第8-1話『眼のなかの雪』

 午後の授業は結局さぼってしまった。

 保健室のベッドで天井を見つめてしばらく、隣で起きたばかりの身体を猫のように伸ばす養護教諭に許可を取り早退した。


 門を潜れば、五月に近づいていく風が独りぼっちの肌を滑っていく。


 1日1日が緩やかに蝕まれていく。


 翠の胸に暗い影が落ちた。


 もう彼女には余裕というものがなかった。


 耳が痛い。スマホの音量を最大まで上げて現実ノイズを遮断する。


 ボーカロイドの無機質な声は、空っぽな自分の代わりをしてくれる。いまは多分どんな感情的な音も意味を成さなくて、弾痕だらけのこころから零れるだけ。


 気を紛らわすために、知らず家とは逆の道のりを歩いていた。


 遠くへいきたい。


 のらくらり、地面を走る電車に揺れて、意味もなく景色を眺める。

 人数はまばらで、乗客のほとんどは画面に夢中、顔を上げているのは翠だけだ。


 他人をよく見るようになった。だって翠にはスマホを見つめたところで通知のひとつもない。だからわざわざカバンに手を伸ばすことはない。


 名前も知らない誰かの切り抜き、それを呆然と眺める。本を読むひと、友達と話をさかせる小学生、又聞きに知る誰某だれそれの風評。こんな小さな箱のなかでお行儀よく座る彼らの世界は、両手に収まる範囲だけ。


 降り立ったのは知らない街。Suicaの残高が心もとなくなっていた。


 生ぬるい風が襟先を湿らせる。真上まで伸びた陽光を指で閉じて、歩道にでる。


 幅の広い道路に比べて雑居のビルの立ち並ぶ通りは、それ以上で何もない。


 本屋に、お好み、呉服店。まばらに見える店にひとの気配はなく、使い古された街並だ。コンビニより多い美容院。石畳の続く線路。


 知らない街なのに、予想がついてしまう風景。それが広島という街の限界だ。


「なにやってんだろ、あたし」


 昼間のことを思い出して、ため息をついた。


 先生はああいってたけど、翠にはわからなかった。


 じっくりしている余裕なんて、いまの彼女にはなかった。


 明日さえおぼつかない現状からさらに未来のことなんて、考えるまでもない。


 一通り歩いた。いくつか気になった店はあったが、入るまでには至らない。


 ようやく立ち寄った本屋でさえ、今しがた出てきたところだ。

 買うものなんてない。そもそも財布にあるのは、自分のものですらない。


 帰ろう、そう思い立ったは良いが足がフラついた。

 咄嗟に道の脇に逸れてあらぬ方向に身を任せる。


「—————っ」


 嫌だ、帰れない。帰りたくない。


 さっきから変だ。今日はすこし……、変だ。

 家を想像して思い出すのは、昨夜の父へのこと。あそこは嫌だ。ひとりになりたい。


 怖いんだ。家でさえも孤立していくことがとてつもなく怖い。

 でも、明るく振る舞うにはどうしても余裕が足りなかった。


「だからって、どうしろっていうのよ……」


 ひとに会いたくない。周りの視線が集まっている気がした。足早にその場を離れる。誰に見られるわけでもないのに。


 こんな自分を見られたくなかった。ひとのいないところへいないところへ、ずんずん足をすすめていく。


 横脇に霞む、男女の親しげな表情。友達同士、距離を並べて自転車を漕ぐ学生群。

 どれも翠にはないものだ。その光景がたまらなく切ない。


 足早はしまい、奔りになった。


 逃げたい。何もかもから逃げ出してしまいたい。


 そんな時だ。私が"それ"に出会ったのは。


 通り裏、迂回するように住宅街を抜けた角の大きなガラス窓。

 そこから見えた一幅いっぷくの絵画が翠の脚を止めた。瞬間、翠の世界はその一点に集中する。


 通行人が怪訝そうにこちらを眺めるのも、今の翠には入らない。


 見開く、というのはこういったことを言うのだろう。


 首すじから汗が伝う。それすらも気づかない。瞳の揺れは、きっと驚愕を表している。

 知らず、唇が震えた。


 何がそんなに気になるのか、翠自身もわからなかった。


 たまたま目に入っただけの絵画に、どうして心奪われるのか。そんな問いすら浮かべて立ち尽くしていた。


 カランっ、と乾いた音が響く。翠がそこに佇んでどのくらい経ったか。気づけば、陽は朱く空を覆って、遠目からカラスの声がする。


 みれば、気の良さそうな貴婦人がふたり、紅茶の香りを連れて店を出るところだった。

 そのまま尽きぬ会話の花を片手に翠の横を通り過ぎていく。満足げに目尻を上げるその姿を呆然と眺め、視線を扉に向けた。


 不意に脚が動く。考えるまえに、体が動いていた。


 もっと近くで、あの絵をみていたい。


 なんとなく、そうしなければならない気がした。感情が急くように胸を圧迫する。


 カランっ、先ほどと同じ音を立ててカウベルが鳴く。


 かわいらしい音に反して、なかは静かだった。客は翠で最後らしい。


 チークを基調とした造は、やわらかい印象を与える。

 奥まで続くキッチンにカウンターとテーブル席。内装は至ってシンプルだ。

 差し込んだ茜色が誰もいない店内で、まっすぐに伸びている。


 なんだか悪いことしている気分になって、急に足がすくんだ。


 ガチャリ、と音がしたのはその時だった。

 カウンター横の扉から、エプロンを纏った女性が顔を出す。眠いのか、あくびをかいてのご登場に、お互いぱちくりと目を合わした。


「あれ? お客さん来てたんだ」


 ごめんね、と店員が片手を立てる。ちょっぴり悪びれのない、砕けた笑みだ。

 と、刹那その目がわずかに戸惑いを見せた。翠を見つめた途端、ほんの微かに眉がひくつく。もちろん、翠自身は気づかないほどの微細なものだ。


「もう閉めちゃいますか?」


 遠慮がちにつぶやいた翠の目は、何かを探しているようだった。だから、女性のなかのほんの少しの驚愕は翠が気づくことはなかった。


「……いいよ。さっきのお客さん、二時間くらい話し込んでたから。休憩とってただけなんだ」


 いらっしゃいませ、涼やかな声で女性が笑う。

 お好きなところへどうぞ、微笑む彼女にのせられて翠はカウンター席に腰掛けた。


「素敵なところですね」


 注文をミルクティーに決めて、女性店員が手早く湯を沸かす。


 あらためて周りを眺めると、壁のところどころに飾られた額縁がうつった。


 先ほどは気づかなかったが、飾られていたのはあれだけではなかったらしい。油絵、水彩、デジタルアート。ジャンルは様々であったが、完璧に店に溶け込んでいる。

 カフェというよりも、アトリエにきたような気分だ。


「すごい……」


 絵のことはよくわからない翠でも、感動を覚えるくらいひとつひとつがよくできた作品だということはわかる。


「ふふっ。そこにある絵、全部うちの弟が描いたんだよ」


 きょろきょろと目を往かせていた翠をみて、手はそのままに女性が応えた。


「弟さんですか……?」


「うん、今年で17の高校生」


 同い年、と内心で翠は驚いた。すると外で見かけた絵もそうなのだろうか。


 不思議と、翠を見つめる女性の瞳が少しだけ揺らいだような気がした。伏し目がちにポットの湯を注いでいく。


 ふわっとハーブの香りが沸き立ち、鮮やかな赤茶色が沁みる。夕焼けと同じ色だ。それを壁に取りそろえられたカップのひとつに注ぎ、仕上げに常温のミルクを加えれば完成だ。


「お待たせ」


 こつんっ、と温かい香りが目前に置かれる。


 けれどカップに翠の口が触れることはなかった。店員が顔を上げると、いつのまにか翠は席をたって窓側に立ち尽くしていた。


 店の正面、大きな一枚窓に背を向けて、ただ一点を見つめている。


 なんとなく、店員は声をかけるのを躊躇ためった。それでも、あんまり少女が微動だにしないものだから、さすがに心配に思いカウンターを出る。


 何にそんなに見入っているのか。むふふと企笑いで忍び寄り、ひょこっと顔を出して声をかけようとしたとき、


「……あ、――」と、息が漏れた。


 翠の横顔を見た途端、足が止まる。


 目線の先は少女と、一際大きな一本柱。そこあるは軒先で翠を止めた一枚絵。それに、少女は釘付けになっている。


 その瞳はなおも一点を見つめ、ぽたりと一筋、茜色の熱が滑っていく。


 一連のなかで、店員は静かに、肩を落とした。いったい、それは何に対する安堵なのか。傾いた陽は翠を照らす。


 そのときは自分の体に起きた異変に気づくのがやっとだった。なんで、ただ絵を見ていただけなのに。


 より近くでより鮮明に、その絵を見ていたかった。でも近づけば近づくほど、名前のない想いが胸を焦がして、ようやく頬の熱に気づいた時にはもうはち切れていた。


「あれ、おかしいな…っ。なんであたし——」


 どうして、泣いてるんだろう。


 投げかけた質問に応えるように、店員が少女の頭をそっと叩く。そのままゆっくりと自分のもとへ引き寄せて、やさしく包んだ。


 言葉はいらない。ぽんぽんっと背中を撫でれば、それが合図というように。


 涙が一線、また、一線、伝う。わけがわからなくて。猛烈な感情の起伏が翠を襲う。

 気づいたら咳き込むように後からあとから降ってきて。つっかえたものがとれるみたいに翠の頬を垂れていく。


 嗚咽が漏れた。大きくを息を吸って、何度も何度も啜り泣く。

 おかしい。泣いているはずなのに。悲しみなんて朽ちるほどあるのに。これは違う。


 いままで流したどんな涙よりも重くて優しい。


 決して翠を傷つけず、想いのままに流れていく。


 どうして。


 問うように投げた眼差しはやはり、目前の絵画だった。沈黙を貫くそれは、当然応えることはない。


 けれど。


 この感覚が間違っていないのならば、それはきっと、幸福というものなのだと、翠は抱かれる胸の中で確かに感じたのだった。

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