伍朝四夜:ヒを見ぬ者~3b~

 レーメは重く閉じていた口を、軽く開口する。


――揺らぎ 舞い散るは 無念

  捉え 退くこと無き 煉獄にて

  報いを受けんと 唯 嘆く――


――彼の魂 尽き果し刻迄……! 


 周囲の殺伐とした光景に似つかわしくのない、レーメの凛として軽やかな歌声が辺りに響き始める。


 何も知らない者が見れば、彼女の詠う姿は揺らめく炎へ鼓舞を向けているようにも見える。


 幾人かは火事の始末の手を僅かに止めて、何事かと様子を伺いに来ようとしていた。それでもいまはまだ、彼女の様子を気にするどころではない者が圧倒的に多い。


 ティオがレーメの前に立ち、彼女が注目しないようにと彼らを威嚇している。


 遠くから眺めてくる彼らは何を考えているのだろうか。

 レーメは街の人々の視線を感じることに不安を覚え、歌に気持ちが向かずにいた。だが、それも最初のうちだけで、彼女はすぐに歌に集中しなければならなくなった。


「……!」

「つ……続けてください……!」


 一句詠い終えた彼女の瞳に、焦りの色が陰り始める。アーブはその理由を察したが、怯みかけた彼女に詠い続けるよう告げた。


 火は未だ轟々と燃え続け、勢いを留める所か勢いを増すばかりだ。レーメは火の精霊に火の勢いを落とすよう、歌を以って伝えている。


 しかし、魔法は効果を見せない。精霊が彼女の歌を聞き入れようとしていない。魔法の使うための第二段階である「精霊に要素を動かして貰う」が行われていないのだ。


 火事の原因は精霊が生み出したものではないようで、精霊は火事に対して全く興味を持とうとしていない。ただ、ふわふわと不安定な軌跡を描き、宙で回り続けている。


 普段から精霊の姿を見慣れているレーメとアーブから見て、今の精霊の動きは不自然なものだった。落ち着きがない、取り乱している。そんな言葉が型にはまるように、多くの精霊が皆似たような様子を見せている。


「どうしたんだ?!」


 レーメの動揺に気が付いたティオは、アーブの顔を覗き込み問い掛けた。アーブの額に一筋の汗が滲み出ているのが判り、ただ事ではないのだろうと判断出来る。しかし、精霊の見えないティオには茅の外の出来事で、何が起きているかを知り得ることが出来ない。


 仕方なくレーメの邪魔にならないよう、声を掛けずにじっと耐える。心の中でしか彼女を応援することしか出来ないことに歯がゆさを感じ、彼はこぶしを強く握り締めた。


「……精霊の、様子が……」

「精霊の様子がどうかしたのかよ?!」


 中途半端な呟きを零すアーブの顔から血の気が引いた。

 その様子にティオは不安を感じて仕方がない。本当は地団駄を踏んで精霊が見える吟遊詩人を問いつめたいところを、短気であるはずの彼が必死に耐えている。


――我が心 束縛せし 愁い

  暗雲に 包括されし 走者

  光明欲し 無窮に彷徨せん――


 もう間もなく、レーメはもう一句詠い終えようとしている。それでも精霊の様子は先程と変わらない。


 彼女が魔法を使い始めたばかりの頃、精霊が関心を持たないことは頻繁にあった。精霊への願いの伝え方が分からなかったからだ。


 しかし、今の精霊はその時の様子とはまた異なっている。彼らはレーメの歌に関心を持っていないのではなく、ぼんやりとして聞こえていないような様子だ。


 何故精霊が虚ろな状態になっているのか、レーメには判らない。集中しなければならないと判っているのに、いつもはすぐに反応するはずの精霊が全く興味を示さない事に対して気を取られて焦るばかりだ。


 レーメの焦る様子を観察していたアーブは打開策を講じようと、口元に右手を軽く添えて周囲の様子を見回した。

 バケツで水を運んで火を消す者、魔法で火を消そうとする者、そしてそれを見守る者で構成されており、誰もが火事に夢中になっている。

 ゆっくりと目を閉じて周囲の気配を探るが、昨夜と同じで心当たりのある気配しか探ることは出来ない。


 視線が自分に集中していないことをみとめると、アーブは意を決して閉じていた目を開き、小さな声で呟いた。


『diel min mailein.

 min namien ims Apas.

 min asit Sarasvati linemadian huwen.

 wovy min wilesh yen innery.

 wovy hery wilesh yen innery.』


 澄んだ水が流れるような凛とした呟きはとても小さく、聞き取れた人間は居ない。もし聞き取れたとしても、その意味を理解出来る者はこの場に居ないだろう。


 しかし、吟遊詩人の声に火の精霊が反応した。精霊たちは不規則な動きを止めたと思うと、はっと我に返ったように周囲を見回し始めた。


 その様子にアーブはひとまず安堵の溜息を付く。

 レーメの魔法は終わっていない。肝心なのはこれからだ。


 精霊へ願いを歌う少女は、すぐに彼らの様子が変化したことに気が付く。すかさず精霊に聞き入れてもらえるように、今までよりも集中して詠う。


――彼の善行 我が称えん

  数多を救いし 稀なる優者……!――


 再びレーメが一句詠い終えると、今度こそ精霊が反応を返した。


「お願い、火を消して!」


 そう告げなくとも、レーメの願いは精霊に届いている。けれども、それまで不安を感じていた彼女は言わずにはいられなかった。


 すると……。


 轟々と音を立てて燃え盛っていた炎は、急速に勢いを弱め始めた。それは一ヶ所だけに留まらず、レーメの近くを中心に街中のあちこちの火事の現場へ波及していく。


「お、おい……! 見ろよ……。何か火の様子が変だぞ?!」

「やった!火の勢いが収まった!!!」


 街のどこかで、誰かが歓喜を込めた叫び声をあげた。その声を合図に、街中のざわめきが一層深まっていく。


「今のうちだ! 早く! 沢山水持ってこい!!」


 街の入り口に立ちつくしているレーメ達にも、その様子がハッキリと見ることが出来た。


 街の至る所で起きていた火事は、完全には収まってはいない。しかし、そのどれもが徐々に勢いを弱めていき、水を十分にかけさえすればすぐにでも消えるだろう。


「……!」


 収まっていく火の勢いと、反対にざわめきを増す住民たちの声。問題が解決していく様子を見て、レーメは深く溜息を付いた。


「何とか……なった……?」


 火が消えなかったらどうしよう、このままずっと精霊が全く反応しなかったらどうしよう。そう言った困惑と緊張を抱えながらも懸命に詠い続けていたレーメは、緊張の糸が切れたように脱力し地面に座りこんだ。


 そんな彼女の元に、ティオとアーブの二人が急いで駆け寄る。


「レーメ! 大丈夫か?」

「レーメさん、お疲れ様です。……どうもありがとうございます」


 被害は広範囲に及ぶ多大なものだが、火の勢いが弱まった影響で火事は無事に終息を迎えようとしている。


 代わりに、新たな火種を残して。

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