第2話 始まりの三年間1

 眠るときとは違う、完全に何も感じない暗闇の底から、急速に意識は覚醒する。強い圧迫感を感じたのは束の間、解放された俺は何らかの声を聴いた。

 日本語ではない。一番近いものはドイツ語であったが、語感が近いだけで知っている単語は一つもなかった。

 目をうっすらと開けると、ぼんやりとした視界の中に、金髪や茶髪の白人が複数と灰色の天井が映る。明らかに家族や友人ではない――彼らは医者で、ここは病院であろうか。

 いや、それにしては様子がおかしい。彼らは皆、純粋に喜んで笑っているのだ。

 悪いことだとは思わないが、怪我人が目を覚ましたのならば、涙を流している人がいたり、冷静に対処をする人がいたりしても何ら不思議はないのだ。

 なのに、彼らは皆、歓喜に湧いていた。

 何故だ。

 声を出そうとするも、「あ」とか「う」とかの単純な音しか出すことが出来ない。

 体の感覚はあるものの、まるで自分の体ではないかのように、自由自在には動かない。

 次々にシナプスが次々と接続して思考回路を形作り、疑問の回廊へのめりこんでいく。そして、こういった疑問へも至った。


 何故、強く頭を打って寝ていたのに、怠さを一切感じないのか、と。





 目が覚めてから一ヶ月が経った。現状をある程度理解した。

 先ず、俺は赤ん坊になっていた。

 とりあえず、可能性を推察しよう。


 可能性1:俺は植物状態であり、これは夢である。

 可能性2:推移はともかくとして、これは仮想現実である。

 可能性3:一度死んで、異世界に転生した。


 どれもこれも突拍子のない考えだ。

 しかし、仮にどれであったとしてもこちらの対応が大幅に変わる訳でもないので、一番ふざけることの出来ない可能性3として考えることにしておく。異世界以外にも過去、超未来、別の惑星などの可能性はあったが、実質的に異世界なので可能性3に内包した。

 異世界と仮定したところで次に進もう。この国の言葉はまだほとんど理解していないが、辛うじて自分の名前は理解した。


 ヴァイス・ジーク・フォーラル・ローラレンス。


 この長ったらしい偉そうな名前が、俺のことを指す固有名詞だ。いや、実際に偉いのかもしれない。

 たまに楽しそうに俺のことを抱きに来る、豪華な服を着たお兄さんとお姉さん以外は俺のことを割れ物でも扱うかのように、赤ん坊相手にしても過剰に優しく扱うのである。実感はないが、あの人は俺の父親だ。恐らく、だが。

 それに石造りの壁や天井であり、人々の服装も中世ヨーロッパのようであるのに関わらず、俺の服やベッドのシーツは絹製である。


 一ヶ月も立つのに分かっている情報はこれだけである。

 やはり言葉が分からないことと、自由に動き回れないことが痛い。

 早く自由に動けるようになりたい。言葉も理解しなくてはいけないな。

 自分なりに工夫して、出来る限りの運動をしたり、言葉を覚えようと努力をすることにしよう。そう心に誓った。





 更に五ヶ月経った。俺が生まれてからおよそ半年である。

 スポンジが水を吸うかのように知識を吸収する、赤ん坊の脳が良かったのか、完璧ではないものの、この国の言語を大凡理解することが出来た。ここまで早く分かるとは自分でも思わなかったので僥倖ぎょうこうだ。

 といっても話すことは殆ど出来ない。舌がまだ発達していないのだ。

 言語が理解できるようになったことで、自分の置かれている境遇が鮮明に理解出来てきた。俺の世話をする人間は、俺のことを「ハイツ・ヴァイス」と呼ぶのだが、このハイツの意味がどうやら王子殿下らしい。


 つまり、「ヴァイス殿下」だ。


 俺は王子に転生してしまったらしい。

 飢えて死ぬ心配がない代わりに、否応なしに面倒な政争に巻き込まれていくように人生のレールがひかれているのである。

 幸せなことなのであろうが、元日本の小庶民たる俺は素直に喜べない。なんだかんだと言っても、そのうちに慣れてしまうのであろうが。

 また、周りの人のことも段々と分かってきた。


 父親が、アルトリウス・ハルト・フォーラル・ローラレンス。

 俺に敬称を付けない、豪華な服を着たお兄さんだ。


 母親が、リリア・カナ・フォーリア・ローラレンス。

 同じく俺に敬称を付けない、豪華な服を着たお姉さんだ。


 普段、ハイラーやハイラーリン――それぞれ国王陛下、王妃陛下の意味だ――としか呼ばれていない彼らのフルネームが分かる理由は、アルトリウスが自分から名乗っただけである。


「このアルトリウス・ハルト・フォーラル・ローラレンスと、その最愛の妻たるリリア・カナ・フォーリア・ローラレンスの子だ。さぞ美しく賢い王子となるだろう!」


 と、俺を抱き上げながら、うれしそうに叫んでいるのである。

 それも一回切りではなく定期的に行ってくる。もしかしたら、幼少期に言い聞かせるという、教育の一環なのかもしれない。そこまで考えてはいないか。

 部屋によくいる人物の名前も、大凡把握している。というか、親姉弟の名前よりも自信がある。


 俺の乳母のマリア・リーカネ・フォン・ユグドーラ。

 割と最近まで、彼女が俺の母親だと思っていた。

 しかしよく考えれば、王族ともあれば乳母がいるのは当然ではある。知らなかったから仕方ないが。


 彼女のフルネームを知っている理由もまた、本人が名乗りを上げたからである。


 また、マリアの娘であるレイナ・マリーナ・フォーガス・ユグドーラが隣のベッドで寝ている。乳母ということは母乳が出るのであって、つまり生まれたばかりの子供がいて然るべきである。


 実感はないが王子である俺と同じ部屋で良いのかと思ったが、彼女たちの実家であるユグドーラ家は、この国でも指折りの大貴族らしい。

 まあ、良く分からないが問題ないということなのだろう。


 後はフルネームは分からないが4人いて、マリアを含めた5人の内、2~3人が常駐している。名前は、警備兵がミハエルとウォルフガング。女官がアリアとカリンである。

 マリア程ではないが、彼らもかなり高い地位にあるらしい。実家の格にしても、個人の役職にしてもだ。


 分かっていることはこんな感じだ。情報と言っても部屋から出ることが出来ない以上はたかが知れているのである。

 ハイハイ移動は出来るようになったが、複数の目がある以上、抜け出すことはかなわない。

 自分では自制心と理性のある大人だと思っていても、周りからは言葉も話せない赤ん坊にしか見えないのだから当然といえば当然だ。もっとも、やることもないので運動と暇潰しも兼ねて、今日も脱出ゲームに挑戦だ。

 先ず、マリアがレイナの面倒を見るタイミングを見計らって、ベッドを抜け出す。

 赤ん坊故に頭が重いのは分かっているので、後向きにハイハイをして、足から下に降りる。高さは大したことないので、足からならば怪我をすることはない。

 ベッドやチェストの陰に隠れつつ、出来得る限り最速のハイハイで移動する。

 大人から見れば可愛いものであろうが、この年齢にしては異様な速度を出せていると自負がある。

 ドアまで目測で1メートル。

 後は、タイミングよく抜け出すだけだ。

 ドアが開いた。行ける――そう確信を持った瞬間に、ドアを開けた何者かに抱き上げられた。


「ヴァイス殿下、こんなところで何をしているのですか。外は危ないから抜け出してはいけませんよ」


 女官のカリンだ。

 彼女は現代日本人よろしく下を見て歩いていることが多いように思う。

 貴族としての自信をもっと持って欲しい。前見て歩こうよ。

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