第十一話 対峙

牙星きばぼしが、己の龍の存在を尋ねたというのか⁉」

 

 神殿の広い一室に、時の皇帝の怒号のような聲が響いた。

 皇帝の前には、妃である龍貴妃が居た。他に召し遣いなどの姿はない。開いた窓から、緩い風が吹き込む。


「何故牙星が、その事を知っている」

 

 皇帝は険しい視線を龍貴妃りゅうきひに向けた。龍貴妃は項垂れ、皇帝のまなこから逃れるように視線を落としていた。


「タケルか?」


 龍貴妃は答えなかった。だが、僅かにその唇を結んだ動きを、皇帝は見逃さなかった。


「やはり、そうなのだな」

 

 皇帝は厳しく顔を歪めた。そして、低く唸るような息を吐く。


「龍貴妃よ、……あの先視は何と云ったのだ」

 

 龍貴妃は、苦し気に眉をひそめた。やはり黙したまま、妃は答えなかった。

 業を煮やした皇帝が、先に口を開く。


「あの者が現れた時、全ての運命が狂い出すのだろう」

「それは違います!」

 

 皇帝の言葉を遮るように、妃が初めてこえを発した。


「タケルが現れても、運命は狂いません。只……」

 

 龍貴妃は、躊躇とまどうように皇帝の双眸そうぼうを垣間見た。力強い紅の眼。まるで、龍のそれのように。


「双方の龍を求める者が出会った時、定めの輪は廻り出すと……」


 龍貴妃が、重たげに言葉を絞り出した。皇帝は眉間に皺を寄せ、唸るような聲を洩らして黙り込んだ。初夏の匂いを含ませて、風だけが穏やかに吹き過ぎていく。



「……もうすぐ、祭りが行われる」

 

 唐突に、皇帝が呟いた。突然切り出されたその言葉が何を意味しているのか、龍貴妃は判らなかった。


「運命の暴走を止める方法が、只一つだけある」


 そう云った皇帝の口元には、笑みが浮かんでいた。

 

 龍貴妃は、何故か酷い悪寒を覚えた。女人のように美しい皇帝の唇が、ゆっくりと開かれる。

ぞっとするような嫌な予感が龍貴妃の胸をよぎった。

 皇帝の紅の眼が、冷たく綻ぶ。


「私が永遠に、この世界を手の内に牛耳ぎゅうじれば良いのだ」

 

 龍貴妃は、息を詰まらせた。そして瞬時に、皇帝が何をしようと企んでいるのかを悟った。

 真っ青に血の気も失せていく妃には眼もくれず、皇帝は不気味な含み笑いを溢していた。


                  ◆


 炎に照され、二人の黒い影が揺れていた。

 牙星は、改めて広間の中を見渡した。酷く殺風景な場所。駄々広いだけで、祭壇以外何もない。双葉ふたばのような少女がたった一人で居るには、あまりに不自然で淋しい場所だった。

 姫巫女双葉は、実年齢よりもずっと幼く見える。明かさなければ、誰も十五歳だとは思わないだろう。牙星もまた、双葉を自分よりも一つか二つ幼い童女だと思い込んでいた。


「双葉はここで、何をしていたんだ」

「祈りを捧げておりました」

「祈り? 誰にだ」


 牙星が首を傾げる。


「龍神様にです」

「龍神⁉」

 

 牙星が叫んだ。


「お前は、何故龍神に祈るんだ」

 

 少し強い口調で牙星が問う。


「私は、龍神様に仕える姫巫女だからです」


 牙星は、大きな眼を更に見開き双葉を見詰めた。


「ならばお前は、龍神の居場所を知っているのか」


 姫巫女双葉は、静かに首肯うなづいた。牙星の眼が、鋭い光を帯びる。


「そこへ、儂を案内しろ」

 

 双葉は、戸惑いながら牙星を見た。


「けれど……」


 躊躇い、双葉は言葉を詰まらせた。


「儂は神殿の皇子みこだ! 父上の龍神の元へ連れて行け!」

 

 牙星の言葉は絶対の命令のように、有無を云わせぬものだった。


          ◆


 赤い光に満ちた岩場に、二人の影が落ちる。先を歩いていた双葉が、静かに立ち止まった。もうっと、熱を孕んだ空気が足元から噴き上げる。


「この先に、龍神様がいらっしゃいます」


 静寂の空間に、姫巫女双葉のこえが響いた。


「こんな処に龍神が居るのか」

 

 牙星が訝しげに辺りを見回す。

 本来ならばここは、例え皇子であっても立ち入ってはならない聖域。侵入者である牙星を何故この場所へ連れて来てしまったのか、双葉自身にも判らなかった。確かに、牙星の言葉には逆らいがたいものがあった。けれど多分、従ってしまった理由はそれだけではない。


 岩場を見回す牙星の表情は、終始良く動いた。興味深そうにしていたかと思えば、険しく眉をひそめていたりする。今は勇む足取りで、双葉の先を歩いていた。

 前をいく牙星のまなこが、巨大な塊を捉える。最初は岩の影が黒く映り込んでいるのだと思った。それがぬるりとした蠢きを見せた瞬間、牙星はその黒いものの正体を悟った。

 龍神。

 その肢体は、牙星が予想していたよりも何倍も巨大なものだった。



「龍神様です」

 

 後ろの双葉が告げる。


「あんなにでかいのか」


 岩の間から覗く龍神の体は、有に低い山程の大きさはある。さすがの牙星も動揺を隠せなかった。


「ここから先は、姫巫女以外踏み入る事を許されません。牙星様は、ここでお待ち下さい」


 そう云った双葉を、牙星が鋭く睨む。


「こんな処で待っていては、意味がなかろう!」


 云い放つと、牙星は勢い良く先へ進み出す。


「いけません!」

 

 双葉が制するのも聞かず、牙星はずんずん歩みを進める。その素早さに、双葉は追い付く事さえ出来ない。止めようにも、あっという間に遠ざかっていく。

 進む牙星の正面に、龍神の黒い影が盛り上がった。牙星の姿が、圧倒的なその影に呑まれていく。


「牙星様!」


 双葉の叫びにも、牙星は足を止めなかった。

 凛とした紅の双眸そうぼうは、彷徨さまよう事なく龍神の姿を捉えていた。岩の間から現れた龍神の背はびっしりとした鱗に包まれ、魚のような濡れた光沢を見せている。

 牙星はようやく足を止め、仰け反るように見上げた。

 黒い光を帯びた肢体が、牙星の頭上に伸び上がる。視界の全てが黒い鱗で覆われていく。

 牙星は、更に見上げた。

 その遥か真上にあったのは、鋭い氷柱のような牙が剥き出しになった龍神の顔面だった。

 

                 ◆


 寝台に仰向けで眼を瞑っていたタケルは、はっと気づいて目蓋まぶたを開いた。

 ずっと引っ掛かっていた事。

 牙星の浮かない表情。牙星が初めて見せたその顔を、何故か前にも見た気がした。

 不鮮明な記憶。ぼんやりとし過ぎて、いつ何処で見たのか思い出せなかった。

 曖昧な記憶が、今タケルの中で像として結び付いた。

  

 くるくると良く動く牙星の表情。喜怒哀楽が包み隠さず現れる。その所為せいで、今まで気づかなかった。


「そうだ、あの時の……」


 感情を乗せない、あの顔。遠く定まらない、あの眼差し。

 二人の少年の顔が、タケルの記憶の中で寸分たがわず重なった。


                  ◆

 

 龍神の生暖かい息が、全身に吹きかかる。濡れた黄金の眼が牙星を見下ろしていた。

 龍神の心臓が鼓動する音すら聞こえそうな距離で、肝の座った牙星もさすがに立ち竦んだ。


 この世界には、数える程龍が存在する。牙星も今まで幾度か龍を眼にした事がある。だが、これ程に巨大な龍を見るのは初めてだった。

 龍神の手が上体の動きに合わせて盛り上がる。牙星の体と同じくらいの大きさの鋭利な爪が、すぐ真上に構えていた。開かれた口の内部は、煮えたぎるような血の色。


「牙星様! いけません、戻って下さい!」


 擦りきれるような双葉の叫びが背後から響く。足元が地鳴りのような音を立てて揺れた。

 龍神の体が、波のようにうねりながら岩影から伸び上がっていく。

 岩場が轟いた。

 牙星は、呆然と立ち尽くしていた。

 動かないのは、怯んでいる所為せいではない。己のこの眼でしっかりと龍神の姿を確めておきたかった。


 ウオォォォォン


 龍神の咆哮が谺す。

 真剣のような爪がゆらりと揺れた。牙星は真っ直ぐに眼を逸らさぬまま、微動だにしない。

 双葉の悲鳴と龍神の咆哮が重なる。

 空気が振動した。


 牙星はその瞬間、遠く響く笛の音を聞いた。

 その刹那、振り下ろされようと動いた爪が宙で静止した。

 牙星は瞬きも忘れ、動きを止めた龍神を見詰めた。

 僅かに唸る、龍神の聲。

 一瞬の時の向こうに、怒りを置き忘れてしまったかのように穏やかな聲。そして、恍惚と眼を細める。龍神は舞い踊るように全身をゆらゆらと動かした。

 蝋を塗ったように白い腹が、呼吸に合わせて波打っている。


 そして次の瞬間、伸び上がっていた龍神の体が岩場へ沈んでいくのが見えた。滑る鱗が流れるように視界から去っていく。

 轟々と地響きを鳴らしながら、龍神の巨体は地の底へ呑まれていった。暫くの間、地響きと振動は続いた。やがて振動が治まると、岩場には再び静けさが訪れた。


 聲も洩らさぬまま、牙星は佇んだ。静寂の戻った岩場に、甲高い笛の音だけが残っていた。

 穏やかな旋律。

 ぐずる稚児を優しくあやす子守唄のように。

 

 牙星は笛の音の降り注ぐ頭上を振り仰いだ。

 彼方の岩の上に立つ、人の姿。

 漆黒の長い髪を束ねずに垂らした、白装束の童子。その虚ろに開いた両眼は、こちらを見下ろしている。


 牙星は、愕然とした。常に毅然と対峙していた牙星に、初めて動揺が見えた。


「……あいつは……」


 やっと絞り出した聲は、渇いて掠れていた。


「……あいつは何故、儂と同じ顔をしているんだ……」


 牙星の紅の眼は、まなじりも裂けぬばかりに見開かれた。

 

 岩の上で笛を吹くその童子は、牙星と瓜二つの相貌をしていた。鋭く整った眼、鼻梁、面差し全てが気味の悪い程に。

 重なり合う、二人の童子の視線。

 死人しびとのようなその眼球は、感情すら浮かべる事なく牙星に向けられていた。


 立ち尽くしたまま、牙星は暫し動く事すら出来なかった。

 


 

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