第一章 雫は波紋を起こす―2

 木々のない場所で降る雨は、中々に強敵だ。


(でもやっぱり、雨は嫌えない)


 霧雨のように降りしきる雫の中を、アリムは急ぎ足で駆けていた。


 向かう先はゼーレの町外れにあるとある店。雨が降ろうと降るまいと人気がないその地区は、雨の中でどんよりとした重い空気をまとっている。まだ十代半ばにも達していない、子供である彼がこんなところをうろついていると知ったら、町の大人たちは本来眉をひそめなければいけない。そういう空気だ。


 ただ、そんな雰囲気も慣れれば特別不気味なものではなかった。ひと月この辺りに通い続けたアリムには、この地区特有の重さがだんだん別のものに見えてきたのだ。


 つまり、誰も友達が訪ねてきてくれずに意気消沈している子供のようなものに。


 無人の通りを静かな雨音と、それを乱すアリムの軽い足音だけが響く。


 時々フードの陰から空の様子を確かめるその目は、まだあどけなさを残す朗らかな茶色。胸に荷物を抱き、小柄な体で雨の下を潜り抜ける。


 やがて目当ての店が少年の視界に入った。

 この辺りでもっとも目立つ赤い屋根は、この暗い地区のまるで中心にいるかのように、威風堂々とそこに鎮座している。


「こんにちはーっ……あれ?」


 店のドアを開けたアリムは、きょとんと目をしばたいた。


「誰もいない……?」


 『ゼルトザム・フェー』は自称精霊具店だ。


 店内は使いどころに首をかしげる怪しい品物で雑然としているものの、人がいたら見逃すことはない。視界を塞ぐようなレイアウトはされておらず、そもそも一目で全体を見渡せそうなくらい小さな店である。


 いつもなら店の奥のカウンター(らしきもの)で、緑の髪の青年が読書している。入ってきたアリムに目を向けることもなく、声をかけたときのみ「あー」とか唸り声にしか聞こえない返事をくれる。アリムは気にせず自分の荷物をカウンター内に置かせてもらってから、すぐに店の商品の整理整頓にかかる。それがここひと月ほどの習慣だ。


 アリムはドアを閉めながら、念のため名前を呼んだ。


「トリバーさん。トリバーさん? フロリデさーんっ……二人ともいないのかな」


 視線は自然と、カウンターの奥にあるもう一つのドアへと向いた。


 そこは奥の部屋に通じている。店主フロリデ専用の居住部屋だ。


 店に誰かが入ってくるとそちらの部屋に分かる仕組みになっているらしく、アリムが店の手伝いにくればすぐに派手な女店主が顔を見せてくれるのだが、今日はそれもない。


 アリムは濡れた服を布で拭ってから無人のカウンターの中に入り、首をかしげた。


 店の鍵はかかっていなかったから、二人の内どちらかは必ず店にいるはずだ。

 となるとやっぱり奥の部屋なんだろう。そう思い、奥へ続くドアをノックする。


 案の定、向こう側で人の気配がした。威勢のいい女店主の声がして、しばらく待つとドアが開き、フロリデが顔を出した。


「ああアリム。悪いねェ、うっかりドアに〝風〟を置き忘れてたよ。今来たんだよね?」


 アリムは「はい」とうなずいた。

 フロリデは「ちょっと取りこんでいてね」と言った。


 まとめあげた豊かな黒髪、艶やかな白い肌。唇の下のほくろがとてもよく似合う、少しきつめの美人だ。柔和な顔立ちの者が多いゼーレでは悪目立ちする彼女は、それもそのはず、この辺り出身ではないらしかった。何となく聞くタイミングがなくて詳しくは知らないのだけれど。


 アリムが暮らしていた〝常若の森〟が『終焉の刻』を迎えてから、ひと月が経った。


 終焉とは言うが、まだ完全に消滅したわけではない。あのまま森で暮らすことも不可能ではなかったろう。


 だが、アリムは街で暮らすことを選んだ。


 昼間は伯母に紹介してもらったパン屋で働き、夕方からはフロリデの店の手伝いをしている。と言っても『ゼルトザム・フェー』は客がほとんど来ないので、実質手伝いのためというよりも、店の唯一の従業員であるトリバーに勉強を教えてもらうために来ていると言ったほうが正しい。


 あれから森には、数えるほどしか行っていなかった。


 森への愛着が消えたわけではない。むしろ逆だ。森と離れがたい心をうまくなだめすかすことができず、アリムは日々無理にでも用事を入れる。仕事や勉強に没頭する。


 それでも時々寂しくて森に行く。そのときは必ずアークとトリバーが一緒だった。ようやく見えるようになった精霊たちと戯れながら、枯れていく森の変化を見て、そうして――


 一刻も早くこの森に一人で訪れることができるようにと、強く思うのだ。


 まだまだ吹っ切れたとは言えない。

 自分がこれからどうしたらいいのか、明確な答えは見つからない


 行く先のおぼつかないアリムがそれでも笑っていられるのは、笑いの絶えない平凡な毎日のおかげだった。アリムを養子にしてくれたエウティス伯母も、アークも、トリバーも、さらにはフロリデも、特殊な生まれのアリムを当たり前のように受け入れてくれたから。


「雨、まだ止んでないのかィ?」


「え? あ、はい、まだ降ってます。きっと一日中降ると思います。今日は雪にまではならないんじゃないかって、パン屋のおじさんが言ってましたけど」


 フロリデは億劫そうな顔で腕を組み、ドアを開けたまま横の壁にもたれた。


 アリムは恐る恐る尋ねてみた。


「あの……雨、お嫌いですか?」


「ん? ああ、アタシはねえ……まあ髪が濡れるから好きじゃアないけど。何より雨が降るとトリバーが動かないンだよねェ。ただでさえの短気が、天気が悪いとそりゃァもう凶暴になるから。体動かさないクセに口だけひたすら回るようになるからねェ。そう言えば去年珍しく大雨だった日に精霊保護協会の人間がうちに怒鳴り込みに来たンだけど、トリバーが二十分にも渡る長広舌で追い返したっけ。ちなみにその二十分間の中に『面倒くさい』は実に二十七回言ったンだよ、大したもンだろ?」


 ……二十七回を数えたこの店主も大概だとアリムは思ったがとりあえず口には出さない。


「でも、トリバーさん今用事に出てるんじゃないんですか?」


 まあね、とフロリデは言った。


「でもアタシが用を言いつけたわけじゃない。自分の用事で出ていったンだよ」


 アリムは驚いた。あの青年に、本を読む以外の自分の用事があったのか!


 フロリデは急にふふっと口元で笑った。機嫌の好さそうな笑みだ。

 理由が分からず、アリムは戸惑った声を出した。


「あの……?」


「ああ、ごめんよ。――トリバーなら今頃花屋なりなんなりを渡り歩いてるはずサ。ま、じきに戻ってくるだろ」


「花屋……?」


「ところでアリム」


 ふと真顔になり、フロリデはアリムを見下ろした。「アンタ、以前は精霊保護協会に出入りしてたンだよね?」


「――――」


 咄嗟に返事ができず、アリムはしどろもどろでフロリデを見つめ返した。


 森の一件以来、精霊保護協会の建物には一切近づいていない。ゼーレの街の中で最も親しんでいた場所が、今では一番遠い場所だ。


 事情をある程度知っているフロリデは、なだめるような優しい口調で先を続けた。


「今、奥に病人がいるンだよ。どうも協会の子らしいし、協会には報せたから、もうしばらくしたら迎えが来ると思うんだけどね。――ひょっとしたらアンタ知り合いじゃないかと思ったのさ。」


 女の子なンだけど、と言いながら肩で示すのは、奥の部屋。


「女性……ですか。僕、協会ではあんまり人と話さなくて……」


 答える声に緊張が入り混じった。


 教会の人間に一人きりで会うなよ、とアークに厳命されている。アリムとしても今協会の人間に出くわしてしまったら、どう対処していいのか分からない。トリバーに精霊術の基礎を習ってはいるものの、まだほんの初歩さえ形になっていないのだ。こんな状態で揉め事が起きたら、また誰かに自分を護らせてしまうことになる。


 一方的に護られる側になるのは怖かった。知らない内に精霊を犠牲にしていた、ひと月前までの自分を思えば。


 フロリデはアリムの様子を見て、考え深げに視線を虚空へ投げやった。


「まァアークの言う通り、うかつにアンタを協会に近づけるのはどうかとアタシも思うんだけどねェ……そうは言っても、アンタのことだから協会の人間一人一人を全員嫌ってるわけじゃないだろ? もし仲よくしてた相手がいるンなら、全部門前払いもどうかと思ってサ。今部屋にいるのは十七・八の女の子だよ。服に入ってた名前は『ルクレシア』、髪は空色で長く伸ばしてる。どうだィ?」


「ルクレ……シア……?」


 脳裏に閃く顔があった。


 その人と顔を合わせていたのは、考えてみればたったの一日だ。

 それでも、完全に忘れてしまえるほど印象の薄い相手ではなかった。むしろあのとき、彼女の存在はアリムにとってとても重いものだったのだ。


 ――数ある自分の異質さの中のひとつを、彼女はアリムに思い知らせたから。


「ルクレ、さん?」


 教会に連れて行かれたあの日。

 自分の世話をしてくれた、優しく朗らかな人。


 覚えている。窓を開けて「快晴ですね」と嬉しそうに言った人。空色の長い髪は太陽の光によく馴染んでいて、平和そのものの空気を生み出していた。あのときのアリムの心とは裏腹に。


 まさか彼女だろうか。胸の奥がにわかに騒がしくなった。

 仲がよかったわけではない、他人としか言いようがない。でも、でも――


「今すぐでなくてもいいサ、アリム。顔を合わせるかどうか店番しながら考えな」


 そう言って、フロリデは部屋に戻ろうとしたのか、もたれていた壁から体を起こした。


 アリムは咄嗟に女店主の腕を掴んで、声を上げた。


「会います! 知ってる人とは違う人かもしれないですけど、あの、」


 うまく説明できないアリムに、フロリデはにっこり笑って、


「アタシも一緒にいてあげるよ。それならアークも文句はないだろ」


 アリムは顔を輝かせ、「ありがとうございます!」と深く頭を下げた。



 初めて見るカウンターのドアの向こう側は、思いのほか整然としていた。むしろフロリデのイメージからすると質素すぎるほどに、きれいにまとめられている部屋だ。


 ベッドは一人用のものがひとつ。もちろんフロリデ専用なのだろう。


 そこに、一人の少女が横たわっている。


「熱もないし、ひょっとしたら案外早めに目覚めるかもしれないねェ。どうだいアリム、知ってる子かィ?」


「――はい」


 ベッドから一歩退いた場所に立ち、アリムはその人を見下ろした。


 目を閉じている顔は初めて見る。服も、協会のローブではない(多分フロリデが着替えさせたのだろう)。けれど、どうやら間違いなさそうだった。


 空色の髪をした『年上』の少女は、眠っていてさえ相変わらずふわふわと平和な雰囲気を身にまとっている。


(ルクレさん)


 彼女の笑顔は自分でも驚くほど鮮明に思い出せる。きっとあのときの自分にとって、あまりにも皮肉な表情だったからだろう。伯母の身を心配し、協会に対してもアークやトリバーに対しても疑心暗鬼になり、自分の状況さえ理解できずに混乱の渦の中にいたアリムの目の前で。

 何の憂えもないかのように、朗らかだったあの笑顔。


 アリムの硬い表情を見たのだろう。フロリデは「友達ってわけじゃァなさそうだねェ」と苦笑する。


 アリムは首を横に振った。


 友達ではない。


 けれど憎いわけでもない。こうして彼女を見た今実感する。彼女に会いたいと思ったのは、そんな気持ちのせいじゃない。


 もしもちゃんとルクレと、敵対心なく平和に話せるのなら。

 それが許される状況なら、聞いてみたいことがある。


 ――あのときのルクレは森とアリムの状況を知っていたのだろうか。

 そして今、森とアリムのことをどう思っているのだろうか――?


「おっと」


 ふと、フロリデが声を漏らした。「丁度いいね」


「あ……」


 まるでアリムが来たことに気づいたかのように。

 ベッドの上のルクレは身動きし、そしてゆっくりと瞼を上げた。

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