八章:三元融界《トリスメギストス》の果て 1

  



「――トー……リ?」


 頭上で蠢く怪物の尾先に貫かれ、おびただしい量の血を流した状態で壁に縫い付けられた少年の姿を見て、アゼレアは目を見開き、顔色を蒼白にする。

 そして、それと相反するように歓喜の声を上げたのは、ハワード・ハサウェイ・エイケンだった。


「くはは。これで、我らの大望を阻む者はもういない。魔女も、鮮血の怪物も、カウボーイもいなくなったこの瞬間を、変革の狼煙としよう! ミス・エイダ」

「承知していますよ、ミスター・エイケン」


 応えるように、ブンッ――とエイダの身体がノイズし、掻き消える。

それと同時、突如塔の外が明るくなった。

 虚空のモニタに表示されている映像に変化が起きる。空が――灰色の雲にできた空洞が、大きく広がっていく。

 その向こうに見えるのは、アゼレアが見たこともない摩天楼のような巨大なビルディングが建ち並ぶ都市だった。盤面のように整然とした姿をするその都市を見上げ、こんな状況にも関わらず、アゼレアはその都市の姿に――この蒸気機関の発展した都市とは全く違う様相を成すその街並みに、思わず憧憬の念に駆られた。

 あんな世界も、あるのかと。

 あんな時代が、有り得たのかと。

 この世界が歩むことのなかった、歴史の果て。

 それが、夢幻体――トーリたちの、母の、生きている世界。


「……眩いじゃ、ないか……」


 自然と口に出た言葉は、それだった。


「あんなものは、土瀝青と鉄骨の山に過ぎない。そして、それは直に消し飛ぶのだよ」


 目を見張るアゼレアを見上げ、エイケンは酷薄に双眸を歪めて失笑する。そんな彼を見下ろして、アゼレアも負けじと視線を鋭く睨み付ける。

 だが、エイケンはそんな視線などものともしない。彼は悠々と《生命機関》の端末に手を伸ばす。


「ふむ……電脳空間を介した二つの階差機関の接続は問題なしオールグリン。実によろしい。三元融界現象トリスメギストスまでカウントダウンを開始したまえ。ミス・エイダ」

『ええ。ええ。すべて了解したわ、ミスター・エイケン』


 頭上から、雑音交じりの声が響く。エイダと呼ばれた女性の声の、何処か無機質なその声と共に、虚空に現れる【10:00】の時刻表示――恐らく先ほどエイケンが言っていた、三元融界現象への秒読みを意味する時間表示を見上げ、アゼレアは歯噛みする。

(何かないのか? 何か……くそっ。せめて干渉術式が使えれば!)

 意識して、干渉術式を励起させようとする――が、まるで頭の中で何かが邪魔をするようにノイズが走る。


「無粋なことはやめたまえ。君の干渉術式は、今やこの《生命機関》の中核だ。その力は常にこの演算機械を動かすための動力となっている。当然――ほかの用途として揮うには、君自身の出力が足りない。何より君がいるその場所は我が《虫食む糸海》で編んだ籠の中でもある……干渉術式は用途を成さない。だから、その眼で括目せよ。世界があるべき姿になる、その瞬間を」

「はっ。そんなのはお断り……だね」


 エイケンの言葉を、アゼレアは真っ向から拒絶する。


「私は……この世界が嫌いじゃない。排煙の空と汚濁に塗れた川や海。異形の人々が日々を闊歩し、暗澹たる空の下でもなお強く息巻く彼らと、この蒸気と機関に満ちたこの都市で、ずっと生きてきた。愛着がある。胸を張れる。例え私が向こう側にあるべき命であったとしても、このノスタルギアを、そんなふざけた妄執で作り替えようというのなら、私は邪魔してやる。それにだ――」


 そこまで一息に捲し立てたアゼレアは、言葉を連ねるほどに渋面していくエイケンに向けて、にぃぃ、と口の端を釣り上げて――



「お前は母の敵だ。なら、私にとってもお前は敵だよ。ミスター・エイケン」



 そう、宣戦布告するかのように言い放つ。


「あくまで、私と敵対するか。囚われの身でありながら、よくもまあ吼える」


 自分の考えを理解しようとしないアゼレアに対し、エイケンは何処か不服そうに、しかし納得した様子でそう肩を竦めた。

 それに対して、


『――だが、悪くない啖呵だった。流石はマスターの娘、ってところだ』


 不敵で不機嫌そうな科白が、何処からか響いてきた瞬間、二人は信じられないという表情で頭上を見上げて。

 だから、彼らは気づかなかった。

 その声が聞こえた瞬間、

 ぴくりと、

 血に染まった白が、動いたことに――


  ――残り時間【09:12】

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