トイレのお札

 私が懇意にさせていただいている方々の多くはご存知の事ではあるのですが、私は日本の高校から海外の高校へ編入したという経歴がありまして、日本の高校へは約一年半通っていたんですね。

 この私の通っていた日本の高校というのが、実家からかなり離れた隣の県にある学校でして、私は寮生活をしてました。

 ただ、この学校には男子寮というものはあったのですが、女子寮というものは無いんですね。

 まあ、もともとがスポーツ……特に野球や陸上で有名な学校でしたから、県外から入学して来る女子生徒というものも殆ど無かったのでしょう。

 もちろん、男女共学でしたからね。女子運動部というものある。

 これは、私の在学中にそんな女子バレー部の生徒に起こった話。


 私も入学早々に寮の先輩から聞いていたのですが、その高校の敷地というのが戦国時代に旧大名家の刑場跡だったそうなんですね。

 つまり首斬り場という事ですよ。

 まあ、非常に有名な戦国大名ですし、恐らく県内にお住まいの方はご存知の方も多いと思います。

 そんな曰く付きの場所だったもんですから、霊体験の話なんてものも後を絶たないわけですね。

 私の寮でも一階の何号室だけは近寄らない方が良いなんて言われていた部屋があったもんですよ。


 学校には新校舎と旧校舎というのがありまして、新校舎の方は二、三年生。旧校舎の方は一年生の教室や音楽室、図書室や様々な部室がありました。

 旧校舎といっても、別段そこまで古臭い訳でもなく、新校舎の方がレンガ張りの小洒落た建物なのに対して無機質なコンクリート製の建物というだけの差で、言われなければ新旧など分からない程でした。


 我々が一年生の頃には、当然の事ながら旧校舎は主に一年生が使用している事もあって、旧校舎各所の掃除も各クラス持ち回りで担当していたんですね。

 ただ、誰もが嫌がる清掃場所というのが一ヶ所だけありまして……それが旧校舎二階にある男子トイレ……。

 他のトイレには手洗い場に鏡がついているのですが、そこのトイレだけには、どういう訳か鏡がなく、代わりにかつて鏡があったであろう壁にお札が貼られていたんですね。

 どういう理由があって、そんな場所にお札が貼られていたのかは分かりません。

 先生方もあまり詳しく話してはくれませんでしたからね。


 しかしまあ、鏡の代わりにお札が貼ってあるなんてのは、やはり気持ちの良いものじゃありませんよ。

 だから普段から、その男子トイレはあまり使用されていませんでしたし、そこの清掃担当になった班は皆んな嫌そうにしてるんですよね。


「なぁ……。どうせ殆ど使ってるヤツ居ないんだしさ……適当にやって、さっさと帰ろうぜ?」

「ああ……。水撒いて、水切りかけるだけでいいだろ」


 大抵はこんな具合。

 確かに、あまり使用されていない事もあって、便器などは殆ど汚れている事がないんですよね。

 トイレットペーパーだって他のトイレに比べたら、圧倒的に減りが遅い。

 だから、皆んな雑に掃除を終わらせて、さっさと切り上げてしまうんです。


 そんなある日——


「おい、聞いたか? 二階の男子トイレ……誰かがお札剥がしたらしいぞ?」

「ええっ⁉︎ マジかよ! 今日、あそこの掃除担当、ウチの班じゃん!」


 誰がやったのかは分からないのですが、いつの間にか、ずっと貼られていたお札が剥がされていたそうなんですね。

 私も別の日に、そのトイレの清掃担当で見ましたよ。

 確かに破られるようにして、お札が剥がされた痕が残ってる……。

 イタズラのつもりでやったのか……とにかく学校中がしばらくはその話題で持ち切りになった程です。


 そんな事もあったのですが、しばらくすると人の噂もなんとやらってなもんで、いつしかお札の一件も話題にされなくなりました。

 ある日の事、私たちのクラスで社会科を受け持っていた教師が、


「この間の休みにな……こんな事があってなぁ……」


 と、授業が始まる前に少々憂鬱そうな顔で語り始めたのでした。


 その社会科の教師というのは、女子バレー部の顧問を務めていたのですが、大会も近いという事で、部員たちが学校に泊まり込みで体育館を使って練習をしたいという要望があったそうなんです。

 泊まり込みと言っても学校に寝泊りするような設備もありませんし、仕方なく旧校舎にある空き教室の一つを使う事を許可したそうなんですね。

 もちろん、生徒たちだけを学校に残す訳には行かないですから、その顧問は職員室の奥にある休憩室で休む事にしたそうです。


 夕方の練習を終えて夕食、そして各々がシャワーを浴びて旧校舎の空き教室に集まってワイワイやってる……。

 年頃の女の子たちですからね。流行りのドラマの話だとか恋愛の話に花を咲かせたりなんてしてたんでしょう。

 やがて夜も更けて、皆んな一日の疲れが出て来たのか、誰ともなく「そろそろ寝ようか」と言って、簡易的なマットに横になって、うつらうつらとしてきた。

 そんな中、一人の女子部員がトイレに行きたくなってしまいました。


「ねぇ……。誰かトイレ行かない?」

「一人で行ってきなよ」


 殆どの子は、もう寝てしまってますし、反応してくれる仲間も眠そうな声でそう答えるだけ。

 誰も一緒に行こうなんて子はいない。

 その子もトイレには行きたいんですけどね。何せ今、自分たちが寝泊りしているのは曰く付きの旧校舎。おまけに夜で学校内はどこも真っ暗ですからねぇ。

 一人じゃ怖いんですよ。


(やだなぁ……)


 そうは言っても朝まで我慢するわけには行かないですからね。

 渋々一人で廊下に出ました。

 やはり廊下は真っ暗……。

 長く続く廊下の向こうに消火栓の赤いランプが点っているだけで、あとは窓から表の通りにある街灯の白い光が弱々しく射し込んでいるのみで、どうにも気味が悪い……。


「早く行って戻って来よう……」


 自分たちの寝泊りしている空き教室は三階なんですが、女子トイレというのは一階にしかないんですね。

 照明のスイッチもどこにあるのか分からないので、窓から射し込む薄明かりを頼りに廊下を壁伝いに歩いて行く。


 ヒッタヒッタヒッタヒッタ……


 自分の足音しかしないのですが、廊下なので音が反響して誰か別の足音もしてるんじゃないかと錯覚してしまう。

 でも、怖いので前しか見ないように階段の方へ向かって、ひたすら歩いて行きます。

 階段へたどり着くと、もう駆け下りるように一階までまっしぐら。

 というのも、例のお札が貼ってあったという男子トイレは階段二階の直ぐ傍にあるんですよね。

 中まで見えるわけではないのですが、どうしたって入り口が視界に入ってしまうんです。

 そんな気味の悪いところは、さっさと通り過ぎてしまいたいというもんですよね。


 一階の女子トイレで用を済ませると、また同じルートで戻ります。

 やはり怖さはあるのですが、来るまでに何ともなかったものですから、まあ、帰りはそんなに意識しなくなっていたのです。


「明日も朝早いみたいだから、私もさっさと寝なきゃ」


 そう言って二階まで上がったところで……その女の子……ふと足を止めました。


 ヒッタヒッタヒッタヒッタ……


 誰かがこちらに向かって歩いて来る音がするんです。


(あれ? 誰か下りて来たのかな?)


 でも、それにしては妙なんですよね。

 だって自分たちは三階にある空き教室で寝泊りしてるわけですから、二階の廊下を歩いて、こちらに向かって来るわけがない。

 だったら顧問の先生が巡回でもしてるのか……とも思ったのですが、よくよく考えてみると、職員室があるのは新校舎の方ですし、新校舎から旧校舎へは一階の昇降口を使わないと出入りする事が出来ないんですよ。

 つまり足音のしてくる二階廊下の向こうは行き止まりなんですね。


 先生でもない……。


 急に背中の辺りがゾクゾクっとしてきました。


 ヒッタヒッタヒッタ……


 もう直ぐ近くまで来ている。


(やだ……。なんなの?)


 このままじゃ鉢合わせになってしまいますからね。

 冗談じゃない。

 女の子は慌てて三階まで駆け上がりました。


 三階の廊下に出ると彼女は肩で息をしていました。

 ここまで上がって来れば大丈夫……。

 そう思って早く自分たちの空き教室まで戻ろうと、自ずと足早になります。


 ところが——


 ヒッタヒッタヒッタ……


 階段の方から、またあの足音が聞こえてくるじゃありませんか。


 追って来た!


 そう思ったら、もう声も出ません。

 彼女は空き教室まで続く長い廊下走りました。

 でも、それまではただ歩いていただけの足音が突然——


 ダダダダダダッ‼︎


 自分を追って走って来たのです。


(助けて! 助けて!)


 女の子は追いつかれまいと必死に走り、空き教室のドアを開けて入ると、


 バタァン‼︎


 皆んなが寝ているのもお構い無しに、それこそ壊れるんじゃないかという勢いでドアを閉めて仲間たちがひしめき合うようにして寝ている中に縮こまりました。


「何なのぉ?」

「うるさいなぁ……」


 今のけたたましいドアの音で何人かが目を覚ましてしまったようで、苛立ち混じりの声をあげました。

 それでも彼女は今味わった恐怖に声も満足に出す事が出来ず、


「ひ……ひ……あ……」


 と、喘ぐように身を震わせています。

 そこへ——


 ダダダダダダ‼︎

 ダダダダダダ‼︎


 廊下を何者かが激しい音を立てて行ったり来たりしている。


「なに? え? なに?」


 さすがに他の目を覚ました子たちも尋常じゃない様子に気づいたようでした。

 皆一様にドアの方を見つめています。


 ダダダダダダ‼︎

 ダダダダダダ‼︎


 それからはもうパニックですよ。

 泣き出す子もいれば、声にならない声をあげた子もいて……。


 しばらくして音は止んだのですが、皆一様に固まって朝まで震えていたそうです。

 結局、そんな事もあって次の日は練習になる筈もなく、顧問の先生も報告を受け、泊まり込みでの練習は中止になったそうです。


 例のお札と関係があったのか……。

 ここが昔、首斬り場だったからなのか……。

 教師に訊いても、そういった因果関係は一切分からず終いでした。


 その後、学校に泊まり込んで練習をしようという部活は一つも出て来ませんでしたねぇ。

 我々の代が卒業して二年くらいしてからでしたか……。その旧校舎は新しいものに建て替えられたそうですが……あの足音の主はどうなったんでしょうねぇ……。

 校舎が新しくなったからといって、居なくなるものなのか……。

 そもそも、学校の敷地内のみならず、その一帯で数々の心霊現象の噂があった土地でもありますからねぇ……。

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