時の雪崩

@yumeto-ri

第1話  




僕のあだ名は、『ナマケモノ』だった。





僕の時間の流れは、他の人達に比べ非常に遅い。






世の中の風景は、僕のまわりを素早く通り過ぎていく。まるで「早送り」された映画のようだ。


人々は、すぐに僕に後ろ姿を見せ、僕から離れていく。


いつも僕は風景の中に置き去りにされる。


それでも、にぎやかで慌ただしい世界は僕というちっぽけな存在など気にしない。


僕はまるで、誤差の範囲内のエラーのように、ありふれた道端の紙クズのように、


世の中の風景にくっついている。


他の人々から見れば、僕一人だけがスローモーションで動いているように見えるのだろう。


僕は、ただ、そんな世の中の風景にくっついて、日々周りの風景が変化していく様を静かに眺めている。





みんなはいつも早口で僕に言う。


「男のくせに、どうしてもっとキビキビ動けないの?!」


「どうしてそんなにトロいんだ?使えねえな!」


「まだそんな事やってるの?いったい今まで何をしてたの!?」


「お前を見てると息が詰まる。」


「ナマケモノより遅いんじゃない?」


「そんなんでまともに生活できるの?」





確かに、僕は子供の頃から、何をするのも遅かった。


反応が遅く、返事が遅く、行動も遅かったのは事実だ。


でも、バカな子供扱いされるのはちょっと悔しかった。


どこに行っても、人は上から僕を見下し、僕を憐れみ、または突き放した。


いきなりかわいそうだと言われたり、お前のためだと言いながら心無い小言を言われたり、


いい加減な判断で役に立たないアドバイスをされるのはしょっちゅうだった。


でも、何か言い返したり弁明したりする間も無くみんな離れていくので、


いつも僕は人々の間にいる事に気後れしていた。





まわりの人達の速度に合わせたいが、どう頑張っても到底追いつけない僕は、


悩んだ末に対応策を見つけ出した。


速くは動けないので、先に動くことしたのだ。


他の人が普通10分かかる道のりなら、20分前に出発した。


他の人達が食べ終われば、半分しか食べてなくても席を立った。


歩調を合わせるために、僕の感覚では小走りにしたり、それが無理なら一人遅れて歩くことで我慢した。


それらが僕にできる精一杯の努力だった。


遅くて鈍い人間の最善だ。


しばらくはそうしてみんなについて行こうと頑張っていた。






しかし、努力と報いは比例しない。


すべての努力は無駄だった。






中学を卒業する頃、周りの速度が上がった。


2倍速の映画が3倍速になった気がした。


他人より2倍先に動く方法ではもう対応できない。


3倍先に動かなければいけなかった。


何か一言言おうとしても、誰も待ってくれない。


僕は口を閉ざすようになった。


すべてが高速スピードで周りを激しく流れて行き、僕を置き去りにして行った。


地面をすべるように動きまわる鳩が、人々の吐しゃ物を高速でつつき、


掻き消えるように飛び立つ風景を、僕はじっと見ていた。








ある時期、何人もに同じような事を言われた。


「どこか悪いんじゃないの?病院に行ってみたら?」


「耳が悪いんじゃないの?」


「何か脳の病気じゃない?」

                            





いつもボーっとしている鈍い子供は、患者と呼ばれることになった。


人々は早口で僕を心配し、急いで背中をポンポン叩き、早歩きで離れていく。


心配や慰めの言葉さえあまりに早くて、僕には人々が本心から言っているのかどうか到底わからなかった。


僕は病気ではないと、自分を弁護したい。


でも、この短い言葉も、ゆっくり足を止めて聞いてくれる人はいなかった。


自分を取り巻く状況を誰かに説明することなど、到底不可能だった。








人々の言葉はあまりに速くて、聞き取りも解釈もできなくなった。


世界は無遠慮でヒステリックなノイズで満ち溢れ、僕の発する言葉はどこにも行き場がない。


だから僕は完全に一言も発しなくなった。


ただ、唯一聞き取れたのは、毎朝のように僕を見ながら母が何度も繰り返し言う嘆きの言葉だった。



「ごめんね、こんな風に生んだ私が悪いのよ。」


「いったい・・・これからどうしたらいいの・・・・。」




何日もかけて母の言葉の意味を理解し、理解した後、僕はゆっくりと、深く落胆した。


そして、母にこう告げたかった。


「お母さん。僕がこんな風でごめんね。お母さんは悪くないよ。」




母を憎んではいなかった。


動作が遅くて反応が鈍く、いつ事故に合うかわからない子供を女手ひとつで育てるのは、


並大抵な苦労じゃなかったはずだ。


僕を守るために世間に強いまなざしを向け、懸命に僕の手を引っ張って歩く母。


少しでも何かあったらすぐ抱きかかえられたのを思い出す。


僕のせいで疲れ果てた母の顔を見るのはつらかった。








僕は、他人の立場に立って考えてみた。


僕と話そうと思ったら、あいさつ程度でも、たった一言でも忍耐が必要になる。


会話をしようと思ったら、あまりにも長い待ち時間を求めることになる。


忙しい人達にそんな時間と忍耐を求めるのは申し訳ない。


もちろん、人と交わるのが難しいから、迷惑をかけるからといって、


人と交わりたくないということではなかった。


根気よく僕と話し、冗談で笑わせようとまでしてくれる人達もいた。


けれど、何事にも限界はある。


そんな人達も徐々に遠ざかり、あいさつ程度になり、僕と距離をおくようになった。


その距離は僕にとって絶望的に遠い。


僕は、セリフを聞き取ることもストーリーを理解することもできない早送りの映画のような世の中を、


流れるままに見つめながら過ごすしかできなかった。


こうして、僕は人々に混ざって生きることができない人生を、ゆっくりと、確実に受け入れていった。








そんな世界でも、ごく稀に僕を落ち着かせる風景に出会うこともある。




僕は、一つの場所長くとどまり、じっと同じ姿勢で誰かを待っている人の姿を見るのが一番好きだった。


残像すら残さずチャカチャカ動き、視界から消えていく人々の中で、


比較的に完全な人の形が見えて良かった。この慌ただしい世の中で、


ただ誰かと会うためにしばらく停止しているのだと思うと、心が温かくなった。


一日中、同じ姿勢で建物の前を守る警備員、


チラシを抱えてじっと通行人たちの視線を集めようとしている人,


全然釣れる気配のない釣り人。


自分の立っている場所、居場所を黙々と守ったり楽しんだりしている人を見ていると、


気持ちが落ち着いた。


一日中身体を丸めて眠る猫を、そっとゆっくり撫でることも寂しい生活の慰めになった。


一日の3分の2以上を寝なければならない存在がこの世にいることが、なんだか嬉しかった。





ある日、僕の人生が突然変わった。

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