになり、口から唾液が飛び散るが、すかさず反転した。

 しかし涼香は湾曲した竹刀を素早く叩き込んでいく。一ノ瀬の頭、胸、腹、脚に対し、浅く叩き込んでいく。大振りを控え、剣速を上げた斬撃。

 そんな斬撃の嵐を一ノ瀬は耐えていたが、癇癪を起すようにして、身体を動かした。


「―――邪魔しないで!」


 と、一ノ瀬が左手を使って、湾曲した竹刀をガッチリと掴んだ。


「――っち!」


 湾曲した竹刀から右手を離し、両腕を顔の前に構えかける涼香。

 同時に、かぎ爪のような形をした一ノ瀬の右拳が、涼香の左頬を襲う。涼香が両腕を構えるよりも速かった。


「――くっ!」


 涼香の左頬が切り裂かれ、ぷっくりと血が流れ出る。頬から零れた血が地面に血痕を残す。

 すかさず一ノ瀬は、かぎ爪のような形をした右拳を、何度も涼香に放つ。どこを狙うでもなく数を重ねる乱打。

 乱打が涼香の身体を襲う。腕を使って、脚を使って、乱打を防ぐが、防ぎきれない攻撃に、身体中の衣装が避け、ときおり肉までもが裂かれた。


「こんの!」


 涼香は右脚を上げ、ミドルキックを、一ノ瀬の左わき腹に叩き込む。隙ができた。すかさず左拳を一ノ瀬の顔面に叩き込んだ。


「ごがっ!」


 一ノ瀬は、フラフラとした挙動を見せ、左手から湾曲した竹刀を取りこぼす。

 右手を伸ばし、湾曲した竹刀を手に掴んだ涼香。

 一ノ瀬は地面を蹴って一気に渡り廊下の反対側へと移動すると、涼香は龍崎に背を向け竹刀を構える。

 龍崎と涼香、そして一ノ瀬は、それぞれが渡り廊下の一番端に位置して、対峙している。

 涼香は龍崎の前に立ち、湾曲した竹刀を構えたまま、一ノ瀬に顔を向けている。

 すると一ノ瀬は涼香を睨み返し、犬歯をむき出しにした。


「邪魔しないで浮舟さん。私、あんな部活が嫌い。だからぶっ壊す」

「……別にぶっ壊しても構わないけれど。なんでそこまで嫌いなのかしら」

「…………疲れたの。あの部活」


 一ノ瀬はそう言って、溜息でもつくようにして言葉を吐いた。


「……来るヤツはどいつもこいつも自分で努力しないで、その努力不足で困ってたり悩んでたりする人間ばっか。それで私が、解決策をアドバイスすると‥……なんて言うと思う浮舟さん?」


 浮舟は小さく肩をすくめ「さあ?」と口にした。

 一ノ瀬は増悪のようなものを滾らせた顔で自嘲気味に笑った。


「『それは一ノ瀬さんだからできること。一ノ瀬さんが頭いいからできるの』そんな言葉ばっか。努力もしない人間には、人を羨ましがる権利もないでしょ。違うかな? 浮舟さん」

「……どうかしらね。優秀な人間が僻まれるのは、多少は仕方のないことだと思うけれど。その優秀さを手にした過程が才能であれ努力であれ関係なく。……でも一ノ瀬さん。あなたの悩みも苦しみも…………」


 と、そこで言葉を区切る浮舟。


「…………大したことないわね」


 一ノ瀬の動きが止まった。かと思うと、すぐさま凄まじく鋭い眼光を涼香に向ける。


「なにがっ! 大したこと!」

「だってそうでしょう。大したことないわ。私には一ノ瀬さんの苦しみも、悩みも、わかってあげられない。共感なんて無理ね無理。だから言えるのは一つだけ、『大したことない』ってこと」

「―――ふざけないで! 私は、私のは違う!私は!」


 と、一ノ瀬は震える声を出し、頭を抱き込むようにしてわなわなと震え出した。

 涼香はそこでチラリと肩越しに龍崎を見て微笑む

 そして龍崎には、その涼香の微笑みの意味がまったく分かなかった。いったいなにに対する微笑みなのだろうかと。

 すると涼香は「えー?」と明るい声を出し、表情をパッと切り替え、一ノ瀬に顔を向けた。


「だって一ノ瀬さん! 龍崎君にも『大したことない』って言ってたじゃん! それと同じ! だから一ノ瀬さんの悩みもさ、‥…………大したことない、でしょ?」


 と、涼香は後半、猫かぶりではない浮舟涼香に戻ってそう言った。それから


「……ところでヒュドラ君」と、前置きをしてから龍崎に顔を向けた。

「あのレベルの『カワイガリ』の攻撃だと、アンパンマンみたく簡単に首が飛ぶから気を付けたほうがいいわよ。ポンポン飛ぶわ」

「首?……ポンポン? はあ?! 聞いてねえぞ! 代えの頭は無いんだよ!」

「聞かれてないもの。それに着いて来るなという言いつけを破ったのはアナタ。だから自己責任と言ったでしょ?」

「無茶苦茶だ! 俺を殺す気か! てか! 一ノ瀬も死ぬからマジでやめろ!」

「ええ、ヘタすりゃ死ぬわ。でもまあ……死んでも大丈夫よ」 


 涼香は居合抜きでもするかのように、左の腰に湾曲した竹刀を引き付ける。

 と、そこで一ノ瀬は顔をバッと上げ口を大きく開ける。


「どうせ……どうせ! 浮舟さんにはわらない!」


 一ノ瀬は地面を蹴り、涼香に向かって、真っ直ぐに飛んだ。右拳と左拳をかぎ爪のように尖らせながら。


「―――――そうね、わからないわ。だから私たちは似非ヒーロー」


 と、涼香の身体が消える。その場に紫色の火の粉を残し、消えた。

 そして次の瞬間、涼香の持つ湾曲した竹刀が、一ノ瀬の右脇腹に叩き込まれていた。突っ込んできた一ノ瀬に対し、涼香も突っ込む形のカウンター攻撃であった。


「ごああああっ!」


 湾曲した竹刀の威力を物語るかのように、一ノ瀬の体は地面から数メートルほど浮かび上がっている。

 涼香は斬り上げた勢いそのままに、左脚を使って、ボレーシュートを打つような蹴りを一ノ瀬に喰らわせる。

 蹴りを喰らった一ノ瀬の身体は、鉄柵の外まで弾かれ、そのまま落下して行った。


「おあああああ!なんてことしやがる!」


 龍崎全力で駆け出し、鉄柵から身を乗り出すようにして下を覗き込む。あろうことか涼香は一ノ瀬を渡り廊下から突き落としたのである。龍崎は想像したのだ。地面に真っ赤な花を咲かせ、四肢を投げ出すようにして横たわる一ノ瀬の姿を。

 だが、


「―――なっ」


 龍崎は息を飲んだ。居ない。誰もいない。地面に堕ちたはずの一ノ瀬の姿がどこにもないのだ。

 と、そこで突然、黒い影が龍崎の眼の前に飛び出した。血走った眼に、犬歯を覗かせる化物となった一ノ瀬詩織。

 龍崎の眼前を通り過ぎた一ノ瀬は、特別連棟の屋上へ向かって飛び上がった。


「ヒュドラくん! 邪魔! そこどいて!」


 突然、声が響いた。

 龍崎が顔を向けると、涼香の姿があった。転んでしまいそうなほど体を前に倒し、渡り廊下を駆けて来る。


「―――浮舟てめえ!」


 涼香は龍崎の手前でまで駆けてくると、膝を曲げて体を沈ませ、特別連棟屋上に向かって飛んだ。


「とっどけえええええええ!!」


 涼香が一ノ瀬よりもさらに高く飛び、頭上を取った。


「でりゃああああ!」


 マキを割るような動作で、湾曲した竹刀を一ノ瀬の頭に叩き込んだ。

 一ノ瀬の身体が渡り廊下に向かって吹き飛ぶ。コンクリートに身体が突き刺さり、バウンドして、廊下の上を滑り、砂ぼこりをまき散らしながら、ゴロゴロと転がっていく。


 それから一ノ瀬は、一般連棟へと続く扉に背中をぶつけ、そこで動きを止めた。彼女の制服は裂け、血が滲み、おびただしい量の血が流れ出している。

 そんな光景を見た龍崎は全身から血が引いていくのを感じた。


「おい浮舟ぇ! テメエなんてことしやがる!!」


 龍崎は、特別連棟屋上のフェンス上に立ち、湾曲した竹刀を肩に担いでいる涼香を睨み上げた。


「大丈夫よ。『カワイガリ』が身体から出たら何もかも元通りなるの」

「ああ?! なにワケ分からないこと言ってんだ! あれ死んでんだろ絶対!」

「たしかに普通の人間なら死んでいるわね。たぶん体がバラバラ……ねっ」


 と、涼香はそう言って一気にひとっ飛び。特別連棟のフェンス上から、一ノ瀬が背中を預けるようにして倒れている一般連棟の扉付近に移動した。

 すると倒れていた一ノ瀬に動きがあった。眼の前にいる涼香と間に壁でも作るかのうようにして、右手を挙げる。


「お願い……お願いします……殺さないで、私の悩み……このまま消したいの」

「……そうね。殺す必要なんてないわ。でも、その悩みには向き合ったほうがいいわ」


 一ノ瀬は右手をぶらんと地面に落とした。


「あ、ありがとう。私はこれで――」


 が、次の瞬間。


「はあぁぁ!!」

 涼香は湾曲した竹刀の剣先を、一ノ瀬の額に叩き込んだ。予備動作無しで放たれた突きであるが、恐るべき剣速を誇っていた。

 一ノ瀬の頭がガクンと後方へのけ反り、血液がパシャリと地面に塗りたくられる。


「おあああああ!!! これ以上俺の罪を重くすんじゃねえ!」


 誰よりも驚き、大きな声を上げたのは龍崎であった。涼香は、篠崎に免じて剣を治めるのではないかと思っていたのだ。だがあろうことか、トドめ一撃と言わんばかりに、一ノ瀬の額に湾曲した竹刀を叩き込んだのだ。


 と、龍崎が駆け出しかけたとき、涼香の左手に見覚えのあるものが握られていることに気が付いた。


「……向き合いなさいな、そのわだかまりに」


 涼香は左手に持った黄色の『カワイガリ』をグチャりと握りつぶす。


「――――なっ」


 瞬間、龍崎は顔を強張らせ、踏み出しかけていた脚を止めた。いったいなにが起こったのか、理解ができないのである。


 なぜなら一ノ瀬から流れ出た血液、破れかぶれになった制服、それら全て何事もなかったかのようにして、消失し、元に戻ってしまったのだ。そしてそれだけではなく、黄色をした『カワイガリ』の破片によって壊された校舎も、元に戻ってしまっていた。映像の逆再生、ではない。どう復元されたのかなど視認できない。


 と、そこで倒れたままになっていた一ノ瀬がノロノロと立ち上がり、頭を抱え、なにごともなかったかのようにして、一般連棟の扉の向こうへと消えていった。まるで、前後の記憶でもなくしたかのように、なにも騒ぎ立てることがなかった。


「……帰りましょうかヒュドラくん」


 龍崎はその声に視線を上げると、東南高校の制服に身を包んだ涼香が歩いてくるのを知った。頬や手に受けた傷が消えている。だが、額に汗を浮かべ、息が荒い。

 そして涼香は龍崎前までやってきて、大きく息を吐き、顔をゆがませた。


「ほら。言ったでしょう……全て元にもどると。一ノ瀬さんも……私も、ヒュドラ君も。ま、一ノ瀬さんには……感謝してもらいたいとなにも覚えては―――」


 と、涼香がその場に座り込んだ。胸のあたりを抑え込み、額に汗を浮かべ、荒い呼吸を繰り返す。 

 龍崎は涼香の元へ近づくと、涼香は弱々しく龍崎を見上げた。


「……『カワイガリ』と戦った後は……こうなるのよ。でもそうね……甘いモノが食べたいわヒュドラ君」


 龍崎はそう言われて「はあ?」と言うほかなかった。

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