伐氷之家:ばっぴょうのいえ

「お邪魔します」

 

 会釈えしゃくして玄関をくぐる。

 中も至って普通の家屋のようだ。

 品のいい壁紙、落ち着いた調度、ノーマン・ロックウェルのリトグラフ。


 私は三和土たたきを上がり靴を揃えて、どう見てもちょっと裕福なだけの普通のご家庭の廊下を吉永さんの背中に付いて歩いた。私の後ろにナツホも続く。


「このお部屋です」


 オーク材のドアを吉永さんが開けてくれて、私をその部屋へといざなった。


 旅行で宿泊するような、でもそれにしては少し広めの部屋。

 テレビとwifiのルーター。シングルのベッド。一人掛けのソファー。大きな窓とカウンターテーブル。


「へっへーん♬ ナカナカいー部屋でしょ? wifiのパスワードはこれね。こっちがクロゼットでこっちがユニットバス。アタシが調べた限りじゃ、盗撮も盗聴もされてないっぽいから安心して」


 ナツホが何をどう調べたのか知らないが、ちっとも安心じゃない。


「冷蔵庫の中身は飲み放題で、飲んでもバイト代から引かれたりしない。お茶、コーヒー、コーラにオレンジ……どれにもヘンな薬とか入ってなかったよ。ま、アタシの時は、だけど」


 飲んでみたのか……なんか入ってたらどうするのさ。それに今入ってる飲み物についてなんの保証にもならないその情報は必要ないじゃん。ほら……吉永さんが若干複雑な顔してる……。



「携帯も好きに充電していいってさ。ね、おじさん」

「ええ。姪の言う通りです」


 見れば見るほど、少し頑張った値段のホテルのような部屋。

 たった一つ、ベッドの脇の小さな引き戸を除けば。


「主人は夜10時頃に就寝します。ベッド脇のあの引き戸がノックされますから、あなたは鍵を開けて引き戸を開けてください。鍵はこちら側だけにあり、あなたが開けない限り主人はあの引き戸は開けられません。何かあればわたくしの携帯電話へ。番号はwifiのパスワードの下に書いてございます」

「アタシでもいーよ」

 ナツホがキラキラに装飾された私のより一回り大きなスマホをひらひらさせながら言った。

「橋とか名前ついた信号とか、目印のあるところまで逃げ出して電話くれたらいつでもマサヒコと迎えに来る。大体アイツが反対しなけりゃ、サユミを巻き込まずに済んだわけだし。でもま、そんなことにはならないだろうけどさ」


 私は、ふ、と一つ息をつくと、背筋を伸ばして答えた。


「ありがとうナツホ。吉永さんも。契約はしちゃったんだし、とにかく私やってみます。なんか色々お気遣い頂いて……すみません」

「気にすんなよー。トモダチじゃん」

 ナツホが顔をくしゃくしゃにして笑う。

「高橋さん。私から多くは説明できませんが、私も私の主人も、あなたを騙したり傷付けたりしようなんて意図はないんですよ。本当に」


 吉永さんが心配そうな表情でそう言った。

 それは真実だろうと私は思った。


「はい。大丈夫です」

「明日は7時半に迎えに参ります。今日お二人にお待ち頂いた場所までお送りしますので、7時半に出られるように起きてください」

「分かりました。7時半、ですね」

「はい。何か他にご質問はありますか?」

「いいえ。お役に立てるよう頑張ります」


 私は吉永さんにお辞儀する。


「んじゃ、頑張ってね〜」


 手を振るナツホに、私も手を振り返す。

 ぱたん、とドアが閉まる。

 少し間を置いて、控え目なエンジンの音が聞こえ、やがて遠ざかって聞こえなくなった。


 あたりが、しん、と静かになった。


 私はその静けさに耐えられなくて、なんだか急いでテレビを付けた。

 一度は音量を大きめにしてみたが、この家の旦那様のノックが聞こえなかったらいけないと思い直し、複数のお笑い芸人の人たちが雛壇ひなだんに並ぶバラエティ番組の音量を小さくした。

 途中からだからか、出演者の力不足か、私のコンディションなのか、どうも内容が頭に入って来なくてチャンネルを変えて他の番組も観てみたが、どの番組も私の眼の表面を滑って落ちてゆくだけで、私のどこか落ち着かない心地を解消するには至らなかった。


 そう言えば、wifiが使えるんだっけ。


 私はスマートフォンを取り出して設定画面からこの部屋のwifiに繋ごうと試み、二回のミスの打ち直しの後、無事に通信量を気にしないで済むネット環境を手に入れた。


 だがそれでも結果はテレビと同じだった。Youtube、Twitter、Googleニュースのピックアップ……いつもなら幾らでも観ていられるwebコンテンツたちも、今日は軒並み精彩を欠いて、全くその仕事をしてはくれなかった。


 着替えよ……。


 時計を見れば午後9時半。

 取り敢えずいつも寝巻きに使ってるコットンの七分袖と七分丈の上下をバッグから出し、着替えてユニットバスで歯を磨く。お風呂は自分の家で入って来た。トイレは仕方ないにしても流石にシャワーを使う気にはならなかった。


 そういや、「旦那様」はどこで歯を磨くんだろ。


 あ、そうか。二世帯住宅だからもう一つ洗面所があんのかな……。


 うがいをしながらぼんやりとそんなことを考えていた私だったが、うがいを終え、新品の感触タオルで口元を拭きながら鏡の自分と目が合った時、あることに気づいてハッとなった。


「ちょっと待って……二世帯住宅?」

 思わず声に出してそう言った。


 私は寝巻きのままドアを開けて廊下に出た。


 L字に曲がって玄関。ノーマル・ロックウェルのリトグラフ。それ以外に引き戸も、ドアも、階段もない。


 あの玄関は、私が寝るあのホテルの一室のような部屋に出入りするためだけの玄関なのだ。


 え、なに……どういうこと?


 釈然としない気持ちで自分の部屋に戻り、ばふっ、と音を立ててベッドに倒れ込む。


 なんなのこの家。普通の二世帯住宅じゃない。だってこっちに住む人、あっちのリビングとかに行くのに玄関から靴履いて出ないと行けないじゃん。めっちゃ不便。そんな間取りにする? 普通。

 それにこの部屋だって、完全にお客さんに泊まって貰うためってだけの……え?


 嘘。

 でも。


 そんな、まさか。


 これじゃあまるで……。


 これじゃあまるで……


 ……みたいな……。



 その時、ベッドの脇の小さな引き戸から二度、ノックの音がした。

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