糟糠之妻:そうこうのつま

 さっき「いました! こっちです!」って叫んだ若い男の声。


 あれはマコトだ。


 あろうことか私を含め三股みつまた掛けていて、尚且なおかつそれがばれても「君が一番だから」などと虫唾むしずの走る開き直りをして見せた最低男。


 あれ? ってことはマコトと一緒にいたのは誰?


「見えました。車です」


 夜の闇に紛れるように黒塗りの高級車が静かに出番を待っている。心なしか、そのフロントの面構えもいつもより頼もしく見える。


「さ、乗って」

「はい、あ、目隠し……」

「お気になさらずに。もう必要ありません」


 吉永さんに促され、私は後部座席に乗り込む。

 吉永さんが車をスタートさせる。

 後ろの窓から来た道を見れば、人影が駆けて来て私たちの姿を求めてキョロキョロしているようだったが、その姿ももうはるか遠く、更に距離は開く一方だった。


 どうやら、逃げ切ったみたいだ。


「大丈夫ですか、高橋さん。申し訳ありません。怖い目に合わせてしまって」

「いいえ」


 そう答えた時に、私はバッグの中でスマホが振動していることに気づいた。

 取り出して見ると画面の表示は「父」。メール着信が11件。これは母だ。どうやら事態が見えてきて、私は携帯の電源を切った。


「謝らなきゃいけないのはこちらです。吉永さん。どうやらあの三人は、私の別れた恋人と、私の両親みたいです。でも信じてください。私はこのお仕事のことは誰にも言ってません」

「その昔の恋人の方は、原付バイクに乗ってらっしゃいますか?」

「ええ。それが?」

「赤いヘルメットですね」

「最後に見た時は」

「なら、ドジを踏んだのはどうやら私のようです。今日、あの家に高橋さんをお送りする時に、どうも尾行されたらしい。たまたまかと思ってたんですが」


 尾行……!

 私が高級車に乗り込むのを見て、バイクで尾行して、しかも私の親に連絡したの⁉︎


 あの最低男! 最低の更に下の勘違かんちがいバカをなんて呼んだらいいのか!


「すみません。私の関係者のせいで、こんなことになって」

「いえ。元々年頃のお嬢さんにお願いするようなお仕事ではなかったのです。あの場所を第三者に知られてしまった以上、今日を最後にしましょう。主人には私から話しておきます。今までありがとうございました」

「本当にごめんなさい。今日のバイト代はいりません」

「いいえ。お約束通りお支払いさせてください。主人もそれを望むはずです」


 そう言われては返す言葉もなかった。

 しばらくは息苦しい沈黙が車中を満たした。


「私の主人は、旦那様は、さる有名企業の会長です」


 沈黙を破ったのは吉永さんだった。


「昨年、奥様を亡くされました。旦那様と奥様は夫婦仲が良く、それこそ会社を立ち上げた頃から影に日向に支え合ったそれは良いご夫婦でした」


 吉永さんは運転しながら淡々と語る。


「忙しい時期には一緒に過ごすお時間も減りましたが、それでも旦那様は必ず夜には家に帰って、奥様と一緒に眠っていたのです。毎日。毎晩。手を繋いで」


 夜の山道。窓に雨が跡を打つ。

 それはまたたく間に本降ほんぶりになり、フロントガラスのワイパーが全力で稼働して、なんとか視界を確保する。車を叩く雨の音が、私たちを包んだ。


「後進が育ち、旦那様の役目も減って、老後はあれをしようこれをしようと奥様と過ごす時間を楽しみにしていた矢先でした。奥様が病に倒れたのは。あっと言う間でした。元々奥様は体のお強い方ではなかったのです」


 車がトンネルに差し掛かる。オレンジの灯り。雨の音が一斉に止んだ。


「その日から、旦那様は眠れなくなりました。寝床に入って左手を掴んでも空を切るばかり。そのことが、奥様がもうこの世にいない事実を繰り返し旦那様に突き付ける。カウンセリングも投薬もあまり効果が出ませんでした。他の誰かと再婚するようなことも、立場を考えれば公に一緒に寝てくれる人を募集するようなこともできません。そこで私が一計を案じ、あの家を買い取って改築して、親類のナツホを頼り、正体を伏せた相手と手を繋ぐ仕事を作ったのです」


 車がトンネルを出る。

 再び雨の泣き声が暗闇を走る黒い車を押し包む。


「でも、それも今日で終わりです。高橋さんには、旦那様もとても感謝しておりました。あなたの手からは奥様と同じ、旦那様への気遣いやいたわりが伝わって来たと。こんな終わり方になって残念ですが」


 見慣れた街並み。私の住んでいる街だ。

 吉永さんはいつものドーナツ屋さんの前に車を止めた。傘を差し、車を出た吉永さんは私の席のドアを開けて私にその傘を持たせた。吉永さん自身は、傘の庇護ひごの外、雨の中に立つ。私は吉永さん側に傘を傾けようとしたが、吉永さんはそれを身振りで断り、懐から封筒を出して私に手渡した。


「高橋さん。短い間でしたが、あなたはとても良い仕事をしてくださった。主人に代わり、御礼申し上げます。ありがとうございました」


 そう言った吉永さんは、雨に打たれてずぶ濡れになりながら、深々とお辞儀をした。

 そして再び顔を上げると寂しげに微笑んだ。


「その傘は差し上げます。ボーナスというには安物ですが。では、お世話になりました。お元気で」


「こちらこそ、ありがとうございました。旦那様にも、ありがとうございましたとお伝えください」


「さようなら」

「……さようなら」


 吉永さんは微笑んでそれに答えると、車に乗り込み、車は雨の駅前に滑るように走り出して行った。


 その車が見えなくなるまで見送った私は、一人雨の街に立ち尽くしながら、涙を流して泣いていることにその時はじめて気がついた。

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