第21話 エッセイ&小説――両作並び立たず?


 カクヨムでは、小説のほか、創作に対する思いやサイトのあり方などを論じたエッセイが数多く公開されている。

 内容は、書籍化されていてもおかしくないような重厚なものからツイッター感覚で思いつくままを綴ったような軽いものまでバラエティに富んでいて、何百、何千といった★が付された、超のつく人気作品も見受けられる。


 先日、そんな人気作のいくつかを覗いてみた。

 いくらたくさんの★が付いていても、書き手の思想や主張には「同調できるものとできないもの」があるため、評価は

 ただ、それは予想していたことであって、ある意味、仕方がないこと。


 そんな中、不思議に思ったのは、エッセイが人気になっている書き手であっても、その小説は「あまり人気がない」ということ。


 同じ創作物であっても小説とエッセイは別物で「得手・不得手」があるのかもしれない。でも、エッセイで知名度が上がれば、その書き手の小説にも興味を示す者がいてもいいのではないか? エッセイを読んだ者の中には「小説も読んでみよう」と思う者がいてもおかしくない気がする。


 以前このエッセイの中でも取り上げたけれど、ボクがカクヨムに来て間もない頃、公開した長編小説が全くと言っていいほど読まれなかったため、比較的読まれやすい掌編に力を入れたことがある。結果として、掌編の読み手に長編にも目を通してもらうことができた。

 それと同じで、エッセイで読み手を引き付けて小説を読んでもらうといった流れがあって然るべきだと思う。


 実際、人気エッセイストの小説にいくつか目を通したところ、どの作品も筆力はボクなんかよりずっと優れていて、ストレスを感じるものではなかった。

 にもかかわらず評価がされないのは、穿うがった見方をすれば、エッセイでの素晴らしい主張が読み手の期待値を上げてしまったからなのかもしれない。

 つまり、の存在が、読み手に「こんなに素晴らしい主張をしている書き手の小説なのだからさぞかしスゴイのだろう」といった先入観バイアスを植え付けることで、厳しい目で見られたのではないか?


 確かに、ボクも最後まで読んだ小説は一作もなかった。

 理由は、筆力の高さは認めたものの「読みたい」といった興味が湧かなかったから。「勉強のために読んでもいいかな?」と思ったものの、その作品に拘る必要はないと思ったのも事実。


 カクヨムには書き手が圧倒的に多く、創作論系のエッセイを読むのはほとんどが。彼らは、その手のエッセイを「一服の清涼剤」ととらえているのかもしれない。具体的には、エッセイの主張に自らの創作論や執筆スタイルとの同一性を見出すことで、「安心」や「自信」を得たいと考えているのではないか?


 もしそうであれば、エッセイを読めば彼らの目的は達成されるわけで、当該書き手の小説まで目を通す道理はない。仮に目を通したとしても、先入観バイアスが働くことでそれほど評価されないというのも頷ける。


 エッセイと小説が並び立たないのは「餅は餅屋」ということのほか、同じ書き手の作品間に奇妙なしがらみが形成され、互いがマイナスに作用しているからなのかもしれない。あくまで妄想の域を出ない話だけれど。



 RAY

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