深夜、お風呂でするスベらない話

 どうしてこうなった。

 そう思わずにはいられなかった。


 現在地、自宅の脱衣所。視界は真っ暗闇。

 俺が考えていた当初の予定は風呂場に入って幼馴染と仲良く愛犬を丸洗いしながら和やかな会話をするだけの簡単な作業のはずだった。

 はずだったんだけど──。


「……いい大和? アンタは絶対に動かないでよ? 分かってるわよね? “絶対”に動いちゃ駄目なんだからね!?」

「分かったからそんな大声出して騒ぐなよ。耳がキンキンするだろ……」

「はぁ? 誰の声がうるさいってのよ!?」

「からむなよ。いいから少し落ち着け。騒いでたって停電は直らないぞ?」

「べつに騒いでないし!」


 姫光は威嚇いかくしている犬みたいに「うー」と唸り声をあげる。

 視界が暗闇に包まれただけで、どうして人はこうも情緒じょうちょが不安定になるのだろうか。


「もー……こんなタイミングで停電とかありえなんだけど。マジ最悪……」

 まぁ、厳密には停電じゃなくてブレーカーが落ちただけなんだけど。

「あーもー……なんでこんな事になったのよ……」


 原因は恐らく、電子レンジと洗濯機が回ってる状態で俺がドライヤーを使ったからだろう。

 一軒家とはいえ、電力を食う家電製品を同時に使えば電流が配電盤の許容範囲を超えてあっさりとブレーカーが落ちる。夏場はともかく、冬場は気を付けないと高頻度でブレーカーが落ちる。雪国の片田舎に住んでいる以上、我が家にとってこれは逃れられない命題である。


 まぁ、それはそれとして。

 今はこの状況をどうするかだ。

 はっきり言って心中が穏やかじゃない。

 暗闇。視界は悪い。ついでに言うと身体も動かせない。


 鼻腔びこうをくすぐる石鹸の香り。身体に伝わる人肌のぬくもり。腹部にかかる生々しい身体の重み。それらが俺の劣情を責め立てる。

 それは何故か?

 答えはこうだ。俺の上に姫光が馬乗りになっているから。


 しかも。

「とにかく、アンタはあたしが離れるまで絶対に指一本も動かさないでよね!?」

 暗くて良く見えないけど。

「今、あたし何にも着てないんだから……」

 どうやらそういう状況らしい。

 だからこそ俺は思う。

 どうしてこうなった、と。


「言っておくけど、これ振りとかじゃないからね!? アンタそこんとこちゃんと分かってるわよね!?」

「分かってるから、早く退けよ。お前が動かないと何も始まらないし変わらないだろ」

「言われなくても分かってるわよ……」


 姫光はゾンビの様な「うぅぅ……」といううめき声を発しながらモゾモゾとナマケモノ並のゆっくりとした動作で行動を始める。

 姫光が安全圏まで離れる間、俺は反省の意も込めて風呂場からの行動を回想する事にした。


「あはは。すごい、クロがせた」

 水に濡れた毛が身体にぺったりと張り付いて見た目がスリムになったクロ。それを見て姫光はケラケラと笑う。


「あんまりシャワーを顔まわりにかけるなよ? 目に水が入るとクロがビックリして風呂場が悲惨な事になるからな」

「だいじょーぶよ。あたしに任せなさいって」


 自信に満ちた言葉の通り姫光は器用な手つきでクロにシャワーをかける。

「……意外と上手いな」

「ふふん。とーぜんよ」

 工事現場の監督の様な気分で作業を見守っていたが、手際を見る限り、どうやら特に心配する事は無いようだ。


 というか、クロが目を細めて気持ち良さそうな表情を浮かべている。それを見ているとなんだか胸の内がモヤモヤとしてくる。

 俺がシャンプーしてる時はそんな夢見心地な顔したこと一度だってないのに……なんか凄く悔しい!


「この脚の白い部分が靴下みたいで可愛いのよねー」

 クロのチャームポイントを愛でながら姫光は陽気にクロのシャンプーを続ける。俺はそれを黙って見守る。

「やっぱりクロは可愛いわね」

「…………」


 お前も可愛いよ。

 明るい場所に出てから姫光の容姿を改めて見るとそんな気持ちを抱いてしまう。


 いや、姫光が可愛いのは昔から知ってたけど。なんていうか、こう大人っぽくなったというか。

 目のやり場に困る容姿になったと言うべきか。セクシャルアピールが強くなったと言えばいいのか。

 フランス人ハーフである母親の血を色濃く継いでいる恩恵だろうか、色白で健康的な美肌が浴室のライトに照らされてとても眩しい。


 はっきり言って今の姫光はとてもエロい。

 さっきからチラッと見える胸の谷間とショートパンツから伸びる生足が気になって仕方がない。おかげで姫光の言っている言葉が全然頭に入ってこない。


 薄手の肌着キャミソールにショートパンツのラフな格好。中腰の姿勢。しかも風呂場。

 今まで生きてきて姫光と一緒に浴室に入るなんて人生初の体験だ。愛犬が一緒とはいえ、こんな状況下で変な気分になるなと言う方が無理だ。

 本音を言うと今すぐ姫光と一緒にお風呂に入りたい。

 正直、理性を保つので精一杯だ。


「ほんとクロは良い子ね。大人しいからシャンプーが凄く捗るわね」

 俺の心中など露知らず、姫光はるんるん気分で黒い毛玉を泡まみれにしていく。俺はその様子を見て悶々とあらぬ妄想を膨らませる。

 妄想内容は諸事情により割愛させてもらう。


「……ねぇ、大和。さっきから黙ってるけどさ、なんか喋ってよ」

 姫光はボソボソと。

「アンタが黙ってばっかりだとなんか気不味い……」

 そう呟いた。言葉の通り気まずそうな表情を浮かべて。

 その顔を見て俺は瞬時に気持ちを切り替える。


「……急になんかって言われてもな。世間話とかスベらない話ができるほど俺はトーク力ないからな?」

 そんな事を言ってなんとか脳内から邪な気持ちを取り払う。おそらく今俺に求めらているのは紳士な対応だ。

「あんまり期待するなよ?」


 基本的に自分の方から話を振る事なんて無いし。姫光も含めて知り合いはみんなトークが上手い。上手いと言うか良く喋る。健も美夜子も。そのせいもあり、俺は相手の話を聞いて相槌を打つだけの会話に慣れてしまった。いわゆる『聞き役』というポジションだ。昔はそれで会話もある程度成り立っていたしコミュニケーションもそれなりに取れていた。

 でも今はそうじゃない。会話のキャッチボールどころか口を開く事すらままならない。

 自分のことなんて話したくない。それに仮に話したとしても面白くないだろう。俺の話なんて聞いて誰が得するんだよ。


「大丈夫よ。大和に面白い話なんて最初から期待してないから」

「……えっ、ああ。そうか……」

「そうよ。何でもいいから喋りなさいよ」

「何でも、か」

 それはそれでハードル高いんだけどな。


「そうだな……」

 何でもいいなら変に考える必要もないか。

「お前は最近どうなんだよ?」

 そして俺は自分の愚かさを再確認する。


「……ねぇ、大和。家出した相手に「最近どうなんだよ」って質問さ、普通する? そこは空気読むとこじゃないの?」

「えっ? ……あっ」

 声のトーンが若干下がった姫光の指摘にトークセンスどうのこうの以前にデリカシーとか配慮が欠けている事に気付かされる。


「……悪い。気が付かなかった」

 馬鹿か俺は、同じてつ踏んでどうすんだ。

 家出した人間の近状なんて悪いに決まってるのに。

 もろに地雷踏んでんじゃねーか。俺、会話のマインスイーパー下手くそ過ぎだろ。


 俺が後悔の念にさいなまされていると姫光はふぅ、と溜息を吐く。


「べつにいいわよ。何でもって言ったのあたしだし」

 取りつくろう様に俺は言う。

「よかったらさ、家出の理由聞かせてくれよ」

「…………」

 姫光はいぶかしむ様に目を細めてジトーっと俺を見やる。いかにも「今頃になってそれくの? 遅くない?」と言いたげな顔だった。


「……悪い、訊くなら最初のうちに訊くべきだったな」

「ホントそれよ」

「そのさ、お前が嫌じゃなかったらでいいから話してくれよ」

「……ほとんど愚痴になるけどそれでもいいの?」

「ああ、こっちも聞くだけで何の役にも立てそうにないからな。そこらへんはあんま気にすんな」

 それに、と俺は言葉を続ける。

「愚痴を言うだけでも結構スッキリすることだってあるしな」

「……そっか。そうだよね」


 姫光は納得した様子で「うん。分かった」と小さく頷く。

 そんなやり取りがあって俺は姫光の家出した理由を訊くだけ聞いてやる事にした。


「最近さ、家にあたしの居場所がないんだよね」

 愚痴話の出だしはそんな言葉だった。

「居場所がないって言うよりかは肩身がせまいって表現が近いと思うんだけど。なんていうかさ、家に居辛いんだよね」


 俺が感じた話の第一印象は姫光にしてはらしくない悩み事だと思った。

「居辛い? 家族の誰かと喧嘩したのか?」

「いや、それもあるけど。それだけじゃないっていうか、発端というか原因が他にあるっていうか……」


 俺の質問に歯切れの悪い返しをする姫光。顔を見ると言い辛いのか困っている様な表情を浮かべていた。

「言い辛いなら無理に話さなくてもいいぞ?」

 俺がそう言うと姫光は首を横に振り否定の意思を示した。

「言い辛いわけじゃなくて……なんて言うのかな、自分の気持ちを上手く言葉で表現出来なくてさ。あたし今すっごくモヤモヤしてる」

「モヤモヤ? 愚痴なら吐き出せよ」

「うーん。愚痴は愚痴なんだけど相手に対してだけの愚痴じゃなくて自分に対しての愚痴もあるって言えばいいのかな? こういう時はなんて言えばいいんだろ……」


 自分の頭の中をこねくり回しているのか、姫光はウンウンと唸りながら泡だらけのクロにシャワーをかける。

「考えたいならシャワー変わるぞ?」

「ん。後は任せる」


 姫光と立ち位置ポジションを交代してクロに付いている残りの泡をシャワーで流していく。姫光はぼんやりと俺の作業を見守る。


 姫光にしては珍しく、考える仕草が目につく。昔なら愚痴を言う時は感情に任せて言いたい事をペラペラと機関銃マシンガンごとく喋っていたけど。


 姫光の家出理由、か。

 前の時、中二の秋は確か学校の成績(二学期中間テスト)がかんばしくなくて(半数が三十点くらい)それを親父さんに叱責されたのに腹を立てて家を飛び出したんだったかな。


 まぁ、あの家出は早々に見つかって結局、未遂みすいで終わったけど。

『あたしだって頑張ってるのよ。なのにパパはそれを分かってくれない。あたしのことテストの点数だけで勝手に判断してる』

 それが凄く嫌だって見つけた時姫光はそう言っていた。

 今回も親父さんがらみの案件なのだろうか?


「喧嘩した相手は親父さんか? それとも大智たいちの方か?」

 俺がそう質問すると姫光はポツリと返す。

「ううん、違う。喧嘩したのは大輔だいすけとなんだ」

「えっ? 大輔さんなのか?」

 意外な答えが返ってきて俺は少しばかり驚く。


 姫光には二人の兄がいる。四歳年上の長男、姫川大輔と姫光と同じ日に生まれ姫光と双子の兄妹である次男の姫川大智。


 姫川家は世間的に珍しい男女の双子がいる三人兄妹と姫川夫妻を含めた五人家族になる。


「お前が大輔さんと喧嘩するなんて意外だな」

「……そっか、そういえばアンタは大輔が結婚したの知らないんだっけ?」

「はぁ? 結婚? 大輔さんが?」


 驚きに次ぐ驚きで口から変な声が出る。

「ああ、やっぱり知らなかったんだ。まぁ、そうよね。もう近所じゃなくなったし話す機会もないから知らなくて当たり前なんだけど」


 唐突に語られた反応に困る話に俺は軽くパニックを起こす。

「お、おう。その……何て言うか、おめでとうございます?」

「そういうのは結婚した本人に言ってよね。でもまぁ、ありがと」


 そうか、大輔さん結婚したんだ。まぁ、二十歳ハタチなら別に結婚しても不思議じゃない歳だけど。

「…………」

 いや、待て。

 大輔さんが結婚したという事は当然パートナーの女性がいる。

 家に居辛い。自分の居場所がない。それはつまり──。


「……もしかして義姉おねえさんと上手くいってないのか? なら、大輔さんとの喧嘩はそれが原因なのか?」

「…………」

 姫光はフッと目を伏せてコクリと頷く。

「うん。大体そんな感じ」

 語り口と共に姫光のまとう空気に悲しみの色が現れ始める。


「まぁ、大輔の気持ちは分かるのよ。お腹に子供がいる奥さんに気を遣ってやれって言い分は旦那なら当たり前の思考だし、それは理解できるのよ」

「…………」

 今サラッと聞き流せない単語が出たな?

 お腹に子供? 大輔さんもしかしてデキ婚なのか?

 いや、でもそれは突っ込むべきじゃないよな? 話の腰折りかねないし。


「でもさ、もう少しあたしにも気を回して欲しいっていうか。家族のことないがしろにするのは違うんじゃないの? って思ってさ……」


 姫光の声は今にも泣き出しそうなほど震えていた。

「だからさ、あたし大輔に言ったんだ。『家に居辛いから一人暮らししたい』って。そう言ったら「我慢しろ」って怒られちゃった」


 自嘲気味に姫光は言う。乾いた笑いを浮かべて。


「最近家に帰る時間も遅くなってちょくちょく門限過ぎてたし、多分それもあったのかも」

「……そうか、話の本筋は大体理解できたよ。確かにそれは居辛いよな」


 理由はおおむね理解できた。姫光が何に悩んでいるのかも。

 けど、姫光の悩みを解決できる具体的な方法が見つからない。

 いや、あるにはあるんだよ。

 姫光が我慢すればその問題は解決できる。おそらくそれは姫光自身もちゃんと理解している。だけど、それが出来ないから悩んでいるし家出に踏み切ったのだろう。

 家庭の問題。なら、頼るべきは──。


「その事、他の家族には相談したのか?」

 俺の問い掛けに姫光は「ううん」と否定の言葉を返す。

「パパとママは仕事でフランスに海外赴任中で家に居ないのよ。ちょうど大輔の結婚と入れ違いになる形で三月の下旬から、ね」

「そうか、大智には相談したのか?」

「……ほら、やっぱり忘れてる」

「忘れてる? 何を?」

「大智が県外にある寮制の私立高校に進学したことよ」

「……ああ、そういえば、そうだったな」


 健がたまに大智の事話してたけど、ほとんど聞き流してたからすっかりその事を忘れてた。

 絶交した相手の近状なんて一々把握するのも面倒だし。


「そんな事、どうでもいいから忘れてた」

「…………」

 無言で俺の顔を見る姫光。なんというか視線がとても粘着質だ。

「何だ? どうかしたか?」

「べつに、なんでもない」

 プイとそっぽを向く姫光。

「……ほんと、男は面倒臭いわね」

 姫光はぶつぶつとそんな事をボヤく。

 お前には言われたくねーよ。と、喉元まで出かかった言葉を引っ込める。


 まぁ、今は俺の事より姫光の事の方が先決だ。

 この会話で姫光の置かれている立場は理解できた。兄嫁との不仲。家族の不在により相談できる相手がいない状況。三月下旬からそんな環境に身を置いていたのなら約二ヶ月近く我慢していた事になる。


 大輔さんとの喧嘩で溜まっていたモヤモヤが一気に爆発したのだろう。

 気持ちは分かる。100パーセントは理解できなくても、ある程度は姫光の心情を理解してやれると思う。

 家出の経験者として。

 家出する理由なんて家に居たく無いからに決まっている。

 出来ることなら悩みを解決してやりたい。そう思う。

 思うけど、やはり俺には愚痴を聞いてやる以外何も出来ない。

 他所様の家庭事情に口を挟む権利なんて俺には無いのだから。


 それに。

 それは姫光が自分の力で乗り越えなければいけない壁だと思うから。

「クシュン!」

 沈んでいた場の空気を切り裂く唐突なくしゃみ。音がする方に視線を向ければそこには墨汁が付いた筆みたいにしっとりと濡れた犬がいた。

 姫光との会話でその存在をすっかりと失念していたクロである。


「ワフッ」

 ブルブルと。

 身体についた水分と一緒に場の空気を振り払う様にクロはビシャビシャと辺りに水滴をき散らす。

「あはは、こらっクロ。ブルブルしちゃ駄目でしょ。もー」

 姫光は水しぶきを浴びてケラケラと明るく笑う。

「あはは、凄い。クロがモップみたいになった」

 さっきまで気持ちが沈んでいたとは思えないほど、良い笑顔だった。

 多少は気分が晴れたのだろう。

 それなら、もう俺に出来ることは残って無い。


 そう思っていたら。

 キュルル、と可愛らしい小動物のような鳴き声に似た腹の音が俺の耳に届いた。

 音のする方に視線を向ける。そこには、羞恥に頬を染めた幼馴染の姿があった。


「しょうがないじゃん。夜ご飯食べる前に家出たんだから……」

 まだ何も訊いてないのに姫光はそんな言い訳をする。

 どうやら、俺に出来る事がまだ残っていたようだ。

「……エビピラフとチャーハンどっちが食いたい?」

「……大和が作るの?」

「まさか、冷凍に決まってんだろ」

「なんだ、料理作れるようになったのかと思った」

「お前は俺に何を期待してるんだよ。で、どっちが食いたい?」

「んー、エビピラフ」

「了解。クロのシャンプー終わったし用意するから待ってろ」

「あのさ……大和」

 姫光はモジモジと身をよじりながらモニョモニョと言い辛そうに口籠る。


 てっきりお礼でも言われるのかと思って「どうした?」と何となく訊き返すと予想外の答えが返ってきた。


「あ、あたしもお風呂入りたいんだけど……」

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