第二話 祭りの夜

 村中が変だった。

 仲間たちだけでなく、大人たちまでもが奇妙な態度を取った。どこか不自然でよそよそしく、皆一様にタケルに何かを悟られまいとかしこまっていた。


 まるで、ある種の腫れ物に触れるように、繊細な壊れ物を扱うように。その些細な変化を悟られまいとしているようだが、タケルは感づいていた。大人たちの声の具合であったり、まなこの動きなどからいつもと違う気配を肌で悟る。仲間たちなど、あからさまにタケルを避けるようになっていた。

 その所為せいもあり、タケルは一人物思いに更けながら過ごす事が多くなった。 

 村人たちの不可解な様子、仲間たちの態度。そして決まって最後には、雪の語った話を思い出す。


 あの遠い空の彼方、雲の向こうには龍神とその一族が棲んでいる。


 タケルは雲のずっと先を見透かそうと、眼を向けた。けれどどれ程眼を凝らそうと、雲は煙のように空を流れていくだけで龍神の棲む世界の片鱗すら見つけられなかった。

 風の脇をくぐるように、いつの間にか聞こえ始めたお囃子の音色がタケルの横を通り抜けて行った。


               ◆



 タケルは壁に寄りかかり、開いた窓から月を眺めていた。十六夜の欠け始めた月の明かりが、仄暗く夜を照らし出す。

 祭りの前夜の為か、遠くからはまだ賑やかな音が聞こえている。



「タケルや、もう寝なさい」


 布団の中の婆様が云った。

 タケルは振り返り、婆様を見た。枕の上の婆様の顔が、月明かりの中に浮かび上がっている。その皺だらけの顔は、深い陰影を造り上げていた。まるで、古びた禍々しい面のように。



「婆様、皆僕に、何を隠しているの」


 タケルの問いに、婆様の答えが返る事はなかった。




 そして、次の日の夜が訪れた。

 タケルは着なれない絹の衣を羽織り、婆様と共に村の広場に向かった。

 真新しい衣に袖を通した瞬間のひんやりと冷たい感触が、まだタケルの腕に残っている。まるで、何処いずこかのうつつとは異なる世界へいざなわれるような感覚。


 広場には、すでに村中の人間が集まっていた。その中央では、巨大な炎が天に喰らいつかんばかりに燃え上がっている。そしてその先には、仲間たちも手伝って造り上げたという大きな龍の頭が、気味悪くタケルを見据えていた。


 タケルを捉えたその両のまなこは、燃え盛る炎に染められ濡れたようにぎらぎらと夜に浮かび上がっていた。

 炎から立ち上がる灰色の煙が、濛々もうもうと黒い空に吸い込まれていく。

 響き渡る、祭り太鼓とお囃子の音。そして、タケルを見詰める無表情な幾つもの眼。


 ……違う。


 これは、タケルの知るいつもの祭りではなかった。寒いわけでもないのに、背筋に冷たさを覚えた。

 タケルは、お囃子を吹く女たちの中に雪の姿を見つけた。だが、その能面のような生気のない表情に、笑いかける事すらできなかった。


 後ろの婆様が、黙ったままタケルの背を押す。

 何処へ向かえというのか。


 その前方には、炎の陰から鋭く見据える龍の頭。それはまるで、血に飢えた只の獣そのものだった。

 タケルは、五臓六腑がせりあがるような嫌悪感を覚えた。


 婆様の萎びた手が、再びタケルの背を押す。

 タケルは躊躇しながらも、ゆっくりと足を踏み出した。


 ‼


 タケルの全身に、悪寒が走った。

 能面のように表情のない顔を向けていた村人たちが、一斉に地べたに平伏したのだ。

 タケルは只立ち尽くしたまま、何が起こったのかすら判らず、ただそれを茫然と見詰める。

 道の双方に伏せる村人の姿は、まるで命を持たない石造りの置物のように見えた。タケルは喉の奧に、何か熱いものがこみ上げてくるのを感じた。


 これは一体、何の儀式なのだろう……。


 混乱する頭を、戸惑いと誰にともない問いかけだけが、堂々巡りにぐるぐると回り続けた。生唾を呑み込みたくとも、喉は張り付きそうに渇いていた。

 村人たちが守るように囲った道を、タケルはぎこちなく進んだ。平伏している村人たちは、どれもタケルの知っている者ばかりだ。

 炎から吹き上げる熱と風が、タケルの髪を煽る。全身から滲み出る汗は、灼熱の所為せいばかりではない。


 タケルは止まることなく進んだ。


 その先にあるのは、造り物の不気味な龍の頭。


 地べたに張り付かんばかりに伏せる、人々の影と形。

 タケルは、後ろを振り向いた。婆様の小さな体躯が、仄赤く浮かび上がっていた。婆様の眼は、引き返すことを許してはくれなかった。

 逃げ出したい衝動を必死に噛み殺しながら、タケルは仕方なく歩を進めた。


 そして、タケルは龍の頭部の飾りものの前に立った。

 鋭い牙。そこだけが恐ろしく生々しい様子で、タケルを待ち構えていたかのように裂けた口の間から光を帯びて覗いていた。


 タケルは、ゆっくりと見上げた。

 その造り物の眼球の中に、タケルの姿が揺れている。

 怯え、訝しむ少年の姿が。


「龍神様だよ」


 背後からの婆様の聲こえに、タケルは振り返った。

 婆様の真っ白な頭髪が、炎に赤く染められている。


「八百万の守り主である、龍神様のお姿」


 タケルは再び、龍の姿を見た。

 タケルにはどうしても、これが神の姿とは思えなかった。


「これは、龍の御子みこを崇め祀る為の儀式」


 炎が深い陰影を造り上げ、婆様の顔を見知らぬ別人のように変えていた。


 龍の、御子……?


「そして今宵は、お前が生まれ落ちた十三回目の日」


 火の粉が、高く舞い上がる。

 龍神の影が、二人の姿を呑み込んでいた。

 タケルは微動だにせず、只眼の前の老婆を見詰めた。



「この祭りは、お前の十三の歳が訪れたことを、祝う為のもの」


 灰色の煙が、龍の頭に絡み付く。


「どういう、こと……?」 


 炎に照らし出され、長く伸びる二人の影。


「僕の生まれた日が、偶然、祭りの日と重なったんじゃなかったの?」


 タケルは、呆けたように問いかけた。

 渦を巻くように混乱する脳裏に、毎年祭りの朝、家の前にうず高く積まれた貢ぎ物の記憶が思い出された。村中だけでなく、近隣の里からも貢がれてくる、たくさんの食物。

 それは全て、タケルの生まれた日を祝って送られてきていたというのか。


 何故……。


 タケルは、問いただすように婆様を見詰めた。

 タケルに贈られた貢ぎ物。まるで、尊い神へと捧げられた供物くもつのように。


「タケル、お前の内に流れる血の、その半分は人のものではない」


 ドックン


 タケルの心臓が、大きく鼓動した。

 血液の脈動に、全身が激しく熱を帯びていく。

 皺の奧に窪んだ老婆の眼が、じっとタケルを見据える。その暗い影を落とした眼は、感情すら読み取れなかった。

 そして再び、老婆の口が開かれる。



「お前は、龍神様から命を授かった童」



 しわがれた聲が、弾ける火の粉の音に重なった。婆様の言葉は、まるで意味をなさぬ響きのように聞こえた。タケルがその言葉の持つ意味を理解する為には、少しの間が必要だった。

 揺るぎなくタケルを見詰める、老婆の眼。

 少し前から、婆様と自分に血の繋がりがないという事には薄々気付いていた。婆様は決して何も語らなかったが、タケルは僅かな気配からいつしかそれを察していた。

 けれど、それでも良かった。

 血の繋がりのない自分を可愛がり育ててくれた婆様を、肉親以上に大切な存在だと思っている。その婆様がいつか語ってくれる事実ならば、全て受け入れようとも決めていた。


 だが……。


 龍神様から命を授かった童。


 この体を今も絶え間なく流れている血は、半分人のものではない? ならば、そのもう半分は……。

 輪廻転生の闇の中から、タケルは龍神の子としてこの世に生を受けたというのか。


 悪い嘘としか聞こえない。けれど婆様が嘘など語るわけがないという事は、タケルが一番よく知っている。

 タケルは張り付いた喉に、ようやく唾を呑み込んだ。


「昔、巫女長をしていた私は、十三年前の今日、龍神様から生まれたばかりのお前をお与りした。まだ己の身を守るすべを知らぬお前を、この地上で育てて欲しいと」


 まるで寝物語のように、淡々と婆様の口から紡ぎ出される言葉。タケルの眼の前の老婆には、今は巫女長の名残りすら感じられない。少なくとも、タケルの眼にはそう見えた。


「そしてお前は、今宵十三の歳を迎えた。お前は、自分の生まれた処へ還るのだよ」


 タケルは黙もくしたまま、老婆を見詰めていた。風に巻かれ狂ったような炎が、タケルの体を焼き焦がそうとするかのように襲いかかる。


 何処へ、還れというのだろう。


 タケルには、その場所すら判らなかった。そんなもの、判る筈もない。

 今までずっと帰り着くのは、この婆様と暮らす小さな茅葺きの家だけだった。それが当たり前だったのだから。


 広場の中央に、二人の影だけが長く伸びて揺れていた。

 ずいぶん長く、向かい合ったまま立ち尽くしていた。只、無言のままに。

 タケルはもう、尋ねる言葉すら持っていなかった。婆様に、もうこれ以上何も語って欲しくなかった。

 タケルは、婆様の皺だらけの顔を見詰めていた。その深い皺の一本一本をなぞるように。

 婆様も、その萎びた目蓋の下から僅かに覗いた眼で、タケルをじっと見ていた。


 そして婆様は、小さく息を吐いた。


「あれからもう、十三年も経ってしまったんだね」


 そう洩らしたその顔は、タケルの知る婆様だった。幼い頃からずっと傍に居てくれた、タケルのたった一人の婆様の顔。 

 その瞬間、タケルの中で必死に張り詰め堪えていたものが、音もなく途切れた。殺していた感情が、隠しきれず溢れ出す。婆様と炎の色が、ぼんやりと混ざり合っていく。


 タケルは幼い童のように、婆様にすがり付いて泣いていた。


「僕……こんなの、厭だ」


 婆様の小さな体は、骨と皮ばかりだった。頭髪には、一本の黒い筋すら見当たらない。

 いつの間に、これ程歳を取ってしまったのだろう。

 擦り切れて綻びた半纏が、今は酷く懐かしい。優しい、婆様の匂いがした。ずっと昔から、知っている匂い。いつでも包み込んでくれた、体温。

 この年老いた婆様と、何故離れなければならないのか。

 タケルの眼から零れた涙が、婆様の衣に染み込んだ。


 耳元で、婆様が何が呟いている。

 タケルは、はっとした。

 婆様の嗄れた聲は、幼い頃によく聞かせてくれた子守唄を唄っていた。小さく、絞り出されるように。まるで、空耳のように微かな聲。

 幼い記憶。指先に甦る、婆様の手の温もり。

 その繋がれた手と手から、優しさまでも確かめられたあの頃。見上げると必ずそこにあった、和かな婆様の笑顔。


 婆様、もう一度、もう一度。

 幼い頃のタケルは、そう云って何度もこの子守唄をせがんだ。もう何年も聞いていない筈の歌声が、脳裏に絶え間なく記憶を甦えらせる。帰るべき場所へ帰ってきたんだ。タケルは、婆様に触れた手に力を込めた。


 この心地好い場所を、失いたくない。あの頃のように、このまま眠りに落ちてしまえたら。眼を閉じたまま、タケルは只それだけを願った。


 やがて、婆様の歌声が途切れた。そしてしわがれた手で、ゆっくりとタケルの体を離す。駄々をこねる童を、優しくなだめるように。


「さあ、もう行くんだよ」


 そう云って微笑んだ婆様の顔には、くっきりと涙の痕があった。


「この先の、龍の宮の祠へ行ってごらん」


 力ない、小さな婆様の体。皺の奧に沈んだ眼が、静かに揺れている。


「婆様……いつか、もう一度会えるよね」


 タケルは、ゆっくりと問いかけた。恐くて、訊けなかった事。けれど、どうしても訊きたかった事。


「会えるよ。いつかきっと、ね」


 婆様の暖かな手が、タケルの頭を撫でた。

 タケルは婆様の顔を真っ直ぐに見詰め、大きく首肯うなづいた。



                          


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