第5話 交わす名前

 女の眼が煙羽えんうの間近に迫る。落ちた日のように、どこまでも暗く悲しげな目だ。

 煙羽は彼女の目から、視線をそらすことができなかった。

 彼女の想いが煙羽に強く流れ込んでくる。その強さに煙羽は思わずひるみ、自分の想いが彼女に負けていることに気づいた。


 女と煙羽の手が重なる場所から白い光が立ち上った。葬送が、幽魂ゆうこんの意志で始まろうとしているのだ。

 女の未練は、最期は誰かと一緒にいたいという願いだ。それが果たされようとしている。煙羽を引き連れていくことによって。

 正確に言えば、影浪かげろうである煙羽は冥界には行けない。彼はこのまま行けば、影の世界にたどり着いた瞬間に消えてしまうだろう。


 抗いながら、煙羽は内心で後悔していた。影の世界にまで伝わるほどの想いだ。影浪としてまだ若い彼にとっては、強い幽魂に決まっている。油断するべきではなかった。

 煙羽は必死に右手の銃を撃とうとしたが、手には力が入らない。銃を握っているという感覚も薄れていく。


『――影浪としてり続けるという想いが弱ければ、存在がすぐに揺らいでしまう。想いがなければ、存在できない。それはよくわかっているはずだ』


 先ほど死神に言われた言葉を、煙羽はぼんやりと思いだした。二人を包もうとする光が徐々に強くなっていく。

 まるで、こうなるのがわかっていたかのようだ。死神があのようなことを言ってきたのは。予感があったのかもしれない。死神だ。終わりというものに敏感だとしても、不思議ではない。


(……俺が、影浪として在る意味)


 薄れていく意識の中で、煙羽はそれを考えようとした。なぜ自分は影狼として存在することを選んだのか。忘れたわけではない。

 彼の脳裏に、あの日、彼を止めようとした少女の顔が浮かんだ。

 この世にいる意味などない、そう思っていた自分を最期まで気にかけた人。愚かなことに、死ぬ間際になって彼はそれに気づけた。だから。



(……そうだ。俺は)


 煙羽の右手がかすかに動いた。その中でも、彼と女の体は徐々に薄くなっていく。

 状況を見ていたワタリは、煙羽が抗いきれないことを見て取ると、意を決して煙羽に向かい翼を広げた。


「煙羽、引っ張られては駄目です!」


 ワタリは煙羽のそばまで飛んでくると、女に向かって両足を突き出した。女はワタリの蹴りを腕に受けて、そのはずみで煙羽から手を離した。


「きゃあっ」


 女は声を上げながら、地面に膝をついた。煙羽も体勢を崩して地面に手をつく。

 白い光がやみ、二人の体も徐々にはっきりしてくる。一応は止まったようだ。


「想いを強く持ってください」


 ワタリは煙羽のそばに着地すると、彼に声をかけた。

 そんな煙羽の眼は、ワタリではなくずっと正面を向けられている。何かを見ているわけではない。何かを、じっと考え込んでいる眼だ。


「あいつが、せめて死ぬまでは――、現世ここに在りたい。それって、弱い想いなのか?」


 誰に問うわけでもなく声を出す。彼は、そのために影浪となることを受け入れたのだった。

 それが彼女の想いに死ぬ時まで気づけなくて、彼女を傷つけた自分が、彼女のためにできることだと思ったから。


「……違うな」


 煙羽は、静かにワタリに目を向けた。


「自信がないんだ。想いは決まってるのに、死神には言えなかった。自信が足りないんだ。自信がないから……俺はいつまでも弱いままだ」


 女がゆっくりと身を起こし始める。再び、葬送する気だろう。時間はあまりなかった。


「それで、いいのではないですか?」

「よくねぇよ、現に今俺は消されかけてる――」

「あなたはお二方と違い、自分から自分を終わらせた。そうして影浪になった。だから、自分という存在があることについて、自分のしていることにたいして、自信が持てないということは道理ではないでしょうか?」


 ワタリは、静かに言葉を継いでいく。


「でも、そんなあなたにもできることはある。あなただってわかっているはずですよ」


 ワタリは女に顔を向けた。


「彼女の、あの苦しみをとけるのはあなただけです。彼女と同じように自分を終わらせたあなただからこそ、できることがあるはずです」

「…………」


 立ち上がり彼に向かってくる女を、煙羽はじっと見つめた。


「あんた、寂しいんだよな」

「うん、だから」


 わずかに微笑みながら、言葉を返してくる女に、煙羽は銃口を向けた。それを見て、女は動きを止めた。


「……悪いけど、俺は逝けない」

「どうして……?」

「俺はそもそも、あの世には逝けないんだ。あんたと違って、世界からも見放された存在だから」

「…………意味が、わからない」


 女のつぶやきに煙羽は、薄い笑みを浮かべた。


「だよな、俺もわかんねえ。……とりあえず、俺はあんたと一緒に逝けない。それに、俺はまだ、現世ここにいないといけない理由があるんだ」

「そう……」


 女は落胆したように、肩を落とした。


「でも、あんたのことも放ってはおけない。死んでもなお、孤独でいるあんたを。だからな、聞いてくれ」


 煙羽は構えた姿勢のまま、語り始める。その目は何かを決意したように、強い光を宿している。


「俺は、あんたをあの世に送りに来たんだ。冥界めいかいに行けば、あんたは全てを忘れて、孤独から解放される。そうすれば、あんたも苦しまなくて済む」

「でも……、最期まで私は一人ということでしょう。それなら――」


「一人じゃない」


 煙羽は、努めて優しい声を出した。


「あんたがあの世に逝くまでは、見守ってやる。最期まで見ててやる。俺は今ここであんたと一緒にいるだろ。それに可能な限り、あんたのことも俺が覚えててやるよ。そうすりゃ、あんたも寂しくないだろ」

「……」


 女は首を少しかしげながら、煙羽を見つめた。その目から、ほんの少し憂いが消える。


「……そっか、そうなのかもね」


 彼女は、小さくうなずいた。


「君が消えたら、その鳥さんも悲しいだろうし。寂しくなっちゃうよね?」

「ええ、まあ……」


 女に尋ねられた、ワタリは戸惑いながらもうなずいた。幽魂には、ワタリの声は言葉として届くのだった。


「寂しいのはいやって、よくわかってるから。自分が嫌なこと誰かにしたくないもの」

「…………」

「ね、約束してね、今言ったこと」


 女は念を押すように、そう言った。

 傾きかけた日に当たるその顔は、どこか晴れ晴れとしているように見えた。


「ああ、約束する」


 煙羽は、しっかりとそう答えた。

 女は答えを聞くと、嬉しそうに微笑んだ。心からの綺麗な、笑い方だった。


「ありがとう、優しいね。……ああ、君を彼氏にしたらよかったな」

「は? いや」

「冗談だよ」


 女は、楽しそうに声をあげて笑った。それが、彼女の本来の性格なのかもしれない。


「……ね、最後に私の名を呼んでくれるかな?」

「いいけど」


 それを聞くと女は目を閉じた。笑顔のままで、つぶやく。


笑実えみ、だよ」


 笑実は目を閉じたまま、祈るように胸に手を当てた。


「そして、君の名前は?」


 煙羽、と答えようとして彼はやめた。

 彼女に答えるなら、影浪としての名前よりもの方が合っているような気がしたのだ。


翔希しょうき、だ」


 久しぶりに口にしたその名前は、静かな屋上に響いた。

 ワタリは驚いたように、煙羽を見つめたが、その名を口にしたことについて何も言わなかった。

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