第9話

「ああ、いた。病院まで付いて行ったのかと思ったよ?」

 優しい声が降ってくるのに、青葉は顔を上げた。

「どうしたの? そんなところで。お家入ろうよ」

 みずなの微笑は、夜闇の中にあってやはり輝いていた。

 で、あるからこそ。みずなが近づくにつれ、青葉の心は再び揺れ出す。

 このそこはかとない安心感は、『強い思い』とやらに入るのだろうか。だとすれば。

「待って、みずな!」

 鋭く声をだしたけれども、その危機感はやはりみずなには伝わらず、

「何を待つの? もう日付変わったから、法要しなきゃ」

 みずなは青葉に合わせて屈みこんだ。眩しい笑顔だった。

「みずな……、何ともない?」

 青葉は周囲を見渡した。特にこちらに向かってくる物はない。落ちてくる物もないし、足元も盤石だ。

「何が? 一体どうしたの? 青葉ちゃん」

「ごめん、なら良かった」

 ため息を吐く青葉に、みずなは首を傾げた。

「何が? 青葉ちゃん」

「何でもない。法要って何するの? 早く終わらせちゃお。もう十二時回ってるんでしょ? 明日もテストだし、早く寝なきゃ」

「それはそうだね」

「ごめんね、待たせちゃって。寒いでしょ」

「気温十度だって」

「一気に寒くなったね」

 部屋に戻ると、ちゃぶ台の上に茶碗が一つ置かれていた。ご飯が山盛りに盛ってある。

それを挟んで、青葉とみずなは正座した。

 みずなは箸を一膳取り出して、おもむろにご飯に突き立てた。

「……これで、湯気が立たなくなるまで待つんだって」

「それだけ?」

「私が知ってるのはね。パン党の人向けのもあるみたい」

「簡単だね」

 冷え切った室内の空気は、急速にご飯の熱を奪っていた。

「で、お隣は何があったの?」

「要点だけ言うと、隣のヤンキーの足に包丁が深く刺さってた」

「ああ、間違いなく痛いし、歩けないね……。これも、コワいになるのかな」

「うん。間違いない。怖いよ」

「そっか。なんか、コワい一つでも大変だなぁ……、あっ、もう大丈夫だね」

 すっかり冷めきったご飯を、みずなはさっと手に取った。

「これを私が食べて、完了っと」

 もそもそと白米を口に運ぶみずなを、青葉はじっと見つめていた。

 この儀式を、みずなは知識として知っている。彼女の家族を見送った時のことだ。

当時のみずなは、白米を口に運ぶだけの簡単な儀式を経るにつれて、直視に耐えないほど衰弱していったものだった。

 一方で、今のみずなには辛い気持ちはないんだろう。記憶が無くなってしまったわけではないはずだから、きっと家族のことを思い出してはいるに違いない。ただ、記録として。まさか家族のことまで忘れてしまっているとは、思いたくもない。

 ともかく、記録にくっついてくるはずの感情は、置いてけぼりで。

 今、こうして別れゆく私についても、きっと何も感じていないんだ。

 それを思って、青葉は悲しくなった。

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