パトリシア(中編)

「アスノちゃんは、僕に会いに来てくれたって事でいいのかな?」

 ご注文の品がお揃いになったところで、アキラさんが言った。こくりと頷いたあたしに、彼は「僕を思い出してくれて、ありがとう」と言った。

 こんな穏やかな時間は、いつぶりだろう。

 ヨウヘイの事故の日から、あたしはずっと泣いてばかりだ。警察からの電話で泣いて、病院の待合室で泣いて、ヨウヘイの顔を見て泣いた。お医者様の話の時も、唇を噛んで黙っているヨウヘイの隣で、泣いた。

「アスノちゃんは、まだヨウヘイくんの事が好きなんだね。参ったなぁ。食べちゃおうかな、って思ってたのに」

 凄まじい衝撃発言に、あたしはあやうく手にしていたフォークを取り落とすところだった。

「だってこの界隈、そういうものでしょ。もちろんそうでない人もいるけど、女を食う為にバンドやってるケダモノなんて、別に珍しくないじゃない」

 確かに、よくある話だ。トリックトラックは部活みたいな空気だったし、そもそもスタッフ全員がメンバーの彼女だったから、そういうのは遠い世界の話だったけれど……そもそも、うちはスタッフを一対一で他所のバンドメンバーと喋らせなかった。それはトラブル防止の為だと言って、ヨウヘイが決めたルール。ヨウヘイは、あたしたちを守ろうとしていたんだ。

「なのに、裏側を見てきたはずのアスノちゃんが、無防備に『予定ないんです』なんて言うから。てっきりその気で来たのかと思って、ただ帰すのも悪いかなってさ」

「ち、違います……あたしは、ただ」

 そう、あたしはただ、ヨウヘイの話がしたかっただけなんだ。アキラさんに「ヨウヘイくんの指は凄いね、独立した生き物みたいだ。妬けるよ」って、もう一度言って欲しかっただけ。

「ずっと、ヨウヘイくんに守られてたんだね。だからアスノちゃんもずっと、ヨウヘイくんしか見えてなかったわけだ。妬けちゃうね」

 アキラさんが笑う。そうかもしれない、あたしはずっと……制服を着ていたあの頃から、ヨウヘイしか見えてなかった。

 ――離れたくなんか、ない。

 だけどヨウヘイはもう、あたしが邪魔なのかもしれない。だからわざと怒らせるようなことばかりして、あたしが別れを切り出すのを待っていたのかもしれない……。

 あたしはきっと、泣きそうな顔をしていたんだろう。アキラさんが「とりあえず食べちゃって。ここを出たら、もっと気兼ねなく話せるところに移ろうか」と言った。そうですね、そうしましょう。それがどこかはあえて問わず、あたしは掻き込むようにしてランチセットを完食した。

 あたしの分のランチ代をアキラさんは受け取ってくれず、結局は奢って貰った。ラパンはするすると裏道を走り、気付けば洒落たホテルの駐車場にいた。案の定だ。

「何もしない、約束する。大声を出して泣いてもいい場所、他に思いつかなかったんだ」

 アキラさんの手が、優しくあたしの背を撫でた。そうですね、そうですよね。あたしは頷いて、着いて行った。


 アキラさんは本当に、あたしに何もしなかった。

 あたしたちがラブホテルの部屋で二人きりになって過ごした時間は、アキラさんがあたしに渡そうと持って来ていたDVDを大画面で流しながら二人で泣き叫ぶという、超絶カオスな時間だった。

 アキラさんのDVDは、福岡ライブの時のものだった。ケスクセのスタッフが撮影した、全出演バンドのステージ映像。最高に格好良いヨウヘイが、楽しくてたまらない顔をしているトリックトラックのみんなが、その画面の中にいた。

「僕は、本気でヨウヘイくんに嫉妬してたんだよ。だから残念だ、本当に残念だ……」

 どうやらずっと我慢していたらしいアキラさんが、あたしよりも凄い勢いで、泣いた。

 ギター弾きがバイクなんか乗んじゃねえよ!

 雨の日にコケるとか、何やってんだよ!

 お前の指、俺によこせよ。俺によこせよ!

 俺の欲しい全てを持ってたくせに!

 自分でダメにして、腐ってんじゃねえ!

 あたしとアキラさんは、画面の中のヨウヘイに向かって、延々と泣き喚いた。


 あたしはアキラさんに抱きしめられていた。服は着ている。どうやら泣き疲れて眠っていたみたいだ。時計を見ると、十七時半を回っていた。

「アキラさん、起きて下さい。もうすぐフリータイム終わりますよ」

「……えっと、夕方か。顔洗っておいで……ちょっと、クニヤに電話する」

 洗面所で顔を洗っていると、アキラさんの声が響いてくる。店に行ってもいいか、というような事を聞いているのがわかった。


「クニヤが今日は店に出るらしいから、そこで話そう。許可は貰ったから大丈夫」

 お化粧を終えたあたしに、アキラさんはスマホをひらひらとかざしながら言った。お店って、何だろう。そこで話すと言うのなら、飲食店だろうか。

「お酒は飲める?」

「あ、はい。お店って、居酒屋とかですか?」

「二丁目のゲイバー」

 えっ、と言いかけて、飲み込んだ。そこで必要以上にうろたえるのは、何某かの偏見を持っているみたいじゃないか。自分でも気付いていない偏見はあるのかもしれないけれど、それを知られても平気だなんて開き直るほど、あたしは恥知らずじゃない。相手を傷付けるような振る舞いは、できるだけ、したくない。

「本当は今日は行っちゃダメな日なんだけど、ケスクセのファンが福岡から会いに来てるって言ったら、ママがオッケーしてくれたって」

 ファンにされてる。いや好きだけど、ケスクセの曲。のびやかで、心の内側から何かがふわりと外に向かって広がっていくような、そんな曲ばかりで。だけどわざわざ遠征するほど、ケスクセのことを知ってるわけじゃないよ?

「僕はよく行くから常連さんたちとも仲良いし、本当に気にしないでいいからね」

 わかりましたと頷いてはみたものの、どうしよう、で頭がいっぱいだった。だって本当は行っちゃいけない日なんだよね。あたし、完全に迷惑じゃん。でも行きたくないって言うのも違うよなぁ……既に打診してオッケーが出てるのなら、それをあたしから断るのも変だろう。クニヤさんには会いたいし、そういうお店に行くこと自体に抵抗はない。ただ、その場所を大切にしている人たちを、あたしが訪ねることで不快にさせたくない……本当に、ただそれだけのことなんだ。

 しばらく考えて、顔を出して挨拶してすぐ帰ればいいか、という事にした。あまり露出が高いと嫌がられるかなと、羽織っていたジャケットのボタンを留めた。

 一旦アキラさんのマンションに寄って、ラパンを駐車場に置いてから、電車で移動することにした。現在地はよくわからないけど、こんな人だらけの街で生活するの、あたしは絶対無理だなぁ。田舎者丸出しのあたしを見て、アキラさんは手を繋いでくれた。

 連れられるままに移動して、雑居ビルの四階にあるそのお店へ行った。店内には常連さんらしいカップルが二組カウンター席にいて、カウンターの中にはクニヤさんと、もう一人かわいらしい感じの男の人がいた。ちょっとオザケンに似ている。

「いらっしゃーい、その子?」

「そう、ケスクセの福岡ファン第一号。いじめないでね」

「やだなー、僕いつも優しいでしょー?」

 そのオザケン氏は、あたしたちに手招きをした。どうやらカウンター席の中央に座れという事らしい。こりゃ朝まで帰してもらえないなー、と両サイドのカップルさんたちが爆笑した。

 すみませんお邪魔しますはじめまして、と言いながら指差された席に座ると、クニヤさんが必死に笑いをかみ殺している。笑い事じゃない。

「あんた名前は?」

「アスノといいます」

「覚えにくい! あんた今日からパトリシアね!」

「えっ」

 セシルカットなんだからパトリシアでいいでしょ、とオザケン氏が笑う。意味がわからずぽかんとしていると、アキラさんが「ジーン・セバーグだね」と言った。ああ、映画の役名か。

「僕たちのバンド名もこいつが付けたんだよ、ケスクセはパトリシアのセリフ」

「わざわざ飛行機で会いに来るくらいのファンになら、この名前あげてもいいよね?」

「あっ……」

 思わず否定の言葉を口にしそうになって、あたしは口ごもった。ごめんなさい、あたしはケスクセの追っかけじゃないんです。たった一度、ライブをご一緒させて頂いただけなんです。場の雰囲気を壊したくなくて、何も言えない。

 何かを察したのか、クニヤさんがそーだ、と明るい声を出した。

「アス……パトリシア、ヨウヘイくん元気? トリックトラックのみんなはどうしてる?」

 明るい話題になりようもない名前を出され、アキラさんが慌てて「クニヤ待って!」と絶叫した。

「なーに? なんか楽しそうじゃなーい?」

 オザケン氏が放っておくわけもなく、あたしの事情はアキラさんの口から暴露される事になった。


 オザケン氏も、常連のお兄さんたちも、みんな親身になって話を聞いてくれた。アキラさんが一通りの事情を説明し終えると、オザケン氏――源氏名は「マリーちゃん」らしいのだけど、そのマリーちゃんは、カウンター越しにあたしの手をぎゅっと握った。

「あんた苦労してんだね、パトリシア。でもそんな男ロクなもんじゃないよ、こっちから捨てちまいなよ!」

「そうだよねぇ、傍にいてくれる人の大切さに気付かない男はダメだね」

 左隣に座っていたメガネのお兄さんが、同情するようにあたしへチョコレートをくれた。おいしいです。

「でもちょっとわかるな、腐ってる時に優しい人がいると歪んじゃう感じ。あんまり眩しくて、つい困らせたくなるんだね。それでも俺を好きなんだろうって、確かめ続けたくなる」

 右側の、アキラさんの隣に座っていたマッチョ系のお兄さんが、サングラスをかけたり外したりして遊んでいる。その奥に座っていた細身の男の子――たぶんまだ十代か、二十歳になりたてくらいの――その綺麗な子が、パトリシア、とあたしの名前を呼んだ。

「それでも、パトリシアはその腐れギタリストが好きなんだよね?」

「腐れギタリスト!」

 あたし以外の全員が爆笑している。ヨウヘイ、あんたこんな事言われてるよ。こんなことでいいの、見返してやらなくていいの……ねぇ、ヨウヘイ。俺は誰より格好良いギタリストになるよって、言ったじゃない。

「マイペースでいけばいいのさ、せっかくいい名前を貰ったんだから」

 メガネのお兄さんの奥に座っていたリーマン風のおじさんが、あたしに向かってニッコリと笑いかけた。

「他人が何て言おうと、傍から見て不幸そうだろうと、自分の幸せを決めるのは自分自身なんだから。自分の幸せの基準を、他人に委ねちゃダメだよ」

 そのおじさんの言葉に、クニヤさんが深く頷いた。

「パトリシア、僕らがその腐れギタリストをけなすのは、みんなあんたを応援してるからなんだよ?」

 マリーちゃんはそう言って、あたしにアイスティーを奢ってくれた。


 その後はケスクセのライブの話や、トリックトラックの話なんかをした。あたしとヨウヘイがケスクセの二人と一緒に撮った写真を見せると、さっきまで腐れギタリスト呼ばわりしていたマリーちゃんが「やだ! こいつ可愛いじゃん!」と頬を赤らめて叫んだ。あ、タイプだったんだ……そんなマリーちゃんがちょっと可愛かったから「機会があれば連れて来ますね」と言ってみると、クニヤさんが「仲直りして一緒においでね」と言って笑った。

 そうやって二時間くらいお話をしたところで、あたしは帰ることにした。週末のこの人たちの時間を、あまり長く邪魔するのは本意ではない。料金を払おうとすると、マリーちゃんが「クニヤから貰っとくから、気にしないでー」と言った。

 みんなは「パトリシアちゃんまたねー」って、笑顔で手を振ってくれた。少しだけ仲間に入れてもらえたみたいで、嬉しかった。きっと二度と会わないであろうこの人たちに、あたしは「ありがとうございました! それではまた!」と手を振り返して、アキラさんと一緒に階段を下りていった。


 アキラさんと一緒に、駅まで歩く。華やかな喧騒の中、はぐれないように手を繋いだ。

「送るよ。どこに泊まるの?」

「適当にネカフェでも行こうかと。ファミレスだと追い出されちゃいますもんね」

 あたしの返答に、アキラさんは渋い顔をした。

「女の子が一人でネカフェなんて、さすがに放って帰れないよ。僕の家に来なさい、どうせ話し足りないだろ?」

 問答無用と言わんばかりに腕を掴まれ、通りでタクシーに押し込まれた。そしてそのまま当然のように、シモキタまで、とアキラさんは告げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る