第5話 ファースト・ファンレター

 3月下旬。

 桜が徐々に咲き始めた河川敷に、鉛筆がはしる音が微かに聞こえる昼下がり。

 瓶底のように分厚い伊達眼鏡は少女の視線を完全に覆い隠していた。

 スケッチブックに描かれているのは桜舞い散る風景ではなく、誰かの似顔絵だった。

 その似顔絵は、男性であるという点を除いたら特徴らしい特徴が無い。しかし眼を画き込もうとしたところで手が止まる。

 あの人には特徴が無いと言ったが、実は一点だけ、外見では無いがハッキリとした特徴があったのだ。

 彼の瞳には光が宿っていなかった。

 まるで人形のように意思を、心を持たない、覗き込めば奈落へと落ちてしまいそうな眼。

 だがそれと同時に、その奥に何があるのか覗き込みたくなる魅惑の眼。

 今にして思えば私も、その深遠に惹かれてしまったのだろう。

 悔しいのは、その彼の心の隙間に入れなかった事と、自分の画力ではそれを表現する事が出来ない事だ。

 前者は、自分もまた一介の乙女なのだと自覚させられた。

 そして後者は芸術家として、自分はまだまだ未熟であるという事を思い知らされる。

 最後に総士と別れてから、一週間もの間、緋色はアトリエに閉じこもり激情のままに作品を描き続けた。学校にも行かず、寝食さえも忘れて、ひたすら筆を踊らせ続けた。

 やがて限界を迎えた彼女の体は糸が切れたように動かなくなり、そのまま病院に担ぎ込まれた。

 原因はただの疲労。しかし未成年を働かせている以上、社長と担当である如月は医者と労働基準監督署から釘を刺されてしまっていた。

 二日ほどで退院した緋色は再び筆を手にとってキャンパスに向かい合おうとしたが、何も描けなかった。

 いや、描けなくなっていたのだ。

 こうなった心当たりは幾らでもある。

 その大部分は、やはり総士の事なのだろう。

「こんなに弱かったのか、私」

 スケッチブックを閉じながら晴天を見上げる。

 意味など無い。

 ただ最近はずっとこうだ。

 一応スケッチやラフを途中まで描くものの、直ぐに心の絵の具が乾いてしまい、幾らイメージしようとしてもそれ以上線が続かない。

 試しに少し描いては、また少しと、何回にも分けて描いてもみたが、ふと全体像を見直すと理想と違う絵がそこに有った。ボツだ。

 久しぶり、且つ今まで一番大きなスランプ。

 仕事の事は先の入院の一件もあり、しばらくはスローペースにする方向で話が纏まっている。

 根本的な解決にはなっていないが、それでも考える時間を与えられたのはありがたい話ではあった。

「時間が解決してくれる・・・・・・無理でしょ」

 これ以上ここにいても何も得られないと、諦めて立ちあがり河川敷を後にする。

 行くあて等はない。

 いつもの喫茶店に行っても良かったが、もうあそこに総士は現れないような気がする。

 彼に会いたい。

 会って、会ってどうする?

 告白をすればいいのか?

 いいや、彼女持ちだし、それに向こうだってこれから新しい生活が始まるだろうから迷惑だろう。

 そもそも恋人になってもらえば問題が解決するのか?

 確かに彼氏とかできた事がないから、色々と初めての経験ができるだろう。

「うん、それはいい刺激になる・・・・・・いやいや、なるけども、そうじゃない!」

 色々の内容が妙に肌色とピンク色の妄想に偏っている事に気が付き、慌てて頭を振る。

 これじゃあまるで思春期の男子みたいじゃないか。と自己嫌悪に陥りながら、今まで歩いた事のない路地に入っていく。

 何か一つでも新しい発見があれば良し。何も無くても別に困る話でもない。

 この辺りはアパート等の集合住宅が多く立ち並ぶ住宅街で、用事がなければ特別立ち入るような場所でもない。少なくともこの辺りに住んでいる友人等もいないので緋色にとっては、近くても馴染みの無い場所という印象が強かった。

 聞いた話だと大学や駅にも比較的近く、家賃も安い事から、学生も多く住んでいるらしい。

「・・・・・・まぁ、都合よく居る訳も無いけどね」

 なんだかんだ言いながらも視線は彼の事を探し続けている。それこそストーカーみたいに。

 また自己嫌悪の項目が一つ増えた。

「・・・・・・帰ろう」

 嫌気に嫌気が重なり、やる気も失われる。

 近くにロシェカの停留所が無いか検索しようと携帯を取り出すと、一件のメールが入っている事に気が付いた。

 見覚えのないアドレスだったが、件名を見て緋色は知らないうちに涙が零れてきた。

『青柳総士です』

「お兄さん・・・・・・でも、どうして私のアドレス?」

 連絡先は交換していない筈なのにどうして送られてきたのか?

 その理由はメールが携帯とは別のアドレスに送られてきた事で気が付いた。

「そうだ、名刺」

 総士に渡した緋色の名刺には、当然連絡先も書かれており仕事用のアドレスも記載してある。

 基本的に仕事のメールは添付ファイルなどの都合でパソコンで見るのだが、緋色は送られてきた事を確認する為に携帯にも自動で転送される様に設定していたのだ。

 緋色はメールを開いて内容を確認する。


『星宮緋色様へ

 お久しぶりです。

 本当は電話か、直接会って色々と話したかったんですが、引っ越しや卒業の手続きなんかで忙しくて、時間もなかったので手紙で失礼します。

 いや、白状すると直接話したら、きっとまた話を脱線しそうだから、こういう形にさせてもらいました』

「手紙っていうかメールだし。いきなり誤字じゃないですか」

 ただ意図する所は何となく分かるし、妙に律儀な所は彼らしいなと苦笑した。

『堅苦しいのはこれくらいにして、まずは近況の報告を。

 何とか就職先が決まったよ。

 結局、彼女の実家が経営している片平かたひらグリーンハーベスト社っていう農業関係の会社で営業担当って形で働かせてもらう事になったよ』

「そっか・・・・・・でも、まぁ、それが一番確実な方法だよね」

 恐らく、賽を振りに行くと言っていたのはこの事だろう。ギャンブルと言うには、それ程分の悪い賭けではなかっただろうが、それでも就職先が決まった事は喜ばしい事だ。

『とりあえずは仕事を覚えて、全うに働けるようになったら色んな事にチャレンジしていく次第だ。ゆくゆくは海外にも進出して、食糧問題とかにも関わっていけたらいいなと思っている。

 そしたら貧困や飢餓に苦しむ子供達を一人でも少なくしたいっていう、俺の夢にも繋がるだろう?』

「そっか。そういう結論に行き着いたんですね」

 勿論、ただ食料を配るとか、そんな単純な話では無いだろう。それでも仕事とやりたい事を重ねる事ができる企業を選んだ総士の判断は正しいと思う。

『プライベートに関しては割愛させてもらう。他人のノロケ話とか楽しいものでもないだろ?』

「ええ、ええ!全く持って。人の気も知らないで!」

 恋する乙女は頬を膨らませながらプンプンと怒り出す。恋心を自覚するまでは楽しく聴けていた筈なのだが、今となっては当てつけにしか思えない。

『いや、俺自身の事は書くべきだったな。

 まず大学を卒業してから、直ぐに下宿を引き払って彼女の実家が有る茨城県の方に引っ越したよ。

 下宿の方も卒業したらさっさと退室しないといけなかったから、引っ越し前に挨拶している余裕が無くてな。すまなかった。

 今は茨城県のかすみがうら市にある彼女の実家の近所に部屋を借りてる』

「茨城県・・・・・・っていったら近い?それに、やっぱりもう引っ越した後だったんだ」

 元々学生向けのアパートに住んでいたのなら、仮に東京で就職していたとしても、この時期ならば当然の話だった。

 後で調べたが、総士が引っ越した場所は一応電車でも二時間前後でいける場所らしい。

『東京と比べたら何にも無いけど、農場を見せてもらった時は、何でも育てられるんじゃないかってくらい広い農場があってな。無限の可能性っていうと白々しく聞こえるかもしれないけど、やりがいはありそうだよ。それに実家の方と比べたら、何も無さは大差ないしね。まぁ、住み心地はいいよ』

 隙間風の様な冷気が心に一瞬吹き込んだような気がする。

「何でも出来る・・・・・・ね。農業・・・・・・畑や田園風景とかはあんまり描いた事無いかも」

 恐怖や悲しみといった感覚ではない。だが、何かが心に反応したのだ。

 不意に口角が上がる。やはり彼からはいつも刺激を貰えるのだと思うと、心が弾む。

 弾んでいる事が自覚できる。それがなんだが、とても嬉しくて、とても切なく思う。

『それから実家にも一度帰ったんだ。母親や妹の墓参りとか報告とかもしたかったからね。

 親父にも一応会ってきたよ。特に何か話した訳でもないんだけど、うん、生きてはいたよ』

 ここは少し話を濁されているような気がした。会って来たのは本当だとしても、何を話したのか具体的には書いていない所を見るに、あまり快い話ではなかったのだろう。

 だとしても緋色は否定するつもりは無かった。

 少なくとも改善する為に最初の一歩は踏み出したのだから、今はまだそれでいい。

『そっちは元気でやってるかい?

 如月さんや喫茶店のマスターや店員さんにも本当は挨拶したかったんだけど、そっちにまでメールを送るって言うのも何だか変な感じだし(そもそも連絡先も知らないんだが)、宜しく言っておいてほしい』

「はいはい、言っときますよ」

『最後に、君にお礼が言いたい』

「お礼?」

『色々と相談に乗ってくれたり、会社とかを紹介してくれた事。

 そして何より、決心を決める切っかけを作ってくれた事に対してだ。

 ありがとう』

「なによ・・・・・・私、別に特別な事なんか言ってないし。当たり前の事しか言ってないし」

 会った回数だって数える程しかないのに、そこまで感謝されることしたつもりもない。

 それでもお礼を言われるなんて、なんだかズルイじゃないか。

『また個展とかあったら見に行くよ。そん時はまた改めて礼を言う。君の絵も買えるくらい稼いでみるさ』

「そうね。だったら私も頑張って沢山描かないとね」

『それじゃあ、また、その内に。

 青柳総士より』

 一頻り読み終えたメールを閉じて携帯をしまう。

 目頭に流れていた涙を振り払い、彼女は走り出す。

 立ち止まってなどいられない。

 立ち止まっていたら、彼にはきっと追いつけないから。

 桜の花びらは春風に舞い上がり、彼女の背中を押す。

 たとえ儚く散った初恋だったとしても、それすらも追い風にして。

 

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