第九話 守人

 その晩床に就いたタケルに、なかなか眠りは訪れなかった。

 目蓋まぶたを閉じても、余計な事ばかりが思考を巡る。

 牙星きばぼしという皇子みこの存在は、あまりに鮮烈にタケルの脳裏に色を落とした。

 自分の思うがままに堂々と振舞い、感情を隠そうともせず何も恐れず、野生の獣のように俊敏で気高く、そして凛とした王族としての風格を持つ。

 紅のまなこ、誰もが見とれ酔いしれる程に美しい容姿。そして、そこに宿る魂。


 牙星の存在に、タケルは強く惹かれていた。そして同時に、そんな生き方ができる牙星が羨ましかった。牙星の楽しげに笑う顔と、父である皇帝を嫌いだと云い放った厳しい眼差しが重なる。

 タケルが気になるのは、牙星と命を共にする筈の龍神の事だった。

 牙星本人すら知らぬという、龍神の存在。そう云われてみれば巫殿に暮らすタケルも、まだ皇帝以外の龍神を一度も見ていない。

 姫巫女ひめみこに尋ねてみたかったのだが、今日は朝少し顔を合わせたきり会う事ができなかった。

 タケルは、夕飯もたった一人で済ませた。夕飯の後に体を清め、そのまま床に就いたのだ。

 姫巫女が祈りの儀の最中は、白髪巫女がタケルの身の回りの世話をする。タケルはどうも、あの険しい態度の巫女を好きにはなれなかった。

 寝台の上で、横に寝返りを打つ。

 窓のないこの部屋で、心を落ち着かせる事も、気を休める事すら上手くできなかった。

 不意に、婆様の子守唄が恋しくなる。

 婆様の子守唄が、もう一度、聞きたい。


 子守唄。

 タケルは眼を開くと、寝台から起き上がった。

 眠れないのは、気になる事が多すぎるからだ。

 

 龍神の岩場で聞いた、笛の音。何処から聞こえてくるのか、その吹き手すら知れぬ旋律。

 姫巫女ですらその主を知らず、白髪巫女は決して語ろうとしなかった。

 タケルは寝台から降りると、そのままそっと部屋の扉を開いた。そして、外の様子を伺う。

 廊下に、巫女の姿はない。

 伽藍がらんとした部屋を抜け出し、真っ直ぐに廊下を進む。


 タケルは、笛の音の主をこの眼で確かめようと決めた。

 灯火の揺れる、薄暗い通路。タケルは足音を立てぬよう、慎重に歩いていく。

 最初の曲がり角で立ち止まり、そっと耳を澄ませる。


 聞こえる。

 ごく微かではあるが、あの笛のがする。

 タケルは音色にいざなわれるがままに、仄明りの通路を進んだ。逸る気持ちを抑えながら、足音を忍ばせ先へ先へと。

 他に音のないしんとした冷たい通路の遠くから、途切れ途切れに聞こえる笛の音。


 タケルは、はっとして壁に張り付いた。

 通路の中程に位置する部屋の扉をから、細い明りの筋が漏れている。そこは確か、巫女たちが祈りの儀に使う部屋だ。

 気配を殺し、タケルはそっと近づく。

 中から小さくこえが聞こえる。

 タケルは、恐る恐る覗いた。

 幾つも並ぶ蝋燭の炎に長く伸びる人影。その影の先には、白髪巫女の姿があった。白髪巫女は只一人で祈りを捧げていた。


 タケルは気づかれぬように、速足で部屋の前を通り過ぎた。

 こんな夜中に、あの白髪巫女は一体いつ眠るのだろう。あるいは、眠りなど必要ないのかもしれない。どこか血の気の感じられない巫女だ。眠らなくとも、不思議はないような気がした。

 

 姫巫女の祈りの広間。その大きな扉の前を通り過ぎる。

 笛の音は、まだ遠い。

 音色を辿り曲がると、その先はだいぶ細い通りになっていた。天井も低くく、大人の男であれば身を屈める必要があっただろう。

 耳に届く旋律は、先程よりもだいぶ近づいていた。

 危うくつまずきそうになり、タケルは僅かな段差に気づいた。そこから先は、上へ続く狭い階段だった。頼りない程に薄暗い。

 タケルは、踏み外さないように壁に手を当てながら、ゆっくり階段を登った。

 湿った感触が手のひらを伝う。

 一段一段登っていくうちに、ほぼ暗闇に近い程視界を絶たれていた。

 けれど、確実に笛の音には近づいている。


 上の方に明かりが見え始めた。赤い、黄昏時のような光。

 笛の音は、今はっきりと聞こえた。

 

 階段を登り切り、タケルは紅の明かりの中に晒された。

 ごつごつとした足場。そこは、龍神の居る岩場と良く似た場所だった。

 ごうごうと、風のような音。

 そして、笛の音。

 タケルははっとした。人が居る。巫女、いや違う。

 腰に届く程の長い黒髪、白い衣。タケルと同じ年頃の童。

 笛の音の主だった。


 タケルは、ゆっくりと近づいた。

 童は目蓋を閉じたまま、笛を吹いていた。綺麗な女人のような顔をしていたが、その衣は男児のものだ。

 タケルは、童の直ぐ真向かいで立ち止まった。タケルの気配に気づいているのかそうでないのか、童は目蓋を閉じて笛を吹き続けている。


「ねえ」


 タケルは、少しためらいながら聲をかけた。

 笛の音が止んだ。童が静かに眼を細く開く。僅かに覗いた、紅の眼がタケルを見る。美しい面差しではあったが、何故か造り物のような印象を覚えた。


「君は、ここの巫女なの?」


 男児である者が、巫女である筈もない。

 タケルの問いにも応じず、童はまた笛を吹き始めた。その両眼が、眠りに落ちるように再び閉じられる。


「何故、ここで笛を吹いているの?」 


 タケルは、別の問いを投げてみた。

 音色が途切れた。童の唇に触れていた笛が、そっと離れる。同時に、ゆっくりと目蓋を上げる。その目蓋の動きは、まるで開いていく花弁を思わせた。

 はっきりと開かれたまなこ。思ったよりも、大きな双眸そうぼう


「……龍たちが、吹いてほしいと云うから……」


 囁くような微かな聲。記された文字を読むような、抑揚のない言葉。真っ直ぐにタケルを見据えているようで、何処か宙に浮いたような眼差し。人形を相手にしているような、奇妙な違和感。


 タケルは気づいた。この童には、全く表情がないのだ。

 童の顔には、一切の感情が伺えない。辛うじて時折見せる瞬きが、生きた人である事を証明しているのみである。


「君の、名前は?」


 再び口元に笛を持っていこうとした童に、タケルが尋ねた。童の視線がタケルに向く。


「名前……。それは、何だ……」

 

 タケルは戸惑った。


「……君は、何と呼ばれているの?」

 

 童は笛を握った手を静かに下ろした。赤い光に染められながら、童の唇が開く。


「龍たちは、私の事など何とも呼ばない。只、私と同じ姿をした者たちは、私の事を守人もりびとと呼ぶ」

「守人……」


 それは、本当に童の名前なのだろうか。

 守人と呼ばれる童は、再び笛を吹き始めた。タケルはじっとその姿を見詰めた。まるで、傀儡くぐつのような仕草。


「君に、笛を吹いてほしいと云う龍たちは、何処に居るの?」


 守人は薄く目蓋を開いた。その下の眼がゆらりと動く。

 タケルは、その視線の先を追った。

 足場が途切れ、崖のようになった岩の向こう。赤い光はそこから漏れている。タケルは駆け寄ると、その下を覗いた。


「ここは……」


 真下に見えたのは、皇帝の龍神の棲む岩場だった。ここから吹いていた守人の笛の音が、ずっと下の龍神の岩場へ降り注いでいたのだ。


「龍神が、君に笛を吹いてくれと頼むの?」


 顔を上げ、守人の方へ振り向きタケルが尋ねた。


「他の龍も、好んでここへやって来ては、笛を所望する」

「他の龍も……」


 その龍の中に、タケルに生を授けてくれた聖龍神も居るのだろうか。そんな事を思い、タケルははっとした。


「ねえ、その中に、神殿の皇子みこと命を共にする龍神は……」


 タケルが尋ねると、同時だった。


「そこで何をしているのです」


 鋭く嗄れた聲がした。

 タケルの心臓が、びくりと跳ねる。振り返ったタケルの眼に、白髪巫女ともう一人若い巫女の姿が映った。


「タケル様が、何故ここに居られるのです」


 いつもに増して刺のある響き。タケルは背中に吹き出した冷や汗に、急に寒気を覚えた。


「お部屋までは私がご一緒致します。早々に、この場から立ち去って下さい」


 白髪巫女の口調はあくまで冷静ではあったが、その内に含まれた叱りつけるような険しさをタケルは感じとっていた。 

 

 若い巫女を残し、タケルは白髪巫女に連れられ元来た通路を引き返した。

 岩場の方から、再び守人の笛が聞こえ始めていた。

 離れていく笛の音を聞きながら、タケルの内側では重いもやがぐるぐるととぐろを巻いていた。


「もう決して、あの場所には立ち入らないで下さい」


 白髪巫女が、タケルに背を向けたまま云った。その言葉尻が、冷たい響きを残して壁に吸い込まれていく。


「そして、あの場所で眼にしたものを、決して口外せぬよう願います」

 

 部屋へ戻されたタケルは、床に就いたもののその晩はほぼ一睡もできなかった。

 

                              

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る