小さな勇者

 鬱蒼として薄暗い森の中をしばし駆ける。朝も思ったことであるが、この日は鳥がよく鳴いている。木々の揺れる音もどこか騒がしく、いつもと違う気配にイーサはほんの少し不安になる。

 自分もそうだが、カニーの身を案じる。森には、村の近くにも多くの危険は存在する。幸運にもこの村に野盗のたぐいが現れたことはないが、それでも野獣は恐ろしく、さらに魔獣と呼ばれる脅威も世にはあるという。

 イーサも物語に聞くばかりだが、それによれば屈強な兵隊さえも手を焼くという。ならば村の狩人には荷が重かろう、父親も例外ではない。

 イーサは頭を振る、そんなこと考えても仕方がない。今は川を目指して走るだけ。それだけに注力する。

 やがて森の奥に明かりが見えた。疲労から額に汗がにじむ、ゴールが見えたことで緊張も和らぎ足が遅くなる。一度止まって呼吸を整える、改めてゆっくりと歩みを再開すると川のせせらぎが聞こえるようだ。

 だが異変に気がつく。

 川の音にしては雑音が多い、というよりもそれは人の声のようだった。もしかすると誰か知らぬ人、それは盗賊のたぐいかも知れない。そう思い足を止めると、落ち葉についている“シミ”に目が止まった。


「雨なんて降ってたかな……」


 こういうときにこうした、どうでもいいことに気が取られたのはなに故か。イーサは身をかがめるとその水滴をようく見た。指先で手に取ると、それは“赤かった”。


「……え」


 鼓動が一つ早まった。胸騒ぎがする、彼女は気がつくと再び走り出していた。

 方向は森の奥、カニーの身を案じたのだ。人の声、そして地面に残っていた赤いシミ。

 それは点々と森の奥へと続いており、イーサの気持ちを逸らせた。

 奥に近づくに連れ、川の音と混ざり合っていたものがはっきりと聞き取れるようになってきた。


「――!」

「――、――」


 やはりそれは人の声。中身は聞き取れないが、なにか言い合っているようだ。ならばまだカニーは無事かも知れない。そうであってくれと願いイーサは走る。

 経年でくすんだミルク色のチュニックの裾をたくし上げ速度を上げた。

 やがて川へとたどり着いたとき、カニーは見慣れぬ三人組に囲まれていた。特にその内の一人は見たこともない身長の大男だった、カニーはおろか村の誰も敵わぬのではないか。

 しかし幼さから来る向こう見ずか、それとも蛮勇か。イーサはそれに向けて大声を発した。


「やめて! カニーさんから離れて――、きゃっ!」


 それらに夢中になるあまり、突き出た木の根につまずいて転んでしまった。顔から落ちたのでひどく痛い、鼻が焼けるようだ。しかしイーサは顔をキッと上げ見直す。

 だがそこにいたのは顔をキョトンとさせたカニーだった。


「イーサ、だったか?」

「なんだ、知り合いかい爺さん」


 カニーに話しかけていたのは茶髪の軽薄そうな男で、それに対しカニーは驚いた様子で反応する。


「ええ、村にいる娘でして……。ニルのところの子だったか」

「ありゃ鼻血が出てるよ」


 次に話したのは夕日のように明るいオレンジの長髪の女性で輪郭に沿ってたてがみのように毛が生えている、その特徴はイーサもよく知っており、彼女が初めて見るグリア人だった。

 母親がいまより幼いころによく読み聞かせてくれた物語ではいつも悪役で、畑を荒らしては懲らしめられていた。

 だが目の前にいる彼女はいたずらっぽく笑いながらイーサの身を案じて、布切れを差し出してきた。


「これで拭きなよ」

「あ、ありがとうございます……」


 軽薄そうな男がグリア人の女に話しかける。


「なんだよ、随分優しいじゃねえか」

「子供には優しくするものさ、そうすれば決まって親が礼をくれる」

「なるほど」


 それをイーサの前で話して良いのだろうか、そう思っている彼女はもうひとり、最後の一人に顔を向けた。

 それは目を見張るほど美しい、白銀の髪をなびかせた大男で、それもまたグリア人のようだった。


「ひやっ……」


 しかしその顔を見た途端、イーサは身を縮こまらせた。男の顔には血がついていたのだ、そこでもう一度カニーを見ると彼の服にも血の跡があるのに気がつく。


「カニーさん! その傷……」

「え? ああ、これか」


 だが袖を血に染めている割にしては、カニーはあっけらかんとしている。なぜだか理解できずにいると、こちらを落ち着かせるようにカニーが穏やかに話しかけた。


「なにか勘違いしているようだが、この人たちは私を助けてくれたんだよ」

「ふえ?」


 思わず間抜けな声が出た。鼻血をもらったもので拭きながらやっと立ち上がると、カニーが自らの後ろ付近を指差す。

 そこには一メートルにもなろう大きなイノシシが転がっていた。


「これに襲われてね、危なかったところにこの人が飛び込んできたんだ」


 カニーが言うのは白銀のグリア人だ。それは頭を掻きながら話し出す。


「まあ、たまたま目に入ったから……」

「はは、なんだ照れてんのか?」


 横にいた男が川に飛ばされた。


「実際どっちかというとイノシシを見て反応してたからな、こいつ。『昼飯だ!』とか言いながら」

「わはは、どっちでもいいさ。命を救われたことに変わりないのだから」


 カニーが豪快に笑い飛ばす。二人についていた血はイノシシの返り血だったようだ。それでようやっと自分の勘違いに気が付き、安堵とともに力が抜けてその場にへたり込んだ。

 追って羞恥がこみ上げ顔を抑えた。


「ご、ごめんなさい。私てっきり……」

「こういう勘違いには慣れているさ」

「前の村でも酷かったからな!」


 川から男が戻ってきた。


「殺人犯に仕立て上げられそうになったからな、熊の仕業だってのに!」

「え、酷い……!」


 素直に言葉を出すが、グリア人の男は気にもしていない風だった。


「他がどう思おうが勝手だよ」

「そう言いながら気にしてたくせに。『俺の顔はそんなに凶暴そうか?』とか」


 グリア人の女がからかう。


「な……!」

「あれ、気がついてないとでも? あたし耳は良いんだ」

「口は悪いけどな」


 細身の男がもう一度川に落ちていった。


「……ふふ」


 そんな軽い空気に、びくびくしていた自分が馬鹿らしくなったイーサは笑いだしてしまう。それを見たカニーが近寄ってきた。


「驚くよな、これがあのグリア人だってのだから」

「ええ、本当に」


 目にしたが最後、頭から丸呑みにされるとさえ教わってきたグリア人は絵本で見るよりもずっと“普通”で、思わず嬉しくなるイーサだった。


「ようしそれじゃあ村に戻ろうか。お三方はどうされるので?」

「かまどと鍋を貸してほしいな、これを煮て食べたいから」


 銀髪の男が軽々とイノシシの死体を持ち上げて言う。やはりグリア人は相当の力持ちのようだ。


「それは是非とも、家に来てくだされば幾らでも貸しますとも」

「じゃあお邪魔するよ」

「そういえばイーサはなにをしにここへ、私に用事でもあったのかい?」

「あ、はい。実はうちの石臼が――」


 そう話しながら五人は村へと戻っていった。

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