第5話

 その間、青葉は再び穂乃果を訪ねていた。

 境内の掃除に出ていた穂乃果は青葉に気が付いて、上がっていくように促した。

穂乃果はその時も優しい、底はかとない安心感を与える微笑を浮かべていたが、今はそれが少し癇に障る。

「あらあら、一人? 『お友達』は一緒じゃないのかしら」

 お堂に通された青葉は、穂乃果と座布団二枚分の距離をとって座った。膝の先には、飲めやしないのに湯気の立ったお茶が供されている。

「ええ、『お友達』です。それ以上でも、それ以下でもありません」

「巴さんにとっては。そうでしょ?」

 穂乃果は泰然と答える。声音は温かでも、切り込み方は鋭くてまっすぐだった。

「……私の、何が見えてるっていうんですか」

 とげとげしい口調になってしまうのを、青葉は改めようともしなかった。

 穂乃果はくす、と柔らかく笑って、お茶を一口飲んだ。

「大したことじゃないわ。あなたよりちょっとだけ長く生きて、あなたよりちょっとだけいろんな人と触れ合っているだけ。職能って奴かしらね」

 湯呑が盆に触れ合って、小さな音を立てた。

「あとは、あなたとは同じ穴のむじなだから、かしらね」

「……?」

「私もかつてそうだった。だから、っていうのもおかしな話だけど、今はこうして、尼としていろんな人を救ってあげようとしているの。ほとんど、罪滅ぼしのようなものね。だから、私にあなたを糾弾する権利はない。それに人の考えを無理やり矯めるのは、教義に合わないわ」

 自分の喉が鳴る音が嫌に大きく聞こえる、と青葉は思った。

「だから、忠告だけする。巴さんの幸せを想うなら、その願いは捨てなさい」

「……どの願いですか」

 穂乃果と目を合わせると、彼女の視線は冷たかった。

探るような目つきで、穂乃果はじっとこちらを見ている。そしておもむろにため息をついて、

「あなたは、四十九日の力で巴さんに愛情を植え付けようと思っている。そうでしょ?」

「っ……!」

 そのものずばりを言い当てられてしまって、青葉はたまらず目を逸らした。

穂乃果の鋭い視線から逃れようとしたのに、目をやった先の畳の目までが、こちらを睨み付けている。

「……五分五分位だったけど、図星みたいね」

 穂乃果はもう一口、お茶を口に含んだ。

「確かに、そうすれば巴さんはあなたを好きになる。その願いが聞き届けられるとき、あなたはいなくなってしまうけれど、それでもいいと思っているんでしょう?」

「……」

 沈黙は、肯定。

「でも、実行していいと思う? 結果として本懐は遂げられる。でもそれは、恋愛というものの本質に照らして、許されることかしらね」

「……許されないとして、今更後戻りはできません」

「後戻り、ではないわ。あなたはまだ進んですらいない。自分の想いに打ち付けられて、動けずにいるだけよ」

「動いています。私は」

「それは、もがいているというの。痛くて苦しいのは楔の刺さった傷口が焼けるせいよ。あなたも分かっているんでしょう? 別の道を、求めるべきじゃないかしら?」

 今朝感じた居心地の悪さが、穂乃果によって明確な言葉になって、青葉を貫く。

 ぐさり、ぐさりと心を抉るそれは、確かに灼ける様に不快だった。

やり場のない怒りが頭を過熱する。

――そんなことは、痛いほど分かってる……!

その矛先は穂乃果に向いた。

「……うるさい、知った風な口を利くな。みずながどんな状態かも知らないくせに。私にだって、それに頼らなきゃならない事情があるんだ……!」

 感情の第一陣が吐き出された。いつの間にか立ち上がっていたことに青葉は気づく。

「そう、事情……ね」

しかし、穂乃果はため息一つであっさりと青葉の渾身の怒りを受け流した。

そして、一拍置いて、睨み付けられた。

「知らないわ、そんな事」

青葉はその時初めて、穂乃果は笑顔を努めて作っているのだと知った。

吐き出された一言に背筋が凍る。間近で見る穂乃果の真顔は、たれ目とたれ眉が与える穏やかな印象を塗りつぶして有り余るほど威圧的だった。

「そっくりそのまま、お返しするわ。知った風な口を利くんじゃない。届かぬ思いを抱かせ続けること。それがどれほど罪深い事か、彼女を苦しめ続けることか。消えゆくあなたにはわからないでしょうね。分からないと思うから、教えてあげる。それは巴さんを必ず不幸にする。やめなさい」

 静謐なお堂の空気が、穂乃果の冷厳な威圧感に引きずられて凍てつく。

 感情が急速に冷めていく。繋がった視線を通して、こちらの熱がどんどん奪われていく。

 青葉は力なく、視線を落としていた。

 湯呑みが盆に置かれる湿った音が、遠くに聞こえる。

 怒りの残滓が冷え切って、胸を焼きながら今度は目頭に殺到していた。

まずいと思っても止められなかった。気づいたときには一筋涙が零れていた。

「……そんなこと、分かってる」

 青葉の嗚咽が、静寂を破る。

 穂乃果の言う通り、傷口が熱をあげて心を焼いていた。

みずなが家族とともに感情を失った日、みずなと青葉の関係性もまた失われた。

 今まで恋仲だった相手が、突然ただの知り合いに戻っていた。 

その喪失が胸を締め上げていない瞬間は、生きていた頃も、死んだ今も無い。

「分かってるけど、そんなの、納得できない。届かない私の思いはどこに行きつくの? 好きな人の心に欠片でも残りたいって思うことが、そんなに悪いことなの? みずなの家族が死んでなければ、四十九日でみずなの気持ちを持っていかなかったら、こんなことしない」

 慟哭が次から次へと湧き出してくる。過熱して膨張した心がしぼむのに、合わせるように。

「納得できない。あんまりだ。あんまり……」

 青葉の嗚咽だけが、凍てついた空気を震わせる。

 穂乃果はずっと、黙っていてくれていた。


 顔を上げると、穂乃果は柔和な表情に戻っていた。

「……ごめんなさい、ちょっと熱くなっちゃったわね」

 青葉の沈黙をどうとらえたのか、穂乃果は正座を組み直して、少し身を乗り出した。

「自分の経験だけで頭ごなしに物を言ってはいけない、と言われてきたし、常々思ってはいるのだけど……、ごめんなさい、我慢できなかった」

「はい」

「あなたにはあなたの経験があって、世界がある。そこから生まれた判断が、世間様の道徳とずれていることは、重々承知なのね?」

「……はい」

 青葉が何とか頷くと、穂乃果はほっとした様子で息をついた。

「……それが自覚出来てるって分かって、ひとまず安心。決して、決して忘れないようにね。その感覚を」

 諭す寂しげな声との距離が、一瞬縮まったような気がして、顔を上げてみると――当然のことだが――穂乃果は座布団二枚分向こうに変わらず正座していた。

一見出会った時と同じ笑顔だった。しかし青葉はそこに、かすかな憂いの気配を感じ取る。

「……同じ穴のむじな、って」

 ふと思い至って、青葉はそう訊いてみた。

「そうよ。ちょうどあなたくらいの頃だったかしらね。同じ女の子に恋をして、その娘はいなくなって、私の気持ちだけ置いてけぼりだった。そのまま燃え尽きて死ぬものだと思ったけれど……、とりあえず、こうしてあなたとしゃべってる。だから、あなたの気持ちも普通の人よりは分かるつもりでいるわ。少し傲慢かしらね」

 そう言って、穂乃果は立ち上がった。

「そろそろ巴さんのご用事が終わるんじゃない?」

 青葉はちらと腕時計を見た。時刻は九時三十四分で止まっていた。

「……すみません」

「いいのよ、若い子の悩みを聞いてあげるのも、お寺の仕事だし……、それに、これは私にしかできない仕事だわ。私なんかで良かったら、いくらでも聞くわよ」

 穂乃果はやはり柔らかに笑う。

彼女の微笑みに感じていた不快感は、完全に消失していた。

無機質な拒絶でも、軽薄な嘲笑でも、上っ面だけの同調でもなく、穂乃果は共感できると言った。頭でっかちの哲学なんかによってではなく、体験に基づいて。

同性への愛情を、彼女は抱いたことがあるという。二十年弱の人生を過ごして、ただの一人も出会う事のなかった存在。

目が再び潤んでいくのを青葉は堪えた。

「……また、来てもいいですか。色々と」

「ええ、いつでもおいでなさい」

 穂乃果はただ笑ってくれた。

 青葉も目の端に残った涙をぬぐって、それに応えた。


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