第18話

 それから検査入院の一週間をさらに浪費して、みずなはようやく実家の前に立っている。

 二年ぶりに帰ってきた実家は、時間がたった分だけすすけているようでもあったけれど、それだけだった。人が住まなかった分だけ家は早く朽ちるというが、そんな兆しは見られない。

 マフラーに首をうずめて、一応の松葉づえに寄りかかりながら、みずなは懐かしい鍵を取り出す。キーホルダーのマスコット猫が控えめに鈴を鳴らす。がちゃり、と鍵が開く音がする。

 ――青葉ちゃんは、必ずここにいる。

 ドアノブに手をかけて、みずなは一つ深呼吸をした。

 そして、決然とドアを開いた。

 その瞬間、頭が真っ白になった。

 何が起こったのか分からない。感覚が閾値を超えて、処理しきれない。頭を占拠している。

 すぐに、ホワイトアウトしていたのは嗅覚だったということに気づかされた。

 強烈な臭いだった。ぶわっ、とそれに包み込まれたせいで、瞬間的に感覚が占有されてしまったのだ。

「っ、何、この臭い」

 みずなは咳き込む。戸惑いを隠しきれない。

 久しぶりに人が訪れたはずの自宅に、覚えのない腐敗臭が充満している。

 現象も、原因も不明だった。一体何を腐らせれば、これほどの臭いをもたらすことができるのか。一人暮らしの経験から推定しようとして、途方もないスケールの違いに匙を投げる。

『いい? 小日向さんは曲がりなりにも一度、あなたを連れていこうとしたわ』

 穂乃果の心配そうな声が思い出される。「青葉に会いに行く」とみずなが言った時、穂乃果はただ目を閉じて、力なく首を振ったものだった。

『だから、何が起きても――何を起こされても最早不思議ではないわ。それでもどうしても行くというのなら、これを持って行って。身を守る役には立つと思うわ』

 コートの膨らんだ内ポケットが、我々の出番は近いぞ、とばかりに、一つ静かに鳴った。そこに収まっている一房三つの鈴が存在を主張している。

 みずなはその上にそっと手を当てる。腐敗に染まった廊下を見つめる。

 どこか酸っぱさを感じる、生ごみを煮詰めたような高密度の臭い。

 青葉との関連は分からない。ただ、みずなの予想が正しければ、青葉はこの臭いの只中にぽつんと浮いていることになる。

 霊体に嗅覚はないと、青葉は言ったものだった。

 であれば、なおさらだ。悪いものの存在すら認知できないこと、それがのちにどれほどの無力感を運んでくるか、今やみずなは知っている。

 二畳ほどの玄関で靴を脱ぐ。うっすらと積もった灰色の埃の上に、足を下ろす。

「あれ……」

 足元を見降ろしたみずなは、そこの灰色が少しだけ薄いことに気づく。

 視線を少しずつ廊下に這わせる。

 足跡が、伸びていた。

 誰かの虚ろな痕跡は、廊下を伝って突き当りの階段を上っている。

 まるで、こちらにおいでと、みずなを導いているようだった。

 驚きはあった。しかしみずなは一歩、廊下へ踏み出す。

 ――誰だろう。

 みずなは足跡を追いながら考える。

 泥棒は鍵を掛けて出ていくことはしない。ここを訪れた誰かは、かつてこの家に招かれた人間なのだ。

 廊下を一歩ずつ進む。次第に臭いが強まっていく。身動きすら取れなくなりそうな、濃密な粘ついた悪臭。その中を、みずなはしかし表情一つ変えずに進んでいく。

 うっすらと積もったほこりが、足を踏み出すごとに舞い上がって歩みを強意する。久しぶりの人間に、家そのものが驚いて咳き込んでいるようにも見える。

 先にここを訪れた誰かも、こうして歓迎か拒絶かわからない反応をされたのか。

 その誰かも、この激臭の中を歩いたのだろうか。

 足跡は両足一対で一筋、ただ二階へと向かっている。

 階段の直前で足を止める。

 何か、違和感があった。

 みずなは注意深く前後の廊下を見回して、そしてはっとする。

 ――帰ってない……。

 足跡は一対しか見つからなかった。二階へ上ったっきり、降りてきていない。

 それはなぜ。どういう状況か。

 ぱっと連想がつながる。

 その人物こそが、この強烈な腐敗臭の元なのだ。

 誰かが二階へ上がり、そしてそのまま腐っている。

 即ち、二階で死亡したということ。歩を進めるごとに臭いがひどくなるのが、その証左。

 しかし、それはなぜ。どういう状況か。

 誰かは二階へ一人で上がり、一人で死んだ。自殺という結論が、やはり思い浮かぶ。

 ――青葉ちゃん?

 動揺が走る。

 青葉なら、家の鍵をまだ持っていてもおかしくはない。青葉とはこの家でもまた同居していたのだから。返却されたのはアパートの鍵一本だけだった。

 カウンセリングでゆかりが提示した、ありえないと断じた仮定が急速に現実味を帯びる。

 自殺だったら、それはなぜ。どのように。みずなはそれを知りたいと強く願った。

 緊張に唾液を呑みこむ。意識が一瞬臭気から離れる。

 みずなは一歩、階段に足を掛ける。

 知りたいと願ったことだった。知らなければならないことだった。青葉がそこにいて、話ができるなら、それを聞かなければならない。

 みずなの部屋は二階。二人のルーツは明らかにそこにあって、青葉はそこにいるはずだ。

 階段を上り切って、部屋へ近づけば近づくほどに、まとわりつくような激臭は強まっていく。足跡はみずなの部屋に入って途切れていて、死体と青葉が一緒にいることを裏付けていた。みずなは目をしばたたかせながら、一人頷く。

 青葉の体がそこにあるのなら。

 みずなの胸に青葉を連れ戻すための淡い勝算が立つ。

 ――早く行かなきゃ。

 懐かしいドアノブに手をかける。力を込める。カチリ、と支えの外れる音がする。

 一息にドアを開く。

「う、わ」

 その瞬間、五感に叩き込まれた情報の量に、耐えきれずに声が漏れる。

 聴覚が埋まった。間断無しにノイズが耳を叩く。高めの車のエンジン音に相似した、甲高い脈打つ雑音。

 目をこする。視界が黒の波に埋め尽くされている。

 顔をぴしぴしと細かく何かが叩く。かばった手の中に飛び込んできたのは、ハエだった。

「死体、そっか」

 視界を埋め尽くすこの黒い波は、すべてハエかそれに類似する死喰い虫。

 ノイズは部屋中を飛び回る大小さまざまな雑虫の羽音だと気づく。顔を叩く固形物もまた、勢い余って突っ込んできた彼らの一部。 そして、より一層濃密な、最早粘性の質量を持っていそうなくらいの腐臭が嗅覚を直撃している。

 一歩踏み出そうとするが、足が動かない。充満する死に押し返されている。

 強烈な拒絶の主体は、部屋の真ん中に転がっている。うごめくグリザイユのオブジェが転がっている。もぞもぞと白と黒が入れ替わりうごめいている様は、テレビのホワイトノイズのようだとみずなは思う。恐らく、青葉の亡骸だ。

 その脇に、見慣れた背中があった。かつてみずなを背負ってくれていた、けれども今は小さく縮こまってしまった背中が。

「青葉ちゃん?」

 小日向青葉は向こうを向いたまま、答えようとしない。

 ちりん、と内ポケットでお守りの鈴が鳴る。みずなははっとする。鈴は霊障の気配に反応し所持者を護るものだという。だからきっと声は届いたのだ。そして青葉の感情は揺れた。

「怒ってる? 青葉ちゃん」

 りん、と再び静かに鳴った鈴は、確かな肯定だ。

「そっか、ごめんね。青葉ちゃん、ちょっとお話がしたい。そっちに行っていい?」

 一歩足を踏み出す。フローリングがミシリと軋む。

「来ないで!」

 泣きそうな絶叫が、雑音と腐臭を貫いてみずなを叩く。

 パキン、と内ポケットで鈴が一つ弾ける。みずなは足を止めて、一つため息を吐く。青葉のむき出しの感情に、息が詰まっていた。

「来ないで……。私はみずなを、殺しちゃう。聞いたでしょ、田村さんに」

 さめざめと青葉がすすり泣く。

「殺しちゃう……コロシちゃうよ……コロシチャウ、コロして、死んで、コロし、し」

 ゆらり、と青葉が立ち上がる。

「コロし、コロシて……、ずっト一緒に……」

 そこから先は、言葉の形ですらない、呪われた歌声のような音の連なり。

 笑い声にも似た不規則に震えて引き攣れた声が羽音と混然となって響く。首を軋ませながら、青葉が袈裟がけに振り向く。ポケットから飛び出しそうなほどに激しく鈴が震える。

 ぎょろり、と視線が合う。限界まで見開かれた瞳がみずなを呑みこもうと大きく口を開ける。

 バキン、と二つ目の鈴が弾けた。

 同時に、みずなは松葉づえを放って走りだしていた。青葉もまた、みずなへゆらりと傾ぐ。

「青葉ちゃん……!」

 辞書で引いた、怖いという言葉。足がすくむ。顔が引きつる。体が震える。などなど。何もかも自分には無縁だ。怖い、を直感で理解できなくて良かった。みずなは思う。そうでなければきっと、震えあがってしまって一歩も動けなかっただろうから。

 ゆらり、と青葉の体をすり抜ける。すれ違いざま、青葉の狂気に思い切り耳を叩かれる。

 パキン、と最後の鈴が砕け散る。

 途端、腐汁を吸って腐った床が抜ける。避けた木材の牙が太ももを裂く。貫く。

「あうっ……!」

 肉を感覚に声が漏れる。しかし、みずなは手を伸ばす。

 青葉の虫這い回る躰に。その頭に。

 おぞましいもぞもぞする感触が手のひらを撫でまわす。揺れた亡骸からぶわぁ、と一斉に虫が飛び立つ。

 哄笑が降ってくる。

 みずなは青葉の頭を引き寄せる。ずるりと液体質の音がして、青葉がみずなのそばに来る。

 届く。みずなは青葉の顔面に這い回る蛆をばっと払う。かつてきれいな桜色だった、今は見る影もない灰茶色の唇があらわになる。

 みずなは深呼吸する。青葉の匂いで胸を満たす。

 青葉が、ここに縛られているならば。

 縛られた青葉のルーツとは、それしかないはずだ。

 みずなは青葉に顔を近づける。蛆をもう一度払う。

「青葉ちゃん、大好きだよ」

 そうして一息に、みずなは青葉の唇に沈み込んだ。

 ずちゃ、と唇に粘質の感触がしみ込む。

 戻ってきた蛆がじわりじわりと唇を這い登ってきて、もぞもぞと唇がかゆくなる。青葉を引き寄せようとすると、腐りはてた肉に手が食い込んで虚しい感触だけが返ってくる。

 それでも、みずなは一心に青葉の唇を求めた。

 それが、みずなの勝算だった。

 思い出を想起することで、みずなは元の世界に戻って来ることができた。

 ならば、どこかへ行ってしまいそうな青葉をここに引き止めることも、出来るのではないか。淡い期待を、そこにかけた。青葉の記憶をもっとも揺さぶれるとすれば、それは最初のキスの再現。心のルーツに飛ばされた青葉がここにいたということは、つまりそういうことだ。

 それに、肉体と霊体は、死んでしまった後でもわずかに繋がっているのではないか、とも少し思っていた。あの日の優しい感覚が少しでも伝わればいいと作り上げた、荒唐無稽な願望かもしれなかったけれど、全く無関係だとはどうしても思えなかった。

 この口づけで、二人は始まりの関係に戻る。そう確信していた。

 ゆっくりと目を閉じて、青葉の唇をなめ上げる。酸っぱい青葉の体液をなめとる。ぐらぐらになった前歯を押す。かつて青葉が、みずながそうしていたように。

 記憶を、思い出をなぞる。二人だけの時間を、追体験する。

 青葉との思い出が一つ一つ浮かび上がってくる。その青葉一人一人に、伝えられなかった忘れていた想いを、唇に乗せて送り込んだ。

 そこにいてくれて、ありがとう、と。

 私も、好きだよ、と。

 そうして長い時間を追体験しているうちに、狂気の笑い声はいつの間にか止んでいた。

 そして最後には、

「……な、みずな!」

 慌てた呼び声に変わった。

「みずな! 馬鹿! 何やってんの! 馬鹿!!」

 目を開けて、唇を離す。腐汁と唾液が名残惜しそうに糸を引く。

 ぼう、と顔を上げると、平手が飛んできた。それはすり抜けて向こうに行ってしまって、代わりに焦燥した青葉の美貌が目に飛び込んでくる。

「馬鹿! 吐いて! 全部! 出しなさい!」

 肩に手を掛けようとして、青葉はまた勢いをつけすぎてみずなの体に沈み込む。その様子に吹き出しそうになったのを、みずなは堪えた。

「青葉ちゃん」

 言われたとおりにつばを吐きながら、みずなは微笑んだ。

「青葉ちゃん、戻ってきてくれた」

「嫌でも落ち着くよ! 何やってんのほんとに! 何でこんなこと……!」

 呻く青葉に、みずなは。

「だって、好きだからだよ。キスはそう言う行為で、青葉ちゃんの記憶に刺さるかと思って」

「な……馬っ鹿、もう!」

「効果があったみたいで、良かったよ。お帰り、青葉ちゃん」

 床に咥えこまれた足をそっと引き抜いて、みずなはその場に座りなおした。

 青葉は足の裂傷をみて、息を詰まらせた。

「みずな、それ……」

「大したことないよ。ちょっと痛いけど、このくらい、なんてことない」

 みずなは青葉と視線を合わせて、彼女の困惑を優しく包み込む。

「青葉ちゃんはずっと、胸が痛かったでしょ。こんなもの、比べ物にならないくらい。好きってそういう気持ちだもんね。ごめんね、青葉ちゃん」

 青葉を抱き留められるように両腕を広げて、みずなは笑う。

 穂乃果が見せる何でも包み込むような笑顔には、到底及ばない。ただ、それでもかまわないのだ。何もかもを受け入れる必要はない。

 みずなは、今は青葉だけを受け入れればよくて、この先もしばらくはそうなのだから。

 青葉は驚嘆の顔から次第に表情を皺くちゃに崩していって、

「みずなぁ……」

 みずなの胸に顔をうずめて肩を震わせていた。

「ごめんね、私、みずなと一緒にいたくて……置いて行かれるんだと思ってぇ……!」

 青葉の顔が少しだけ胸に埋まっていたが、その様子には、不思議と笑いはこみあげてこなかった。

「うん。分かった。落ち着いたらいろいろ聞かせてね」

 みずなの名前を切れ切れに呼びながらすすり泣く青葉の頭に、そっと手をかざす。彼女の豊かな暗めの茶髪を撫でる。触れた感じはないけれど、きっと伝わっているだろうと頷く。

 泣くほど悲しんでいる相手には言葉は不要だと、穂乃果はリハビリの間にやってきて言ったものだった。その通りだと思う。自分の声で手いっぱいで、人の声なんか聞こえやしないのだから。溺れてしまわないように、手を差し伸べるだけでいいのだ。

 嗚咽が収まってきたころを見計らって、みずなは言った。

「青葉ちゃん、ごめんね」

「うん」

「そして、お帰り」

「うん」

「それで、大好きだよ」

 かつてこの部屋でそうしたように、答えが聞けるかと思ったけれど、帰ってきたのは大粒の泣き声ばかりで。

 みずなはそれに、心底安心したのだった。

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