赤い瞳 後



「こんにちは」


 心地の良い音色が何処どこからか聞こえた。


「あのー、こん……にちは」


 今度は震える寂しそうな音色。


「お隣、座って良いですか」


 となり? そこでようやく私は気付いた。どうやら音色は私に話しかけていたらしい。

 顔を左へ向けると、確かに人がいた。


「あ、ごめんなさい。私あまり目が良くなくて……」

「いえ、大丈夫ですよ。隣に良いですか?」

「は、はい」


 どうして隣に座るのか分からない。屋上にはたまに誰かが散歩をしにくる程度で、人は多くなかった。

 だから、座る場所は他にも空いている。この人には悪いが無意識に間を広げて警戒してしまったのは仕方ないだろう。


「何を書いているんですか?」

「これ、ですか? 遺言ですね」

「遺言‥ですか。まだ早すぎませんか」

「もうそろそろ、死ぬんです。わたし」


 もしかすれば、今出会ったばかりの人に聞かせる話では無かったかも知れない。

 放ったあとから失敗した、と思ったものの、それ程どうでもいい事だった。私にとっては思い詰めた話でも無かったから、戸惑いも無く答えてしまったのだろう。


「え……」


 時が止まったようだ。風の音も、隣の音色も響いてこない。

 余りにも静かな時間が続くものだから不安に思って隣を見ると、彼は泣いていた。顔を覗えば、年は私と同じくらいに思える。

 あれ……? どうして、貴方が泣いているの?


「なんで……! なんで、ですか」


 信じたくないものに一歩踏み出して立ち向かう声だった。それを出会ったばかりの貴方が響かせるのは何故なのだろう。

 彼は絶望的で、大げさでもなくこの世の終わりみたいな顔で見つめてくる。なんか居た堪れなくなって、もう少し説明しなければと思った。


「私の見たら分かるかと思います」


 涙に濡れた綺麗な瞳をしていた。私達は互いに惹かれるようにして見つめ合う。


「……綺麗な“赤”をしています」

「そういう事です。私の水晶体は、いえ……既に神経もアネモネラ一型に侵されています。もうじき脳に進行して、綺麗な花を咲かせるでしょう」


 十年前、そらから落ちてきたウイルスは、幼い子供たちだけに感染した。そして、初めは宿主しゅくしゅの目に住み着き、最期には脳へと進行していく。脳へ辿り着いた頃には当然私達は死んでいる。所謂いわゆる、脳死というやつだ。

 何処かの医者は言ったそうだ。脳死した患者の頭には花が咲いている、と。

 というのも、MRIで断層的に解析したところ、彼岸花ひがんばなのようにアネモネラが分布していたらしい。

 どうして初めに目を住処すみかとするのかは解明されていないが、視覚を潰すことで生物としての生命が脅かされるのは確かだ。

 しかして宿主しゅくしゅ諸共死んでしまうのはウイルスとしての繁殖に真っ向から反対したやり方では無いだろうか。地球内も含めウイルスというのは単体では繁殖できず、寄生しなければ種を存続出来やしない。

 いつも思うのはウイルスの存在意義についてだ。一人では生きていけない癖にして誰かを宛に搾取する形はとても私に似ている。

 でも、私とは違ってウイルスには使命があるのではないか。

 例えば地球ほしの正常を取り戻して欲しいと願った神様からのプレゼントだとも考えられるし、人類進化の糧な可能性もある。

 こういった目に見えない何か大きな力が世界には満ちていて、私は偶々生け贄みたいな形で選ばれてしまったという訳だろう。


 残り三ヶ月。また諦めれば済む話である。

 けれど、欲を言えば、私の生きた時間にも意味が有ったのか誰かに教えて欲しかった。

 だからかも知れない。意地悪な言葉で相手を試すような事をしてしまった。


「移るといけませんから、離れた方が良いかもしれませんよ?」

「何を言ってるんですか。移ることは無いでしょう。空気感染するのは五歳辺りまで。それ以降は性的感染、それと血液からしか感染できなかった。ですよね」

「詳しいんですね」

「えぇ、もう十年も前から患者の人権問題は取り上げられてますから。十四歳の僕でも知ってます」

「同じですね、歳」

「やっぱり、同じだったんだ。大人びて見えるから、本当は年上かと思ってました」


 同じ年の男の子。こんなに誰かと話をしたのはいつ振りだろう。

 学校では病原菌扱いされる私に話し相手というものは勿論いなかった。もし何かの間違いで子供達が感染しようものなら親はやり切れない。実際に病原菌を住まわせる私は受け入れるしか無かった。


「どうして暗い顔をしているんですか」


 どうして? 私が?


「とても、辛そうです」

「え、そんなこと無いよ?」

「我慢しなくても良いと思います。誰にも言えないなら、僕に言ってください」


 そんなこと言われても……。


「だめ……」

「どうして?」

「怖いから」

「期待して失った時が辛いから?」


 私は俯きだった顔を、無意識に持ち上げた。

 どうして、貴方が私の心を言い当てるの。

 どうして、貴方はそんなに真っ直ぐ私を見つめるの。


「……帰る」


 何かを失いそうで、頭の中では警笛が鳴り響いていた。


「待って!!」


 立ち上がった私は強い力に引き戻された。不安定な姿勢からバランスを崩し──彼の胸に抱きとめられる。

 初めて感じる男の子の感触、強引な力強さ。ついていけない急展開に声も出せず呆然とする。

 何が自分の身に起こっているのか理解出来ない。


「ごめん」


 彼は、それだけ言って全く慌てることは無かった。不測の自体なのか、それとも狙った状況なのか。

 ただ、こうして抱き締められている私が動けないでいるのは体が硬直していただけではなく、彼の温もりは優しくて、熱を帯びていたからだ。


 駄目だ、駄目になってしまう。心臓が、煩いし、息が、苦しいし、涙が、溢れてしまいそうだ。

 そして、


「痛い」


 心が──。


「ごめん‥」


 違う、そうじゃない。力強く握られた手を、離して欲しかった訳じゃない。


「もっと強く抱き締めてよ」


 思わず本音が漏れていた。初めて会ったばかりの人に、私は何を──‥。

 でも、そんなことどうでもいい。

 孤独な私を抱き締めて欲しかった。私を、離さないで欲しかった。私を嫌がらないで……欲しかった。ずっと、誰かに愛されたかった。

 積もり積もった愛への飢えが決壊し、溢れ出してしまう。

 願いが通じたのか彼は私の全部を受け止め、包んでくれた。


「苦しい」


 息ができなくて、苦しい。それなのに安心しきってしまう。この苦しさが心地良いとさえ、感じている。

 このまま彼に身を任せてしまえたら私は──。


「離して、ちょっと息が出来ないの」


 私は何をやっているのだろう。心臓が、本当にうるさかった。今だけで良いから、止まってはくれないだろうか。

 ねぇ、名残り惜しそうにしないでよ。私に、優しくしないで。弱いから……耐え切れそうにないの。

 彼が離れた隙間を春風が通り抜け、そこにあった温もりが急に冷まされていく。


「…………なんなの」

「僕って最低だ。ごめん、こんな奴嫌いだよね」

「何も言って無いじゃん。でも、……嫌いだよ。君みたいな奴は、私になんか構うんじゃないよ、ばか」


 嫌いだなんて言葉、嫌いだ。胸が張り裂けそうで、自分は今どんな表情をしているのだろうか。なんとなく、見せてしまったら終わりな気がした。


「帰る……」


 もう手遅れかもしれない。それでも、私はここに居てはいけない。


「待ってるから! 明日も、一緒に話をしようっ」


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