ささやかなロジック
「むっちゃん、なんか恨まれることでもしたんじゃないか?」
「してません! というかですね、これに害意とかはないと思いますよ」
にわかには信じられない。この九文字が何らかのメッセージであるとしても、他人のノートに書きつける理由がない。伝えたい内容があるのならメールやLINEをするなり電話を架けるなりすれば事足りる。郁子香の連絡先を知らないとしても、ルーズリーフなどを机に入れればいいわけで、敢えてノートにメッセージを残す理由がない。
差出人をわからなくして匿名で、特定個人に対して文言を送る、それも直接内容を書かずに暗号化して。そんな七面倒臭いことをする必然性があるとも思えない。
「いたずらにしては手が込みすぎている。もっと単純に教科書切り裂くとか落書きするとかでいいだろ。なら、これは意味のある言葉だ」
「何らかのメッセージであるのは確かでしょうね」
「けどそう仮定しても暗号にしなくてもいいだろ。じかに言いたいことを書きこめばいい。他人のノートを開く奴なんていないだろうから第三者が目にする心配もないだろうに」
「なぜ暗号にしなければならなかったか、それはひとつのポイントでしょう」
「俺は、そこに厭らしさを感じるんだよ。困らせてやろうという、ねっちこい悪意めいたものを感じる。そのページを切らない限りずっと目にするわけだ。赤なんて派手な色なら、ページを捲る度に目に飛びこんでくる。最初にぎょっとした感情がその都度思い出されるなんて最悪だろ。怖がらせてやろう、不気味がらせてやろうって意図が透けて見えるわ」
「考えすぎ。そのページちぎれば済むでしょ」
「あ、それで気づいたんだけど今日板書どうしたの?」
「大丈夫。ルーズリーフ使ったんでご心配なく。一応証拠ですからね。手を加えるわけにもいきませんから」
「それって無駄な手間を取らせたってことだろ。やっぱり悪意が……」
郁子香がやれやれといった感じで息を吐く。それから今やっと寒さを思い出したかというように、手を摺り合わせると、パイプ椅子に座りスカートの上から両てのひらを太ももの間に挿しいれた。
「レイ
うつむいた姿勢になった郁子香が不満げにつぶやく。
肩が落ちて背中が丸まっているのは手の位置のせいだとは理解しても、そうしていると幼いころのふくれっ面が思い起こされた。
「そういうわけではないけど。赤文字ってのがな」
「赤文字だからこそ害意はないのです」
顔を上げ、一転して目をかがやかせる郁子香。
「なぜ、新しいページに書かなけばならなかったのでしょうか」
「それは、読めるようにだろ」
「赤、それも太マジックなのに? 悪意を持っている人間がやったと想像してください。そうですね、メッセージの内容はなんでもいいんですけど、たとえば、警告の文言だとしましょう」
「こんや12じだれかがしぬ、みたいな?」
「そう。警告の言葉を書く、それも犯人は悪意を持った人間、そこには脅迫めいた意味合いが生じるでしょう。さて、そんな人間がご丁寧に新しいページを開いてくれるでしょうか」
「脅迫だとしても通じなきゃ意味ないんだし、そりゃ読めるとこに書くだろ」
「相手が嫌がることをしてはいけない、それは社会通念としては正しいです。けれど、悪意ないしは敵意を持った人間の行為と仮定した場合、そんな常識は通用しません。むしろその種の手合は、より相手を困らせてやろうとするんじゃないでしょうか。文字は読める必要がある、しかし相手を慮る気はない。そんな人間がメッセージを書くのにうってつけのところがあるでしょ」
「そうか。表紙か。水色の紙に赤字でなら文字が埋もれて読めなくなることはない。ドラマなんかのいじめの落書きだって表紙にでかでかと目立つように書かれるもんな」
「そう。それに加えていうなら太いマジックです。シャーペンで写してある数式の上から書いたって十分判別可能でしょう。相手に迷惑をかけようとしている場合、板書してあるページに書くのはうってつけの方法ではありませんか。それだけでノートを台無しにできるんですからね。適当に開いたページに上からマジックで殴り書きをする。これは手間をかけず最大限の効果を発揮する理に適ったやり方です」
「それもそうか。けど、白いページは犯人が意図的して開いたわけではないとしたらどうだ」
「偶然に白いページが開いたと?」
「ほら、本でも開きやすいページってあるだろ。折り目がついていたりして、めくってたら勝手に開いたりさ」
「このノートにそんなページありました?」
さきほど暗号のページを探すのに苦労したのを思い出す。
「……なかった。じゃあ、そうだ。下敷きだ! 下敷きが挿んであった」
「よく考えて発言して下さい。では、質問しますけど、先輩は学校に下敷き何枚持って来てますか?」
「そりゃ一枚だけど。下敷きなんて二枚も三枚もいらないだろ」
「一枚あれば十分ですよね。下敷きは一枚だけ。そして、暗号が書かれたのは今日の朝から四限目の間という事実を考慮すれば下敷き説は排除できます」
「というと?」
「仮にもミステリ読みなんだから自分でも頭を働かせて下さいよ」
「残念! 俺は読者への挑戦状があってもそのまま続けて読み進めるタイプなんだ。立ち止まって推理したりしないからな」
「知ってます。だいたい、それ威張って言うことですか」
呆れたような表情を浮かべる郁子香だったが、その実、自身の推理を披露できる機会を潰されなくて安堵しているのは明らかだった。
「人には向き不向きってものがあるんだよ。それで続きは?」
「仕方ないですね」
得意気な顔を隠そうともせず郁子香が話し始める。
「まず、当たり前のことですが文芸部は運動部ではありません。朝練なんてないわけですから、わざわざ早朝に登校する必要もなく、私が教室に着くのは始業の直前です。先輩だってそうですよね。学校に来て最初にすることはといえば、鞄から出した教科書やノートを引き出しに仕舞うこと。それから一限目の用意です。教科によらず板書はありますので、朝一の授業前の時点で下敷きは机の上にあるわけです。要するに数Ⅰのノートには挟まってません。下敷きは教科ごとにノートの間を移動しますが、数Ⅰのノートは四限目までずっと机のなか。いちおう補足しておきますけど、これは一限目の前に鞄から出さなくても同じことですよ。大事なのは、一枚しかない下敷きが、授業で使用するにあたって机の上に出ずっぱになっている事実です。さらに言うなら仮に下敷きを引き出しに戻しすことがあっても、それは他の教科の時間で、数Ⅰのノートには挟まりません。剥き出しか、別のノートの間か。以上のことから犯人が暗号を書きつけるためにノートを手にしたときに、下敷きがそこにあるわけないと結論づけられます」
反論は一切思い浮かばなかったが、悪意がなかったと全面的に信じることも俺にはできなかった。
郁子香に敵愾心を抱いていそうな人物に心当たりがあったせいだ。
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