第1話 命日 (十一月十二日~)

大学から帰った巴みずなが戸口に立って鍵を回すと、サムターンがいつも通り、かちゃり、と軽快な音を立てて部屋の主を迎え入れた。

出迎えるのは今朝出た時のままの玄関。履いて出る靴の他は片づけるようにしているから、つまりそこには何もない。

広い土間で履き込んだスニーカーを脱ぎながら、みずなは大きく息を吐いた。

心地よい疲労とともに、今日が終わる。十一月十二日が終わる。

そしてやって来るのは、十一月十三日。楽しい明日だ。

鼻歌交じりのステップは、ユニットバスへの扉と一口しかないガスコンロの脇を通り抜けて、居室へと躍り出る。勝手に明かりが点いて、整然と片づいた部屋が照らし出される。

かばんを置きながら、中学校にあったようなシンプルで見やすい壁時計を確認。

「十時! 間に合った!」

 テレビを点けると、期待した通りちょうど壮年の男がお辞儀をしているところだった。スーツの似合う彼は、国営放送の名物司会だ。みずなは欠かさずこの番組を見ている。

着替えを済ませ、夕食のパンを焼いて戻ってくると、番組にはゲストが呼ばれていた。社会学者と言う肩書を表すかのように、濃い茶色のジャケットを自然に身にまとっている。老齢と呼んでも差し支えない男だ。

『……すると、誰とも係わりのない独居老人の方々というのは、死後誰にも供養されずにこの世へ留まってしまうことになりますね』

『はい。まぁ、ご老人には限りませんが……。そう言った霊体は次第に引力を強めていきますから、多角的な対策が必要になってくると思います』

『と、言うと?』

『直接的な例では、住職を増やせばそう言った不幸な霊体を送って差し上げることも出来ます。しかし、それは対症療法にすぎませんから、やはり薄れつつある社会の縦横のつながりを取り戻すような、ソーシャルな場の提供が必要と言えるでしょう』

『そう言ったことをご専門とされている宮本さんの視線で、今の社会は……』

「……うんうん」

 ぬいぐるみを抱き、みずなは身を乗り出す。専攻する法学の領分に話が及んでいたからだ。

 独居老人をはじめとする身寄りのない人間が最後に迎える、孤独死。それはここ十年ほどの間に、社会問題としてじわじわと顕在化していた。

 問題があるのなら、解決しなければならない。法学の仕事はそのプロセスの中にある。対策に必要なルールを明文化すること、そして正しく運用されているかどうか判断すること。要するに白黒つけることだ。みずなはそれが得意で、法学を進路に選んだ。

『……それでは、宮本さん、ありがとうございました』

 カメラが再び司会を大写しにした。番組は次のトピックに移ろうとしている。

『続きまして、全国のニュースです……』

 司会が手元の紙をめくった。マイクがその音を拾う。

パラリ、と乾いた音。みずなはニュースが好きで、この音が大好きだ。

読み上げられる内容に期待が膨らんでいく。

そんな瞬間だった。みずなを驚かせた声が飛んできたのは。

「よ、みずな。三日ぶりだね」

背後から、澄んだ芯の強い声。

それは随分長いこと聞き馴染んだ声だった。不意を突かれた驚きがこなれて来て、みずなは顔をほころばせる。

振り向くとやはり、よく馴染んだ顔があった。

「ああ、青葉ちゃん。戻って来てたなら言ってくれればよかったのに」

小日向青葉。巴みずなの幼馴染にして、無二の親友だった。

体側にぴっちりと這う深い青色のタートルネックが、彼女の油断なく洗練された肢体を強調している。ため息と共に、縦巻きに緩めのパーマがかかった茶髪がなめらかに揺れる。

やや切れ長の鋭い目つきをした小顔は自然なメイクに彩られて、彼女の年齢よりも幾分か落ち着いた雰囲気を漂わせている。

「駄目だよ、そんな無防備じゃ」

 みずなの額を指さして、やれやれと肩をすくめるのも、自然と様になっていた。

「ありがと。気を付けるね。またうちで暮らすことにしたの?」

 みずなは笑い返して尋ねた。

大学入学を機にこの部屋を共有していた青葉は、ここ三日ばかり、家を空けていた。

それそのものは、とっくにみずなの中では片付いていた。きっと、こちらに住民票を移すために借りたというアパートに戻っていたのだろう。

なんてことはない気まぐれだと思っていた。だから、青葉がさくっと頷いて、また何となく同居が始まるのだと確信していた。

しかし青葉は、

「んー、まぁ、近いかな」

 斜め上に視線を泳がせながら、歯切れが悪い。

概ね、肯定。しかしわずかな、確かな否定を含んだ答えだ。

みずなは首を傾げる。先の確認には、少しだけ現実と相違することがあったということ。同居するかどうか、に対してのそれは一体なんだろう。

 けれど、みずなはそれよりも先に、

「……そういえば青葉ちゃん、どこにいたの?」

もっと現実的で、物理的な違和感に手を付けた。

 赤外線を使った人感センサーによって廊下と部屋の明かりが点灯するのを、みずなは確認した。ユニットバスの方も、明かりが付いていれば気づくはずだった。青葉が使っていた部屋の襖は開け放たれていて、こちらの部屋から差し込む明かりでわずかに照らされているばかり。

即ち、この狭いアパートに入った、体温を持つ生物はみずなだけということ。

それに、そもそもの話、扉は施錠されていた。青葉も当然鍵を持っていたことがあったが、三日前出て行った時に、確かに返却されていた。

「あー、いや、えっとね……」

 青葉はまたも歯切れが悪い。

みずなは状況を整理する。無意識に下唇へ右手の人差指が伸びる。

 体温を持たない青葉。扉を無視する青葉。

「あ」

 さっきまで流れていた番組が触媒となって、状況同士が電撃的に繋がる。

ぽん、と手を打って、みずなは頷く。

「もしかして、死んじゃった? 青葉ちゃん」

 赤外線センサーも、物理的な障壁をも、青葉が難なく通過できる状態が一つだけ存在した。

 魂の具現。霊体である。生前とほとんど同じ姿を取り、親しい者のところへやって来る。人生の最後の形だ。

状況証拠は、青葉がそうなったと示している。

「どう? 死んじゃったの?」

 念を押してみると、青葉はため息交じりの笑いを浮かべた。

「もうちょっと言い方……、まぁ、そうね。死んだ」

「やっぱり。お父さんたちもそうやって私のこと驚かせてきたもん。じゃあ、青葉ちゃんも、<四十九日>しに来たってこと?」

 みずながそう朗らかに尋ねると、青葉は苦笑しながら首を振って、みずなに向きなおった。

「そういうこと。頼める?」

「おっけ。任せといて」

 みずなは即答する。

<四十九日>と呼ばれる儀式は、七日おきの法要を七回、その名の通り四十九日の間行われる。この世に留まる霊体を旅立たせるための、最後の手向けである。

人生で一度きりのセレモニーだ。青葉はそれを、みずなにして欲しいと言っている。

「ありがとう青葉ちゃん。私にやらせてくれて」

喜ぶなというのは嘘だ。何と言ったって、人生最後の、唯一の時間をくれるというのだから。

 青葉の両手を取ろうとみずなは手を伸ばした。ほっそりとした手の甲に触れるかと思っていた手のひらは、しかし何の感触もなくそれを突き抜けてしまう。

 青葉の手の甲から、みずなの手首が唐突に生えている。お互いインドア同士の、生白い肌のつなぎ目は、しかし手入れの差が如実に出てくっきりとしていた。

「青葉ちゃん……肌つやつやだねぇ」

 うらやましさが先に出た。そして次第に、光景の非現実さが頭にしみこんでくると、

「……ぷっ、あはははは!」

 気づけばみずなは吹き出していた。弾む肩から振動が伝わって、腕が揺れてもみずなには何の感触もない。その視覚と触覚のミスマッチがくすぐったくて、おかしくて、目の前の青葉をよそに笑いが堪えられない。

そんな大笑いするみずなを見つめる青葉はと言えば、どこか俯き気味だった。

「……サンキュ。じゃあ頼むね」

みずながひとしきり笑い終えるのを待って、そう疲れた声で言う。

 みずなは目の端に浮いた涙をぬぐって、まだ少し肩を震わせながら頷いた。

「明日お寺さん行こうね。近所にあってよかった。行ったことあったよね」

 そして可笑しさでうるんだ瞳が、きゅっと弓なりに優しく細められる。

「最後に会いに来てくれて、嬉しいよ」

「うん。私もみずなに会えて、本当に良かった」

 何とか微笑み返しながら青葉は頷く。

ふわりと、心のほんのうわべだけを浮かべた格好だ。

 ――これで、とりあえず終わり、か。

 漏れ出してしまった小さなつぶやきは、テレビから突如湧き出した歓声にかき消された。

 新しくできた遊園地の、楽しげなリポートだった。

 目を輝かせて管理者へのインタビューを見つめるみずなの背中を、青葉はじっと、見つめていた。

 ――みずな、ありがとう。ごめんね。

 青葉の目がうっすらと潤んだのに、みずなはニュースに夢中で、気が付くことはなかった。

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