月が綺麗ですね(ジャンル:恋愛)

月が綺麗ですね

 気が付けば、窓の外はすっかり暗くなっていた。

 そろそろ完全下校時刻も近い。いい加減帰らないと、また見回りの先生に怒られてしまう。

 長机の向かい側に座るあいつの方に目をやると、まだ生徒会に提出する書類と格闘している最中だった。難しい顔をしながらウンウンと唸っていて、外がもう真っ暗なことにも、下校時刻が近いことにも、全く気付いている様子はない。


「ねぇ。外、真っ暗だよ? そろそろ帰らない?」

「ん~? ……って、うお!? 本当に真っ暗じゃんか! やばいやばい、早く帰ろうぜ!」


 そうして、二人して慌ただしく机の上を片付けてから部室を後にする。ここ最近、すっかりおなじみとなってしまった、私とあいつの日常の光景だ。


 ――私達は演劇部員だ。秋に先輩達が引退して、あいつは部長、私は副部長を任されることになった。

 私もあいつも、今まで部長や副部長なんてやったことが無かったので、この一ヶ月あまりは悪戦苦闘の日々が続いている。


「まったく、こんなに大変だとは思わなかったよな~」

「本当にね。先輩達はよく何でもない顔してこなしてたよね……」


 今更ながら、先輩達の偉大さを思い知る。引退してからもちょくちょく顔を出して相談に乗ってくれてはいるけど、向こうは受験生だ。あまり頼るわけにはいかなかった。私達が頑張らないといけない。


 職員室に部室の鍵を返すまでの道すがら、明日以降の部活のことや、とりとめもない話題をあいつと話し合う。部室棟から職員室までは結構な距離があるので、雑談でもしていないと暇でしょうがないのだ。

 けれども――。


「……」

「……」


 最初の内は会話が弾んでいたのに、いつの間にかお互い無言になってしまっていた。

 いつもこうだ。お互いの間に流れる雰囲気は決して悪くないのに、なんだかモヤモヤした気持ちが湧いてきてしまって、会話が続かなくなる。


 以前はもっと、気さくに話せていたはずだ。けれども、いつの頃からか、お互いに適切な言葉を探り合うような、そんな微妙な距離感が二人の間に生まれてしまっていた。

 多分、部長と副部長として二人きりになる時間が増えてからだ、こんな雰囲気になってしまうようになったのは。二人きりで向かい合う時間が増えたから。お互いのことをもっとよく知ってしまったから。

 「部活仲間で気のおけない友人」だと、ずっと思ってきた。でも、本当の所は少し違って――。


 部室の鍵を返した後、昇降口へ。その間も、私達は無言のままだった。本当はもっと何か話したいのに、きっかけが掴めない。

 そう、きっかけさえ掴めれば。そんなことを考えながら、あいつよりも一足先に昇降口を出た私の目に、何か強い光が飛び込んできた。


 ――月だ。

 早くも空に昇っていた月が、煌々と輝いていた。満月に近い、まんまるの月が。こんなに綺麗な月を見たのは、いつ以来だろう?

 背後に、あいつが昇降口から出てくる気配を感じた。だから私は、当然のように――。


「見て、月が――」


 あいつに「月が綺麗だよ」と教えようとして、我知らず途中で口をつぐんでいた。

 なんでもない言葉なのに、何故? そう自分の胸に問いかけた時、ようやく理解した。私があいつに感じていたモヤモヤとした気持ちの正体を。


 こんな話がある。

 かつて、夏目漱石は英語の”I love you.”を「月が綺麗ですね」と訳したという。だから、それを知る人間にとっては「月が綺麗ですね」という言葉は愛の告白と同義なんだと。

 実際には、この話は後世の創作で、漱石は「月が綺麗ですね」を愛の告白に例えてはいないらしい。けれども、たとえ後世の創作であっても――漱石本人が言っていないのだとしても、このエピソードを知っている人間にとっては、「月が綺麗ですね」は愛の告白たり得てしまう……かもしれない。


 そんな一瞬のひらめきが、私に口をつぐませたらしい。

 もしあいつが「月が綺麗ですね」という言葉に隠された意味を知っていたら、「愛の告白」だと思われてしまうかもしれない、と。

 もちろん、誤解されたのならきちんと釈明すればいい――けれども、実際の所、全然誤解ではないのだ。だって私は、あいつを――。


「お~! こりゃまた月が綺麗だな!」


 私のそんな気持ちを知ってか知らずか、あいつが呑気にその言葉を口にした。

 果たして、あいつはその言葉の意味する所を知っているのだろうか? その答えを確かめる勇気は、今の私にはなかった。

 ――今はまだ、確かめるのが少し怖い。


 だから、ただ「そうだね」とだけ答えて、その後は無言で月を眺めていた。

 あいつもそれ以上は何も言わず、私の横に立って月を見上げていた。

 

 降り注ぐような月光はまるでスポットライト。

 静かに佇む私達は、さながら舞台に立つ役者のよう。

 演じるのは、私とあいつの二人芝居だ。

 

 でも、私達の物語がどんな未来を描くのかは、誰も知らない。

 台本はまだ白紙で、そこに物語を紡ぐのは他ならぬ私達自身なんだから――。

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