第17話 自分、自分、人。

 後ろの男の濡れた傘が膝に当たる。雨水が制服に染みてきては、湿り気と共に不快感が広がった。

 紀雄は吊り革に掴まったまま、大声で叫びだしたい気持ちに駆られた。

 なんで電車ってのはこんなに窮屈なんだ! みんな何を思って耐えてるんだ?

 あー、バイクに乗りてぇ。テストが終わるまで佐々原と会うことはねぇし、ていうか勉強しなきゃいけねぇし……。

 ちくしょう、雨めっ。

 大粒の雨が打ちつける車窓。紀雄はそこに映る自分の顔を睨みつけては、窮屈な箱の中を耐えた。



 電車を降りれば、雨はさらにひどくなっていた。どうにもできない自分を、まるであざ笑っているようだ、と紀雄は思う。嫌々傘を開いては、駆け足で学校まで急いだ。

 下駄箱に着くと、阿津谷稔が、なぜか自分の靴箱の前で立ち尽くしていた。紀雄はただ一瞥して、外靴から上靴へと履き替える。

 そして、何事もなく通り過ぎようとしたが——

 イジメを受けてるのよ……。

 芙雪の言葉を思い出して、立ち止まってしまった。


「……おい、阿津谷」


 突然話しかけられたことに驚いたのか、阿津谷の身体がビクッとなった。


 こいつ、いつもビクビクしてんな。ホント、イジメられそうなツラだぜ。


「よ、吉城くん……。な、なに?」

「なにって、お前が何してんだよ。下駄箱の前で立ち尽くして。不審者みてぇだぜ」

「僕は……なんでもないよ」


 そう言って歩きだす阿津谷の足元を見て、紀雄は彼の肩を掴んだ。


「待てよ。お前、上靴履いて——イテッ!」


 突然、頭上から学生用のカバンが降ってきた。たくさんの教材が入っているのか、もはや軽い鈍器だった。


「だ、誰だ、いきなり! 俺に喧嘩売ってんのか!」


 頭をさすりながら振り向くと、そこには芙雪が立っていた。紀雄はあからさまに苛ついて、「なんだ、伏見かよ」と吐いた。


「お前なぁ、洒落になんねぇぞ、そのカバン。脳みそ飛び出るかと思ったぜ」

「あんたの頭には、飛び出るほどの脳みそ詰まってないでしょ」

「んだと、コラぁ! ちゃんと詰まってるよ! カニ味噌並みになぁ! しかも毛ガニも顔負けの量!」

「ハァ……相変わらずバカ」


 疲れたとでも言いたげにため息を吐いて、芙雪は横を通り過ぎていく。自分から絡んできといて、なんで疲れてんだ、この女は。ため息吐きてぇのは、こっちだっての。

 芙雪から目線を外して、阿津谷へと移す。が、もうそこに阿津谷はいなかった。


「あれ……あいつ、いつの間に消えたんだよ。ったく、なんなんだ、どいつもこいつも」

「あんたって、ホント空気読めないわよね」


 悪態をついているのが聞こえたのか、芙雪が背中越しに声を発した。


「空気? なんの空気だよ」

「教えてあげるわ」


 それだけ言って、芙雪はまた歩き始めた。声のトーンが、さっきよりも落ちていた気がした。


 紀雄は、未だ謝られてないことについて不満を抱きながらも、彼女のあとをついていった。そして、彼女の席に着いたところで、「はい」と携帯を見せられた。

 そこには、阿津谷に対する悪口が書き連ねてあった。

「なんだ、これ。実は、お前がイジメの黒幕だったってこと?」

「違うわよ、バカ! このクラスの一部が作ってる、グループチャットよ。見てわかるでしょ。金場たちよ、金場たち」

「お前、見て見ぬフリしてる時点でお前も同罪だろ。止めろよ」

「そんなことできるわけないでしょ。私はイジメられたくないの」

「うわぁ、なんて素直な奴……」


 紀雄は芙雪の性格に少し感心して、もう一度携帯の画面に目を向けた。

 なるほど。表面的じゃないっていうのは、こういうことだったのか。だけど……。


「あいつ……上靴履いてなかったんだぜ。忘れたわけじゃなさそうだし……」

「そうね。たぶんイジメはエスカレートしてるわ。だからあんたに頼んでるのよ。ニコニコバレーに出てって」

「またそれかよ。ワリィけどサボるって言っただろ。俺は暇じゃねぇんだ」

「あ、そう。私、良いこと聞いたんだけどさぁ……」


 芙雪はスカートから出ている足を組んで、もったいぶるように間を置いた。紀雄が「なんだよ」と嫌な予感を抱きながら催促する。


「あんた、今問題起こしたら親呼び出されて、夏休みは一人補習なんだってねぇ」


 これ以上ない悪の微笑を浮かべながら、芙雪は楽しそうに言った。紀雄は狼狽えたが、どこから情報が漏れたのか、すぐに察した。というか、このことは誰にも告げていないし、知っているのは紀雄にそれで脅しをかけた一人だけしかいない。つまり、担任の先生だ。


 あ、あのハゲオ……よりによってなんで、この女に話しやがったんだ。一番教えちゃいけない奴だろ。


「悪いけど私、生徒会役員でこのクラスの学級委員だから、あんた以外の人間にはそれなりに信用されてるのよね。秘め事を教えてもらえるぐらいに」


 紀雄の心を見透かしたかのように、芙雪が得意気に答えた。


「それで、俺に何しろってんだよ。ワリィけど、ダサい名前のバレーには——」

「ニコニコバレーに出たくないなら、出なくてもいいわよ。ただし、阿津谷のイジメをなくしてくれたら、だけど」

「はぁ⁉ またなに面倒くせぇことを……」

「学級委員である私のクラスでイジメが起きているのは喜ばしくないことだし、もし私がイジメをなくすことができたら、私の評価はさらに上がるわ。先生たちは皆、気づいているけど見て見ぬフリを決め込んでいるから」

「……ホント素直な奴だな。俺がイジメを止めるのに成功しても、その功績はお前が貰うし、仮にイジメを止められなかったとしても、クラスポに吉城紀雄を出させることになるから、どっちにしろお前は先公どもから称えられるってわけだ」

「あら、吉城のくせにそこまで気づいたんだ」


 見くびっていたこと、素直に謝るわ。

芙雪は目を細めて、呟くようにそう付け加えた。

 学校に来ない吉城をどうにかしてくれと、先生から頼まれているのだと、数日前に芙雪は言っていた。最初から、阿津谷のイジメを機に、紀雄もどうにかしようという魂胆だったのだろう。

 この女にとって、俺も阿津谷も自分の内申点を上げるための材料に過ぎないのだ。


「お前、いつか刺されんぞ」

「そうかもね。でも少なくとも、あんたも阿津谷も刺すような人間じゃないわ」


 芙雪はまた、全てを見透かしているかのように紀雄の目を見据えた。


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