第6話 影浪と人

「無事でよかった、お前も、その絵も」


 沙希さきの絵を覗き込みながら、夕雨ゆうさめは言った。

 その声を聞いて、沙希は夕雨に顔を向けた。その目は迷うように左右に揺れたが、やがてまっすぐに夕雨に向けられた。


「ねえ、今の……その、何だったの? 夢ではないよね?」

「…………ふむ」


 夕雨は、ワタリにちらりと目を向けた。

 ワタリもその視線に気づいたが、何も言おうとはしなかった。ワタリの反応を確認すると、夕雨は改めて沙希に目を向けた。


「そうじゃな……。今、起きたことは夢ではない。ちゃんと光も風も感じたであろう?」

「…………」

「今お前が見た、白いもの――あれはな、わかりやすく言うのならば幽霊じゃ。我らは幽魂ゆうこんと呼んでいるが」

「幽、霊……」


 幽霊なんてそんな馬鹿な。反射的にそう考えてから沙希は首を振った。夕雨に会ったばかりの彼女なら、きっとそう思い込んだままいただろう。 しかし今は違う。

 夕雨の言う通り、光はまぶしかったし風も肌で感じた。信じたくはないがこれは現実なのだ。

 ゆっくりと考えて、沙希はあれを現実であったと認めることにした。夢にしてはあまりにも現実的だった。

 それにあの光は確かに、人の形をしていた。幽霊、と言われると納得できる気もした。その幽魂は、七色の光になって消えてしまったわけだ。

 葬送と言っていたのを沙希は思い出した。それならあの幽霊は、天にってしまったということになるのだろう。


「……まるで死神みたい」


 思わずそうつぶやいてしまっていた。


「死神か? ……それはそれで別におるんじゃな、愛想がないのが」


 夕雨は、なぜか渋い顔をしながらつぶやいた。


「……あまりぼやかないほうがいいですよ。見ていたらどうするんですか」


 ワタリの冷静な声に、「じゃな」と夕雨はうなずいた。それから、


「違うな。我はな、影浪かげろう、という存在じゃ。輪廻から外れ、影の世を放浪するもの」


 そう自らを名乗った。


「影、浪……?」

「あの幽魂みたいにな、魂には未練があってあの世に逝くのを拒みこの世に留まるものがいる。そんな幽魂は未練が達成されればあの世に逝くし、多くはそうやって無事に成仏する」


 夕雨は、つらつらと非現実的な言葉を並べていく。沙希はそれを黙って聞いていた。聞くしかなかった、に近いかもしれない。


「でも中には長い間、強い想いを抱いて、この世に残るものもいる。そんな奴の中にはな、もはや理性を失ってただその未練に従って動いてしまうものもいる」

「それが、さっきの?」

「そうじゃ。自分が何者かも忘れ、ただただ未練に縛られてあの世に逝けずじまいじゃった。それを、我はあの世に導いたのじゃ」

「でも、未練はどうなるの? その人の」


 沙希の問いに、夕雨は目を細めた。


「……この世に長い間とどまってしまう魂の大半は、もう誰の手によっても果たされない未練を持つことが多い。だから、その想いだけでも聞きとどめて、永遠に続くであろう未練の縛りから解いてやるしか我らにはできない」


 夕雨は空に目を向けた。


「……悲しいがの」


 夕雨の言うことは、沙希には難しいことばかりだった。

 気分を変えようと思い、沙希はゆっくりと立ち上がった。近くに転がっているカバンを、自分に向かって引きずる。


「――それで」

「ん、なんじゃ」


 カバンを持っていない手で、沙希は絵を見せた。


「あの幽霊さんは、この絵から出たように見えたけど、なんで? 私、恨まれるようなこと、した?」


 もちろん沙希には、そんな覚えはまったくない。


「それは違うから、安心せよ。……だが、偶然ではないと思うぞ。幽魂がその絵に宿ったのは」

「宿る?」

「幽魂は、人の想いが込められたものに宿ることがある。その想いを吸い取って、自らの力にするために。……つまりな」


 夕雨は、沙希の絵に右手で軽く触れた。


「幽魂は間違いなく、この絵に込められたお前の想いに引かれたのじゃ」

「つ……! それって」

「うむ、言わなくても、わかるな?」


 その言葉に、沙希は黙ってうつむいた。そんな彼女を見ながらも、夕雨は言葉を続ける。


「この絵にはきっと、夢を諦めたくない、というお前の想いが込もっていたのだろう。もしかして、この絵を見ながらお前はそんなことを考えていたのではないか? それなら、想いが宿ったとしてもおかしくはない」

「でも」

「――なあ、沙希。我はお前の話を聞いていて、思ったのだが。お前、その気持ちを誰かに話したのか? 家のものに話したのか?」


 沙希は、うつむいていた顔をばっと上げた。その目は大きく見開いている。


「それ、は」

「話しておらぬのじゃな?」

「だって、きっと、言っても無駄だよ。あのとき、私の希望なんて聞こうとはしなかったし――」


 そう。沙希の母はあの日、彼女の意志を聞くことなく、あのパンフレットを差し出した。


(きっと、そんなことをしても――)


「思い込んでおらぬか」


 ぴしっとした声で、夕雨は沙希の言葉を遮った。


「思い込んでおるのだろう。きっと、無駄だと。……やってみればわからぬであろう?」

「でも」

「話してみよ。そうでないと、また、幽魂がその絵に憑くぞ」

「おどし、それ……?」


 その問いかけに、いたずらっぽく夕雨は笑った。


「半分の。――つまりな、我が言いたいことはな、本当の気持ちは、想いは、ごまかしきれぬということじゃ。その絵の想いのようにどこかできっとしみだしてしまう」


 夕雨の腕の上で、何度かワタリがはばたいた。


「我が思うにどこかで気づいておるのではないかな、お前の親は」

「…………」


 ワタリが小さく鳴き声を上げた。その声を聞いて、夕雨は空を見上げた。


「為せるうちに為せることをせよ。それが生きるものお前たちの特権じゃ。死したものにはもうできぬ」

「夕雨……」

「まだ、間に合うはずじゃ」


 確かに、その通りだった。まだ、この時期は進学先を確定しているわけではない。もし変えるのなら、遅くなるだけ沙希には不利になるだろう。


「私……は」

「まあ最後に決めるのは、お前なのだがな」


 優しげな夕雨の声に、再びワタリの鳴き声が重なった。夕雨は空から目を離すと、考えこんでいる沙希に顔を向けた。


「……さて、我はもう戻らないといけない」


 そういえば、時間がないと言っていたなと、沙希は思い出した。


「素敵な絵を見せてくれて、ありがとうな」

「あの、本当にもう……?」

「うむ、時間がないのじゃ」


 沙希は答える夕雨に向かって、一歩踏み出した。


「あの、また、会えるかな?」


 勇気を振り絞って、夕雨に話しかける。


「またあなたと話したいな、この公園で」

「…………」


 夕雨は何も言わずに、ただ悲しげに目を細めた。


「悪いな。きっと、無理じゃ」

「でも」


 夕雨は黙って首を振った。

 沙希はそれを見て、もうそれ以上何も言おうとはしなかった。


 大切なことをしてくれた夕雨に、今度会った時にでもお礼がしたいと思ったのだが。どうやらそれは叶いそうにない。

 思えば沙希は、この公園に何度も来たことがあるのに、今まで夕雨に会ったことがなかった。


 やはり夕雨は今日、何か用があってこの町に来ただけで、いつもは違う場所に住んでいるのだろう。

 そう考えると今日会えたことは奇跡とも言えるのかもしれない、と沙希は思った。


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