第18話 語尾が気になるお年頃


 小説を書いていると、文章の語尾について悩むことがよくある。


 悩んだ末に「これでいい」と思いながら、少し時間を置いて読み返すと違和感を覚えて修正してしまう――が、後日、改めて目を通したとき、修正したところがしっくり来なくて手を入れてしまう。そんなことを繰り返した結果、最初の言い回しに戻っていることがある。

 推敲と言えば聞こえはいいけれど、ものすごく無駄な時間を費やした気がして思わず溜息が出る。


 具体的に言うと、文章の最後が「です」や「する」といった現在形(進行形)で終わるか、「でした」や「した」といった過去形(完了形)で終わるか。


 本格的に小説を書くようになる前、ボクは役所や学者が書くようなお堅い文章――接続詞や修飾語を多用した、「いかにも冗長」といった文章ばかり書いていた。

 ただ、小説では、読み手ができるだけストレスを感じないよう、適度に文節を切ることを心掛けてきた。

 その結果、情景や人の動きを描写するときなど、短い文章が並列する場面で、各センテンスの語尾を気にするようになった。


 今一つピンと来ないと思うので、例文を使って説明する。

 以下は、ボクの小説「東京歌姫トウキョウディーバ」の抜粋。分かりやすくするため、センテンス毎に段落分けをした。



 清志郎の顔を覗き込む響の口から言葉が漏れる。

「泣かないでおくれ。あたいまで悲しくなるじゃないか」

 その瞬間、都会の喧騒が消えた。

 清志郎はゆっくりと顔を上げる。

 目の前で両膝をついているのは藤崎響に間違いない。

 しかし、さっきまでの彼女とはどこか違う。

 その表情かおは、清志郎が知っているにとてもよく似ていた。



 各センテンスの語尾に進行形と完了形が入り混じっているのは、おそらく試行錯誤の結果。「おそらく」と言ったのは、無意識のうちに何度も修正していると思うから。

 ちなみに、語尾を統一すると以下のようになる。



 清志郎の顔を覗き込む響の口から言葉が漏れた。

「泣かないでおくれ。あたいまで悲しくなるじゃないか」

 その瞬間、都会の喧騒が消えた。

 清志郎はゆっくりと顔を上げた。

 目の前で両膝をついているのは藤崎響に間違いなかった。

 しかし、さっきまでの彼女とはどこか違った。

 その表情かおは、清志郎が知っているにとてもよく似ていた。



 ボク的には、流れが単調になったことで「素人の小説」が「小学生の作文」に成り下がった印象を受ける。

 実は、そんな悪しきイメージを持ち続けていることが、執拗に語尾を気にする理由なのかもしれない。


 書き手の中には、独自の法則が頭にインプットされていて、終始一貫、論理的に文章の構成を行える人がいるのだろう――が、悲しいかな今のボクには、そんな高等テクは実装されていない。


 こんなことを気にしているのはボクだけで、バカバカしいと思われるかもしれない。ただ、気になり出すと背中のあたりがむずむずして放って置けなくなる。

 これからも小さなことに悩んで試行錯誤していきたい。「回り道をすることで得るものがある」。そんな風に自分に言い聞かせながら。



 RAY

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る