第5話 夢①

 凪は時々、嫌な夢を見る。

 自分の手足が、指の先から崩れるようになくなっていく夢。しかもそれは中途半端に、いつも右手だけを残すのだ。凪はうまく動かせないその右手を使って、無様に地面を這い回る。そして何かを必死に探しているのだけど、結局見つけられずに、夢から覚めるのだった。

 その夢を見た朝は、いつも身体中汗びっしょりで、いつも以上に憂鬱な一日になる。あの事故のことを、嫌でも思い出してしまうからだ。

 カーテンを開けて太陽の光を浴びても、気持ちは晴れない。一日の始まり方として、これほど最悪なものはほかにないだろう。

 紀雄と出会ったこの日の朝も、その夢を見た。いつもより鮮明で、だから学校を休んだ。他人からすればそれだけの理由かもしれないが、凪には充分な理由だった。



 彼女が酔っ払いの車に撥ねられたのは、まだ中学さえ卒業していない、五カ月前の寒い一月のことだった。推薦入試の合格通知を受け取った、学校からの帰り道。

 ご機嫌で、気ままに鼻歌を奏でながら、今日の夕食はなんだろうかと、そんなことを考えている時——

 凄まじい衝撃を受け、最初は何が起きたのかわからなかった。気づいたときには冷たいアスファルトに倒れていて、視界の隅には血の赤色が見えた。右腕痛い……なんて思っているうちに、次第に意識は遠のいていった。

 そして次に目が覚めた時には、もう病室のベッドにいた。頭には包帯が巻かれ、右腕は大掛かりに包帯やらギブスやらで、ぐるぐると固定されていた。

 身体の節々が痛んで、気分も悪い。周りを見回すと、すぐ横に両親が座っていた。「凪っ!」と呼ばれて母に抱きしめられた。


「よかった、よかった……」


 充血した目から流れる涙。その下にはクマができていて、今まで見たことがないほど、母の顔は憔悴していた。隣にいる父の涙も、初めて見た気がした。

 そっか……私、車に轢かれたんだ。

 少しずつ、自分に起きたことを理解し始め、途端に、涙が頬をつたった。

 生きている。それをこんなにも実感したのは生まれて初めてだった。

 男性の医師が入ってくるまで、母はずっと凪を抱きしめていた。


「頭の怪我は、三針ほどの治療で済みましたが、右手と腕がかなりひどく……」


 石村という名札を胸につけた、四十代ぐらいの医師の顔が沈む。

 凪の右手は、人差し指と中指、それから薬指がそれぞれ二か所ずつ折れ、さらに右腕は開放骨折をしていると言われた。折れた骨が皮膚を突き破って、外に出る骨折のことを言うらしい。凪の場合、橈骨とうこつ尺骨しゃっこつという骨の両方が折れて、それが皮膚を裂くように破っているのだと、病室の中で医師はそう説明した。聞いているだけで、さらに気分が悪くなってくる話だった。母も頭をクラッとさせて、その肩を父が支えた。

 医師は言いづらそうに、今後の治療のことを続けた。

 本当は、凪のいない場所で、まずは両親にだけ話そうと、医師はそういう意向を示していたのだが、凪が「私も聞きます」とそれを止めた。病室に凪以外の患者はいなかったので、医師は渋々とではあるが、認めてくれた。

 ある程度の覚悟はしていた。自分の身体のことは自分もちゃんと知っておくべきだと思った。だけど実際に、医師の口からそれが聞かされると、抱いていた覚悟など呆気なく消し飛んだ。頭が真っ白になってしまった。


「こちらに運びこまれた時、電話でご両親には説明して了承を頂きましたが……開放骨折は骨髄炎を起こしやすいため、迅速に手術をする必要がありました。まずその点につきまして、仕方がないとはいえ、凪さんの意志を聞かずに、こちらのやり方で手術したことを許して頂きたいと思います」


 医師が頭を下げる。

 なんでそんなことで頭を下げられるのかわからず、凪は「いえ……」としか答えられなかった。


「それで、手術のほうですが、無事に成功はしました。ボルトで固定して、骨もちゃんとくっつくでしょう。しかし先ほども言いましたが骨折の具合がひどく、治っても腕や指の形が変形してしまう可能性があります。そして……凪さんの腕は、折れた骨が神経も傷つけてしまっていました。最悪の場合、固まったまま動かせないかもしれません。もし動かせても、おそらく、今までのようには——」

「それは……それはリハビリをしても、ですか?」


 震えている母の声に、医師はただ無言で頷いた。

 なに、それ……。それが成功なの? 成功するって良いことじゃないの? 動かせても前みたいには動かないって、どっちにしろ最悪じゃん。それに、絵は……。


「絵は……もう描けないんですか?」


 凪はいつの間にか泣いていた。

 石村医師は難しい顔をするばかりで、何も答えなかった。

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