第2話 二人か、一人か

 結人ゆいとが案内したのは満潮した時の海水がたまって残る、潮だまりのある場所だった。

 先ほどいた場所よりも海岸には大きめの岩が目立ち、その岩の間に水が溜まっている。

 何人か入れるほどの大きさがある一方、潮だまりの深さはさほどないように見えた。


「あら」


 潮里しおりは何かを見つけたのか、足を止めた。その手が、結人から離れる。彼女の視線の先には、海岸をちょこちょこと動き回るヤドカリがいる。


「可愛い」


 身をかがめて潮里は、それを見つめている。


「……ここだったら、水の深さもそんなにないし波もないから、靴を脱いで入れば服を汚さずに入れると思うよ」


 潮里の様子を見ながら、遠慮がちに結人は言葉を挟んだ。


「気遣ってくださったのですね。ありがとうございます」

「綺麗な服だから、その方がいいかなって」


 潮里のスカートには繊細な花の刺繍が入っていて、どう見ても高価そうだった。海に来るべき格好ではないのは明らかだった。

 潮里は服装といい、言動といい、先ほどから引っかかるものが多い。まるで何かを隠しているように見える。

 だが同時に、それは自分も変わらないな、と結人は思った。人のことは言えない。

 潮里は傘をそばに置くと、潮だまりに身を乗り出し水の中に手を入れた。チャプッと小さな音がする。

 その音を聞いて結人は驚き、潮里の横に並んだ。

 潮里は海水の中で両手を動かし、小さな音を何度も立てている。潮だまりに映った潮里の顔は、楽しそうだ。


「ふふ、いいですね。たまにはこういうのも」


 そう言うと潮里は立ち上がった。そのまま、


「えい」


 潮だまりの中に、足を踏み入れた。

 水深は、彼女のふくらはぎより少し低い。当然靴が濡れるわけだが、潮里は靴が濡れることを気にしていないかのようだった。


 潮里はそのまま跳ねるように歩いた。歩くたびに、ポチャンと音が鳴る。

 膝丈ほどのスカートが、彼女の動きにあわせてひらめく。水しぶきで服が濡れているような気もしたが、彼女は一向にかまわないようだった。

 そんな潮里を、結人は不思議そうに見つめた。

 水面に映る彼女の姿と水の音は、潮里が確かにそこにいることを示しているのに、ほんの少し目を離すと彼女を忘れそうになる。不思議だ。

 結人はそんな彼女を見ながら、問いかけた。


「……もしかして、らない配慮だった?」

「いいえ、気になさらないでください」


 動きを止めると潮里は振り返った。スカートと髪が同時に翻る。その動きが結人の目に焼き付く。


「私、海に入るのは少し怖いので。このぐらい、穏やかな方がちょうどいいです。だから、楽しくて」

「海が、怖いの?」

「……少し」


 何でもないような様子で、潮里はうなずいた。


「少し、だけ」

「……そっか」


 結人はほんの少し目を細めながら、言葉を返した。実を言うと、結人自身も海はあまり好きではなかった。


「それよりも、訊きたいことが」


 潮里は潮だまりの一点を見つめながら、問いかけた。


「ここは、よく人が来るのですか?」

「なんで、そんなこと訊くの?」


 結人はそう返すと、潮里は自らが見つめている方向を指さした。

 それは、潮だまりのそばにあるやや平らな岩で、その上にいろんな種類の貝が円状に置かれている。明らかに人為的と思われる置き方だった。


「――。ああ、それは多分子供が置いたんじゃないかな。数日前ぐらいに親子連れが来てたから。地元の人は、わりと来る場所なんだ。ここ」

「なるほど」


 うなずきながら、潮里は貝の置かれた場所に近づいた。

 その中の一つ、ピンク色を帯びた薄い貝を手にした。そのまま、それを太陽の光に透かす。


「綺麗」

「気に入ったのなら、持っていけば?」

「それは……できませんね。残念ですけど」


 潮里はそう言うと、貝を元の場所に戻した。


「そういえば、あなたは入らないのですか?」


 彼女からの誘いに、結人は大きく首を横に振ってみせた。


「……いや、僕はいいよ」


 困ったような顔で、結人は答えた。

 潮里はそんな結人を不思議そうに見つめた。


「そうですか?」


 彼女は、そのまま結人に近づいてきた。


「うん、別にいい」


 結人は自分でも気づかないうちに、潮だまりから距離を取っていた。


「わかりました。……ならそろそろ、私も出ましょうか」


 潮里はそう言うと、潮だまりから出ようとした。出ようとして、何かにつまずいたのか、


「きゃあっ!」


 バランスを崩して転びそうになった。潮里の叫び声が、周りに響いた。

 結人は、反射的に彼女の手をとって支えようとした。バシャンと大きな水音がして、潮里はどうにかその場に踏みとどまった。


「ふう……。すみません、ありがとう」


 潮里は結人の手を取ったまま、頭を少し下げた。そのまま、足元を探るように視線を下に向ける。


「何かにつまずいたみたいで……。突き出た岩かしら?」

「まあ、転ばなくてよかったよ」


 結人は言いながら手をつかんだまま、潮里を外に出るように誘導した。

 彼女は結人の手を支えに、今度は慎重に外に出た。

 小さな水音を立てて、潮里は潮だまりから無事に出た。結人は彼女から手を離すと、彼女が岩に立てかけていた傘を手に取り渡した。


「すみません」


 潮里は小さく礼を言うと、傘を受け取った。その時、


「嬢ちゃんかい? 今の声」


 二人が来た方向から、先ほどまで向こうの方で釣りをしていたはずの男性が現れた。

 急いで来たのか、少し息を切らせている。慌てた様子だ。

 結人はその男性が潮里を見ていることに気づき、押し黙った。視線を二人からそらす。


「はい、そうです。足を滑らせてしまって。けがはしなかったので、大丈夫です。わざわざ来て下さり、ありがとうございます」

「そうか、ならいいけど。気を付けなよ」


 男性は、かぶっている帽子を整えた。


「一人じゃ危ないだろ」

「そう、ですね」


 結人をちらっと見ながら、潮里はうなずいた。


「服もそれ、海に来る格好じゃないだろ」

「はい、すみません。この服、気に入っているもので」

「それなら、なおさら着たらダメだろ」


 男は、言い聞かせるような強い口調で続ける。


「安全には気を付けてくれよ。頼むから。……また、事故でも起きたら困るだろ」

「……はい。そうですね。うかつでした」


 表情を曇らせると、潮里は頭を下げた。


「すみません、もう帰るので」


 謝る彼女には、先ほどの笑顔などみじんも残っていない。長いまつげに飾られた目は、深い悲しみを帯びていた。


「失礼します」


 彼女はそう言うと、空いている手で結人の腕をつかんだ。


「え、あの」


 結人は何かを言おうとして、彼女の真剣な表情に気づいた。そのまま口を閉じる。

 潮里に引っ張られるままに、結人は彼女と共にそこから去った。

 そんな二人の背を追うように、男性は顔を二人が歩いていく方向に向けた。潮里は速く歩いており、その背はどんどん小さくなっていく。


「……まったく。今どきの子は、何考えてんだかわかんねえ」


 そう言う彼の眼には、の姿しか映っていなかった。


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