二人の記憶 前



 幼い女の子が、泣いていた。

 いつも通りお友だちとはしゃいで、一緒にお昼寝をして、平和に流れるだけだった日常は返ってこない。


 最近視界が赤くなってきている気がしていた。何となく、鏡に映る自分の瞳も赤い気がした。

 でも、幼子はそれが異常なことだと知らず、気にしてはいなかった。


 ある日、ようちえんにちゅうしゃをもったこわいおいしゃさんたちが来て、けんしんが行われた。

 定期的に行われるそれは園児達にとって恐怖で、何故かその度におともだちが少しづつ消えていくのは言い様のない不安を抱かせていた。

 けんしんが行われて一週間が過ぎた頃、偶然しょくいんしつを通りすがった幼子は、せんせい達の会話に自分の名前が出てきたことでふと足を止める。


「もも組のたちばなしおりちゃん、出たんだって」

「あらやだ、またウチから赤眼アカメが増えるわけ? ここ呪われてるんじゃないかしら……」

「隣町のえんでも最近多いらしいわ。こんなに感染してるんじゃ私達にまで移らないか心配で仕事どころじゃないっつうの」

「ほんとよ。栞ちゃんは明日から受け入れ禁止にしなきゃね。橘さんには私から電話しとくから、あなたは引き継ぎに書いといてくれる?」


 幼子は赤眼がなんなのか知りたくなった。

 そうだ、おともだちにきいてみよう! と駆けた先は、庭で遊ぶ子どもたちの中心。けんかにつよくてみんなのにんきもの、大ちゃんに大声で叫ぶ。


「ねぇねぇ! あかめってなぁに!? わたしあかめなんだって!! せんせいたちがいってた!」

「はぁー!? オマエそんなんもしらねぇの! つーかうそだろ! めをみせてみろよ!!」


 すると周りで遊んでいた子どもたちも動きを止めて、幼子を取り囲む。

 取り囲まれた幼子は、にんきものになった気がしてドキドキしていた。

 しかし、直ぐに儚い夢だったことを思い知らされる。


「こ、こいつのめ、まじであかいぞ!」

「げー! まじで!」

「ほんとかよ! みんなはなれろ! あかめがうつるぞ!!」

「きよめだ! みんなみずできよめろ!」


 彼女は一人、ついていけなかった。

 なんで、どうして、とせり上がってくる気持ちに、更に冷たい追い打ちをかけられる。


 バシャアと盛大な音が鳴った。振り向くと、大ちゃんが大きなバケツをもってひっくり返していた。


 冷たい……。


 五月のまだ肌寒い季節、頭から水浸しになった少女が集団のなか立ちすくむ。

 ドチャと音がした。鈍い痛みにたたらを踏んで耐えると、今度は反対から同じ痛みに襲われる。


「やめて…………やめて! おかあさんがあらってくれたごようふくをよごさないで!!」


 精一杯のお願いだった。訳も分からず泥団子を体に受ける幼子から出てきた悲鳴は、意思を持った思いやり。

 ここで盛大に泣いていたら少しは情に訴え、違っていたかもしれないが、彼女は気高い女の子だった。

 反抗する強さは時として感情を逆撫で、逆上させる。


「うるせー! やっちまぇー!!」


 集団は恐ろしい。

 当たりどころが悪かった泥団子に遂に彼女はうずくまり、泥の水溜りで体を震わせる。


「そこまでだ! お前達離れろ! 栞ちゃんは今から家に帰す。ったく、親にバレたらどうするってんだ」


 朦朧もうろうとする意識の中で、えんちょーせんせいの声が聞こえた気がした。


 やっと、おわった?


 痛む体を持ち上げ、周りを見渡す。

 園児達は大人の大声に怯えているようだった。彼女は、逃げるには今しか無いと駆け出す。

 目指すのは幼稚園の外、重たい柵を押し広げ体を滑り込ませる。


「まてッ!」


 もう誰の言う事も聞く気はなかった。

 誰も信じる気には、なれなかった。



 ✽✽✽✽



「ひっぐ、ひっぐ」


 知らない公園。夕暮れに染まる町並み。

 茶色に染まった小さな女の子は、経験するには早すぎる人の残酷さを身に刻み込んだ。それは未成熟な幼子一人で抱えるにはあまりにも大き過ぎる。

 にも関わらず彼女が帰ろうとしないのはママに嫌われるんじゃないかという怯えだ。

 今彼女に必要なのは心を許せる存在をつくること。でなければ、小さな命は簡単に潰れてしまう────。


「あ、あの! どうしたの! 僕でよかったら、そうだんにのるよ!」


 顔を上げれば、自分と同じくらいの男の子が立っていた。

 整った顔付きで聡明な目をしている。自然と二人は見つめ合うことになり、先に音をあげたのは男の子だった。


「つ、つらいことがあったの? かわいいおかおがもったいないよ!」

「え……」

「こっちきて!!」


 男の子は泥に汚れた女の子を気にもせず手を取って走り出す。

 彼は泣いている女の子を助けることに必至で、手が汚れることなどどうでもよかった。


「ほら、きて! ぼくをしんじて!」


 どうやら彼が強引なのはこの時から変わらないらしい。

 暫く走ると、高級住宅地の中でもひときわ大きな家が見えてきた。


「あそこがぼくのおうち! あがっていって!」


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